騎兵戦線「斜陽」
初夏の頃だ。
朝日が昇ってから数刻もすると、生温い空気が肌に絡みついてくる。鎧の下は汗で湿り始めていた。
「暑いなあ」
祥青は日除けの上衣を波打たせた。胸元から入ってくる風は程よく熱せられていた。
高い気温に閉口しながら腰に差した竹筒に手を伸ばす。ちゃぽんという音が思いの外大きかった。水筒の中身は残り少ない。我慢のしどころだった。唇を引き結んで水筒を戻した。
――カァ、カァ
鴉か。
祥青は目を細めて周囲を伺った。黒い凶鳥の姿はどこにも認められなかった。
疲れているのだろうか。
幻聴だとしたら由々しき事態だ。自分の体調を管理できない兵士など、誰も一人前とは認めない。ただでさえ部隊で最年少なのだから、いい笑いものにされる。迷いつつ、一度は手にした竹筒に触れる。
――カァ
「違う」
確かに聞こえた。姿は見えないが鼓膜はしっかりと震えた。先程より弱々しくなっていた。
鴉はどこにいるのか、確かめてみようと左右に首を振った。
いや、待て。
そんなことをしている場合ではないと思い直した。今は偵察の真っ最中だ。寄り道ができるほど時間に余裕はない。
そうは思ったものの、どうしてか気になった。
勘だ。
本能的なものが鳴き声の元を探るべきだと訴えかけてきた。
考えあぐねていると、泣き声はさらに小さくなった。祥青は意を決した。
むせかえる草の匂いを嗅ぎながら、下生えをかき分ける。弱まっていく声を頼りに、足を速めた。
緩やかな丘陵を過ぎ、足の裏が下り坂を感じた。
風が動いた。
真向かいから生温い空気があたる。
「うっ」
戦場で嗅ぎ慣れた血臭がした。祥青は視力の良さが自慢だったが、こればかりは現場を見なくても惨状が想像できる。
つま先の向こうに天幕が見えてきた。商隊が野営に使うものだ。平らな地形を利用して建てられている。
周囲に死体の群れがあった。切り傷を負った者が十数人。草原はすでに彼らの血を飲み干していた。
盗賊か。
武装した戦士の亡骸は護衛兵だ。鎧を身につけていない者たちは、その倍以上いる。何人かは良い生地の服を着ていた。
彼らの移動の足となる馬や馬車が見当たらなかった。盗賊に積荷ごと奪われてしまったのだろう。
――カァ
鴉の声は死体から聞こえた。半裸の若い女性が背中を切られて倒れていた。何をされたのかは一目瞭然だ。
祥青は鳴き声の正体に気づく。
女性の遺体を持ち上げると、幼子が母親に抱きついていた。顔が血で真っ赤だった。乾きかけの血液が目を覆い、開けることもできない様子だ。
弱々しい泣き声。
鴉の鳴き声と思ったのは子が母を呼ぶ声だった。
「大丈夫かい?」
なけなしの水を手のひらで受けて子供の口に持っていった。ひび割れた唇が湿る。
「母……ちゃん……」
はっきりとした言葉が発せられた。
祥青は子供を母親の遺体から引き剥がした。幼子は手足をばたつかせて抵抗したが、極めて弱々しいものだった。
――カァ
頭上で鳴き声がした。天幕の上に本物の鴉がとまっていた。血の臭いを嗅ぎつけ、屍骸を漁りに来たのだ。遠くで別の鴉の声も聞こえる。
祥青は子供を抱きかかえた。他に生きている人間の気配はない。この子が唯一の生存者だ。
「行くよ」
この場に留まっていても、不快な食事の場面に出くわすだけだ。子供の容体も気に掛かかった。
祥青は偵察を中断し、部隊に戻った。
部隊に戻るなり、祥青は隊長に殴り飛ばされた。
血の味が口の中に広がる。自分の倍はある隊長に胸ぐらをつかまれ、宙に引きずり上げられた。
「お前の任務はなんだ。言ってみろ!」
「索敵です。華の兵を探す……」
祥青の所属する部隊は、交戦中にある隣国の兵士たちを探していた。国土の西に隣接する敵国が華だ。国境線は草原にあり明確な目印はないが、昨年の侵攻以来、小競り合いが続いていた。
「わかっているじゃねえか。じゃあ、そのガキはなんだ。華の兵士か?」
首を振る祥青に平手打ちが見舞われた。
「遊びじゃねえんだ。俺たちは戦をしている。死にかけのガキを拾ってくるのは仕事じゃねえ」
「ですが、放っておくことはできません!」
見過ごしていたら子供は確実に死んでいた。生きながら鴉に食われたかもしれない。
「わかった」
隊長は祥青を投げ下ろした。
「今度だけだ」
「それでは!」
祥青は張られた頬の痛みを忘れ、直立不動の姿勢を取った。
「過ちを許すのは一度だけだ」
隊長は鞘走らせた剣を幼子の胸に突き立てた。子供は一瞬で絶命していた。
「この次、命令に背いたら罪を償うのはガキじゃねえ。お前だ」
祥青は何が起こったか理解できなかった。
「うわあっ!」
ようやく頭が巡り始めると、必死に子供の胸を押さえつけた。指の間から赤い血が溢れ続ける。いくらもしないうちに血の勢いが失われた。
幼子が声を上げることは二度となかった。
鬱々とした気分のまま、任務を遂行した。
夕刻に華国の兵士の痕跡を発見した。重い鎧を着込む彼らは、騎馬の重量がかさむ。一度馬の足跡を見つければ行く先を探るのは造作もなかった。
「夜襲をかける」
騎馬の数はおよそ百。味方の数とほぼ同数だ。隊長の号令一下、夜の戦いを仕掛けることになった。
