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作者: 中川京人

 月曜日の朝だから特に寒いんだろう。そう高をくくっていたのだが、そうとも限らないのだった。登校する息子の様子を見ていて、どうも元気がないなと思っていたのだが、家内も気になっていたらしい。やはり的中した。

 十時過ぎに、小学校の担任から電話連絡が入ったのだ。校内で嘔吐し、保健室で熱を計ると八度二分あるという。本人も帰宅を希望しているようだ。

 やっぱりか、そうだったよね、と気弱く夫婦で合点してから、家内は腰を上げた。小学校まで軽自動車で迎えに行くという。学校までは狭い路地を一キロメートル足らず。軽なら五分もみておけばいい。

 息子は、平熱が三十五度台と低く、風邪やインフルエンザにかかりやすい体質だ。遅くにできた子は弱いのだろうか。そうは言っても、やつはいつも友達と走り回っている。教科の成績も悪くはない。おととしから習い始めたそろばんは、次回は2級に挑戦だ。

 おれは何をしているのだ。おれは自宅の自分の部屋で仕事をしている。しているのだ。真昼間に真夜中にパソコンのキーボードを叩くのも仕事のうちなのだ。今年で足掛け三年になる。前のを入れると丸七年か。

 四十三年もの間、同じ工場建屋でモーターを組み立て続けてきた、ことし喜寿を迎える親父がこれを聞いたら卒倒するだろうか。古い工員は、第三次産業なぞ、浮いたかひょうたんの軽薄人間のすることだと決め付けている。何を言うか親父よ。おれはおれで悩んでいるのだ。だがいまは病気の息子に何かしてやりたい。あんたの孫だろうが。

 仕事場である二階の自室にもどった自分は、せめて同じく二階にある息子の寝台を暖めておいてやろうと考えて、ドテラを着たまま毛布にもぐりこんだ。

 息子よ息子。目下、おれにできるのはおまえの布団を暖めることだ。だが、冷えた体で帰宅するおまえには、これがいい按配には違いない。ぬくもりは大切ではないか。ひと昔前は、これをテーマに何篇も書けた。

 そんなことを考え考えしながら毛布の中で手足を広げていた。華奢な体の占めるであろうスペースより広めに範囲を確保していた。

 下の洗面所で家内がもっぱら顔の見栄えを適当に取り繕う雰囲気が、生活音となって、開けっ放しのドアから、ベッドの足から、さらには床面全体から伝わってくる。普段は化粧など滅多にしないくせに。そもそも二階の鏡台はダンボール置き場になっているではないか。こんなときに外見にこだわってどうする。ここは急ぐ一手だろうが。家内の出す音が不愉快だ。カチンだろうがコロンだろうが、小さな音でも、いや小さいから余計に苛立つ。

 そうように仰向けになって身じろぎせずに目をつぶり、伝わってくる音を全身で聞いていた。また鳴った、あ、まただ、と怯えていた。正直、数えていた。

 布団の中は暖かくなってきた。

 おれは何をしているのか。おれは息子の布団で寝ている。何のためにか。楽しんでいるのか? もちろんそうではない。息子の体を暖めるためにこうしているのだ。

 高熱を出し続けてぐったりしている小学四年生の姿が浮かんでくる。早く行かないと息子がかわいそうではないか。教員への体裁もあるし──。

 ──ええ、ご両親ともお家にみえるようなんですけど、まだみたいです。

 ──おとうさんの方が来たりして。

 ──四年生の工作キットでクレームつけてきた人ね。

 ──あの人ね、軽がよく似合うのよ。

 大きなお世話である。自分で妄想しておいて何を並べて怒っておるのか、おれ。

 元来寝つきはいい方である。幼児並だ、と家内に笑われている。無機質な音と、教師たちのでたらめな会話を脳内で交互に聞きながら、数分間うとうととしていたのだろうか、また物音で目覚めた。少しく時間の経過を感じた。布団の内外の温度差を意識する。

