狂気の散歩道 :約7000文字
ある日の昼下がり。男は林の中に造られた散歩道をゆっくりと歩いていた。
足元の土は湿り気を帯びて柔らかく、踏みしめるたびに靴底がわずかに沈み込む。左右にはスチール製のピンク色の低い柵が途切れることなく連なり、その向こうでは背の高い木々が幾重にも立ち並び、暗い壁を形作っていた。
頭上はその木々の枝葉で覆われ、ところどころにある隙間から陽の光が差し込んでいた。地面には大小さまざまな陽だまりが散らばり、風が枝葉を揺らすたびに光の粒が静かにきらめいた。
男はその中でもひときわ大きな陽だまりを見つけると立ち止まり、そっと腕を差し出した。柔らかな陽射しが肌をじんわりと温めていき、身体の奥がほどけていくような心地よい感覚に自然と頬が緩んだ。
湿った土と青草の匂いが風に乗って鼻腔をくすぐり、遠くでは鳥のさえずりが木々の間を渡っている。
穏やかな午後だった。息を深く吸い、吐き出すだけで胸の奥に溜まっていた澱が林の静けさの中へ少しずつ溶け出していくようだった。
――ん?
男はふいに足を止めた。視界の端に何か違和感を覚えたのだ。柵の外側へ少し身を乗り出し、茂みに目を凝らした。
蝶だ――。一羽の蝶が、背の低い雑木の葉先で翅を休めていた。
黒と白の翅に、細い脚。その黒い脚の先端は赤く染まっている。そして何よりも男の目を引いたのは、翅一面を覆い尽くしている奇妙な模様だった。
最初は白と黒のまだら模様に見えた。だが実際には一つ、二つ、三つ、四つ――瞳孔が大きく開いた眼球のような模様が、大小入り混じりながら翅全体にびっしりと敷き詰められていた。
――まるでミモムモイウマダラモノだな……。
男は思わず顔を歪め、視線を逸らした。ところが、その先の葉にも蝶が何匹もとまっていた。赤やピンク、青、紫と色合いはさまざまだったが、どの蝶も例外なく目玉模様を持ち、翅を開いたり閉じたりするたびに、そこに描かれた目がぎょろりと動き、こちらを見つめ返しているような錯覚に襲われた。
さらに木の幹に視線を移すと、黄緑、黄、赤の縞模様をした芋虫が何匹も折り重なるように張りついていた。ぶよぶよとした体はゆっくりと脈打ち、一本の血管で繋がっているかのように規則的に蠢いている。見つめていると皮膚の下がざわつき、無数の虫が身体の内側を這い回っているような感覚が走った。
男は眉をひそめ、その場から逃げるように歩き始めた。
だが、少し進んだところで再び足を止めた。木の幹の影に何かがいたのだ。
異様に大きな顔だった。
それは、細く鋭い指を木肌にそっと這わせて、こちらを窺うように半身を覗かせていた。しかし、その巨体は木の陰だけで到底隠しきれるものではなかった。小型犬なら一息で呑み込めそうなほど大きく裂けた口。人の頭ほどもある巨大な眼球。鋭く突き出した鼻――ただし、先端は萎びた野菜のように折れ曲がっている――顔の周囲に生えた毛は脂で固まったように束になっていた。獣と人間の合いの子――そう形容するのが最もふさわしいと思えた。
男は一本の長い鉄の杭を脳天から打ち込まれたかのようにその場に立ち尽くした。意志と身体を繋ぐ線がぷつりと切れたかのように指一本動かせず、全身が強張り、呼吸さえ忘れかけていた。
だがやがて、ぐらりと視線が動いた。
一歩、また一歩と前に踏み出していたのである。
真っすぐ前を見据えたその瞳には、身体が揺れるたびに怪物が頷いているように映っていた。
ガン、と柵に膝が当たった――そのときだった。「ギョッギョギギヒョ!」と鳴き声とも笑い声ともつかない甲高い奇声が林のさらに奥から響いた。
男はびくりと肩を震わせ、何度も瞬きをした。そして慌てて踵を返し、足早にその場を離れた。
しかし、その奇声はまるでこちらを見張っているかのように、時折どこからともなく響いてきた。
前へ進むほど、林を包んでいた穏やかな気配は失われていった。木漏れ日は次第に数を減らし、黒々とした枝葉に呑み込まれ、足元には濃い影ばかりが広がっていく。匂いもいつの間にか変化し、青臭さの中にガスのような臭気が混じり始めていた。
やがて、骨のように白く痩せ細った木々が姿を現し始めた。幹には無数の細かな亀裂が走り、その裂け目からブルーベリーを潰したような青紫色の液体がぷっくりと滲み出しており、粘り気を帯びた雫となって幹を伝っていた。
風は止んでいるはずなのに、枝先だけが小刻みに震えており、その震えに呼応するように遠くから子供の甲高い笑い声のような不気味な声が断続的に聞こえてきた。
足元の感触にも異変が現れ始めた。地面がところどころゴムのように柔らかく、踏むたびにぐにいと嫌な弾力を返してくる。男が眉をひそめて視線を落とすと、それは唇だった。大小さまざまな人間の唇が土に埋まり、擦り合わせるようにもにゅもにゅと蠢いていた。