「奴らの馬は疲れている」
軽装騎兵を主力とする央の国と、重装騎兵を要とする華。同じ草原の民といえども、戦い方はまるで違う。
真正面から立ち向かうのは本来軽騎兵が不利だが、日中の疲労がたまった重騎兵相手となると五分に持ち込める。さらに夜襲をかけるほうに利があるのは言わずもがなだ。
松明はつけない。必然的に暗闇での戦闘になる。三日月と星明かりが草原を照らすだけだ。
「騎乗」
囁き声の伝達を受け、祥青も休めていた愛馬にまたがった。
「頼むな」
馬の首を撫でてやると黒く大きな瞳がきらめいた。任せておけと言っていた。
騎兵のほとんどは槍を手にしていたが、祥青は弓だった。接近戦にもつれ込むと不利だが、敵が近づく前に倒せばこれほど有利なものはない。目の良い祥青にはうってつけの武器だ。
弦の張り具合を確かめ、仲間と一緒に歩を進めた。
華の陣容は無策ではなかった。目立つ篝火は焚かず、円陣を組んで周囲を警戒している。
「行くぞ!」
部隊は三つに分けられていた。隊長と副隊長二名がそれぞれを率いる。祥青は隊長の配下の小隊に属していた。
副隊長の一隊が躍り込むと、警告の叫びがあがった。寝込みの兵を混乱させる役目だ。
他の二隊は周囲を駆け、乱れる兵を突き殺した。混乱の度が深まれば二隊が螺旋を描くように陣に駆け込む手筈だ。
だが、そうはうまくいかなかった。
敵兵の反抗が急に強くなった。夜襲に備えて、鎧を脱いでいなかったようだ。一時の驚きが去ると、敵の小隊が円陣を組んで防御を固め始めた。
「戻れ!」
隊長の指示とほぼ同時に、副隊長の部隊が飛び出してきた。彼も敵の固さに気づいていち早く離脱したのだ。
三隊は合流し、大きなうねりとなる。
被害は数名だった。それに比べて華の兵士は二割以上を失っている。祥青の矢も、月明かりに照らされた敵兵の顔に突き立っていた。
敵が堅陣を組んだところで央の部隊は戦線を離脱した。戦果は十分に上がっていた。
祥青のいる小隊は殿を務めた。弓を使う弓騎兵が彼の他に二人いる。最後に三人で一斉射し、祥青の矢が青い矢羽根を揺らして追いすがってきた重騎兵を仕留めた。
戦場から十分に離れ、軽騎兵たちは速度を緩めた。部隊を集合させ、被害状況をとりまとめる。
「戦死三名。重傷一名」
副隊長の報告を聞き、隊長は頷いた。満足できる戦果だ。敵は十倍強の被害と見積もった。
「小休止の後、帰投する」
指示を受けた騎兵たちはそれぞれ愛馬を労い、あるいは武具の確認をした。
血がなかなか止まらなかった。
「頑張れ」
祥青は小隊の仲間を止血していた。太ももに矢を受けている。襲撃の時に射かけられた矢が当たったのだ。射手は祥青が倒していた。
「難しいか」
隊長の威圧感に負けず、祥青は睨み返した。心の中の黒い感情が沸き立った。幼子を殺された恨みがじくじくと膿んでいた。
「大丈夫です」
死にかけている仲間を幼子のように殺させはしない。
祥青は隊長の視線を遮ろうと、肩を怒らせて小さな身体を広げた。
「駄目だ」
ひんやりとした刃が突きつけられた。
「助けます!」
これ以上、殺されてたまるか。彼もまだ生きたいはずだ。
「よこせ」
太ももを止血していた布が奪い取られた。隊長が兵士の脚を縛る。
殺さない?
祥青とは違い、慣れた手際だ。
「何か木の切れっ端がないか!」
祥青は咄嗟に自分の水筒を差し出した。
「よし」
受け取った隊長は布に水筒を絡めた。竹筒を回転させると止血帯が引き締まった。すぐに出血が止まる。
「押さえておけ。しばらくしたら緩めて様子を見ろ」
「よ、よかった」
引導を渡しに来たわけではないとわかり、祥青は胸を撫で下ろした。隊長は無慈悲な人間だと疑っていたが、そうではなかった。ただ、釈然としないものはある。
同じ部隊の仲間だから助けたのか。
身も知らぬ幼子とは別ということか。
命に軽重はあるのか。
祥青は思考の渦で目が回りそうだった。
「どうしてか、わからないという顔だな」
考えを見透かされていた。
「あの子はどうやっても助からなかった。こいつは助かる見込みがある。それだけだ」
言い捨てて隊長は立ち上がった。
「治療はともかく、弓のほうはいい腕前だぞ。祥青」
名前を覚えられていた。さらに戦闘の成果まで把握されていた。あの戦いの中で、隊長は自分を見ていたのだ。
「ありがとう……ございます」
嬉しくもあり、また緊張を感じた。
この次、命令に背いたら――
通告の科白がよみがえり、祥青は心と体を引き締めた。
いつの間にか、わだかまりが消えていた。腹の中の膿は出尽くしてしまったようだ。
草原の神に祈る。
商人たちの亡骸と共に、幼子の遺体を埋めた。狼たちが掘り返さないように、深く掘って墓にした。
隊長の指示だった。
遺品から央の国の商人だと判明した。華へ亡命しようとしていたらしい。逃げ出した国の兵士に弔われるのは皮肉なものだろう。
政情に敏感な商人が逃げるということは、央が斜陽に立っていることを意味している。
祥青は幾ばくかの不安を感じながら、太陽の照り返しで赤くなる草原を見つめた。
どこかで鴉が鳴いた。
屍肉を貪る時を待っているようでもあった。