 音は今度は居間からだ。響く加減がさっきと微妙に違う。置きっ放しの携帯を探しているのか。それともほったらかしのイブファーレでも探しているのか。

 腹が立ったとまではいわないが、やはりひとこと言わずにはいられない。どこで急ぐべきなのか、どこでおっとりと構えていられるのか、その判断が家内と自分とでは違うのだ。

 自分は階下に向かって矢庭に声を張り上げていた。喉を野太い音が通過していく。

「なあ、まだ行ってないの?」

 ──反応がない。反応がない。いつものことだ。いつものことだ。二回も言うな。息子がかわいそうだ。

「ちょっと、おーい」

「あ、もう行く」

 二度目の直後に、開け放しのドアから家内の返事が返ってきた。とたんにガタゴトと急ぎだし、やがてトステムの玄関ドアが音を立てて閉まった。

 くひひひ。勝った……というか、こちらに理がある。勝って当然だ。家内は泡食って駐車場まで走り、六年落ちのミニカのキーを回す。十分後には、暖房ガンガンの職員室で遅れを詫びて担任にぺこぺこするはずだ。くひひ。

 自分が少し情けなかった。しかし布団は暖かい。布団は暖かい。暖かいは家族。家族は子ども。子どもは寝る。んー、寝る子と地頭には勝てない……あいや、寝る子は起すなだったか。まあいい、ともかくこうしていよう。息子が帰るまでに布団が冷めたのでは元も子もない。元も子もない。ふほほ。

 本格的に眠ったはずはないのに、帰宅した妻と子が玄関を開ける音は聞こえなかった。聞こえてきたのは部屋の異変を訝る声だった。

「ちょっと何これ。もう、何これ」

 直後に、ちょっと降りてきて、という叫び。

 おかえり、と軽い足取りを装ってトントンと階段を降りてきた自分が見たのは、意外と元気そうに立っている息子と、しゃがみこんで続けざまに水屋の引き出しを覗き込んでいる妻と、彼らの足元を覆いつくしている大小の紙切れだった。自分の仕事部屋とは大差はないが、居間においては、異常事態である。

「やられたみたい」

「何」

「何って、泥棒よ。三十分くらい開けただけだったのに」

「三十分?」

「ああ、もうちょっと経ってるかも。保健室で寝てるの起してたから」

「三十分は経ってないだろう」

 だって、と言いかけて口をつぐんだ。だが、自分が寝ていたのは、せいぜい十五分くらいのはずだ。

「経ってるわよ。だってお部屋がこんなに」

「何を盗られた」

「新聞代よ。集金した新聞代全部よ、ああ」

 家内は自分の言葉でパニックになりかけていた。ああもう、六十万くらいあったのよ。

「落ち着こう。三十分は経ってないよ。犯人はきっと誰かに見られている。すぐに警察に電話しよう」

 息子が冷蔵庫からマミーを出してきて飲み始めた。その一挙手一投足を夫婦はぼんやりと見送っていた。

「とにかく冷静になろう」

「あのお金は……」

「わかる。わかるよ。だけどいまは犯人を捕まえるのが先だ。警察だ」

 おれは男だ。男は冷静であるべきだ。同時に家内の心の内も察する優しさが必要だ。自分は家内が自分を責めないようにと言葉を選んで継いだ。こんなに短時間でやり遂げられたんでは素人はかなわない。

「これはプロの仕業だ。五分か十分間くらいでやられたんだ。おまえが家出るのけっこう時間がかかってたから、その直後だ」

「わたし出るの時間かかった?」

「いや、ほら、おれが『まだ行ってないの』って声かけたら、おまえが『もう行く』って返事して……」

「わたしそんなこと言ってないし」

「言ったじゃないか」

「言ってない。だいいちあんた、二階にいたんでしょ。何で気づかないのよ。こんなに荒らされてるのに」

「布団をあっためてたんだよ」

「寝てたのね」

「暖めてたんだ」

「もう信じられない。大のおとなが家にいて泥棒に入られるなんて」

 何度も目をつぶったり、泣くような仕草をしたあと、家内は息子のコップを取り上げると一気に飲み干した。それから自分に向き直って叫んだ。

「あんた、いったい何してたの、昼間っから。あんたいったい何者なの」

 夫として、家内の気持ちはよくわかる。

 だけど、誰に何を聞かれてもおれは断言する。あの声は、家内以外の何者でもなかったと断言する。


フィクションです。フィクションです。二回も言うな。

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