さらに先へ進むと道の脇に、心臓や小腸、胃、肝臓などの臓器が無秩序に癒着してできた巨大な肉塊――モルトスキュマ――が姿を現した。脈打つ表面はぬらぬらと光り、内部から押し出されるかのようにゆっくりと膨らんでは縮んでいた。その先端は枯れかけた花のように重たげに項垂れており、片目が飛び出した人間の顔がぶら下がっていた。舌をだらりと伸ばし、皮膚はところどころ黄色や青白く変色している。首にあたる部分が今にも千切れ落ちそうなほど細く伸び、まるで切れの悪い糞が肛門にしつこくぶら下がっているかのようだった。
さらに奥へ進むと、ピンク色のウサギが赤いキツネに喉元を噛みつかれ、地面に押さえつけられていた。ただし、そのキツネの下半身は当然青である。
ウサギの体は半ば地面に溶け広がっており、その肉の溜まりの中から胎児の小さな手が幾本も菌類の子実体のように重なり合いながら空へ向かって伸びていた。指先は開閉を繰り返し、何かを掴もうとしているようにも見えた。
キツネの胴体にはアップルパイの切れ目を思わせる裂け目が幾筋も刻まれ、その隙間から黄色い骨が覗いていた。裂け目は呼吸に合わせるように開閉し、そのたびに暗い色の筋肉が覗いていた。
さらに奥へ進むと、今度は木の上から何本もの細長い物体が垂れ下がっているのが見えた。
それはコウガイビルじみた黄色の線だった。長さと太さはゴムホースほどで、木の枝に絡まり、一番長いものは地面近くまで垂れ下がっている。ぬらぬらと粘液を纏ったその先端に付いていたのは、いずれも目玉だった。その表面から何本もの歯が不規則に突き出しており、いくつかは虫歯のように黒ずんでいた。
道の脇には、いつの間にか花がぽつぽつと咲き始めていた。花弁はいずれも膿のようは黄色がかった白色で、表面には細かな皺が寄り、不規則に茶褐色の染みや吹き出物のような突起があった。花の中心部は痛んだ肉のような青色に沈み、小さな丸い穴と、その数倍の大きさの楕円形の穴が開いていた。
そして茎は無数の虫の脚や胴体が絡み合って形作られていた。抜け殻のように透けているが、時折ぴくりと痙攣し、そのたびに花全体が身じろぎしているように見えた。花の周囲には生臭さとアンモニアのような刺激臭が漂っており、嗅ごうと近づいた男は眉をひそめて後ずさりした。
そのときだった。がさりと枝葉が揺れる音がした。
視線を向けると、ゴサミドリが木の枝から羽ばたいた。「プァー」と甲高く間延びしたファンファーレを響かせ、腹から赤い糞を――血ではない――ぼたぼたと落とした。糞はかなり粘度が高いらしく、地面に落ちてもすぐには崩れず、時間が経つにつれて重みでゆっくりと形を崩し、頭を垂れるように先端がしなっていった。鼻を近づけると意外にもやや甘い匂いがしたが、舐めると苦かった。
再び歩き出そうとした瞬間、道の脇に積もった落ち葉が波打つように蠢いた。直後、林の奥から白い影が歩いてきた。
それは人の形をしているが、輪郭が絶えず揺らぎ、顔の位置も肩の高さも定まらない。影は男の目の前を平然と横切り、そのまま柵を越えて林の奥へ消えていった。白い影が通ったあとには黒い手形がいくつも残されていたが、それらはやがてご飯のお供に消えた。それを群がって食べたのが小さな全裸の女たちである。男が踏みつけようとすると、女たちは一斉に皮膚を脱ぎ捨て、茶色いカマキリに変わり、羽音を立てて飛び去った。残された抜け殻の一部は小刻みに震えながらハエに変わり、男の周囲を旋回したのち、萎びた黒い塊となってぽとりと落ちた。
男は鼻から息を吐き、ふと頭上を見上げた。
マスタインが枝の隙間からこちらを覗き込んでいた。知ってる。顔一面に浮かぶ幾何学模様が揺れ、黄、ピンク、ハミニナ、赤色が混ざり合いながら波打つように流動していた。見つめていると、モットチイナが、落ちて、きた。それは大きな、懐古主義者、であり、お前の、水筒の、蓋だった。そして、男は男は、男は、男は冷蔵庫、が、妊娠、している。實光を、名乗るな、ネズミも、食べ、ない。見ている。社会に、排除、された。足が、ゆっくりと、倒置法だ。危機が、現実に。ここに、います、と、言っているだろ。不審死は他殺。欠損した、悪魔。インコーケイト、サムハン、タンポウ。作戦に、突入。人、肉。アドレノ、クロム。やはり、匂いを匂いでなんだ。大きな魚、小さな魚。目、目、目。合図だ。正座するあの子。ロンなどない、あるのは、ボウだ。点ではなく、面で。聞かれているぞ。ギーフハーブ。猫は死んだ。
私のせいだ。
◇ ◇ ◇
「なるほど。こちらが出口ですか。……うーん、ぱっと見た限りでは、特に変わったものは見当たりませんね……」
散歩道の出口で、記者の男は奥を覗き込みながらそう言った。
木々が密集しているせいで内部は薄暗く、奥の様子までは見通せない。だが、一応ただの林ではないらしい。目を凝らすと、その薄闇の中に不自然な色彩がぼうっと浮かんでいるのが見えた。
「当然です。出口に近づくにつれて、徐々に“普通”へ戻っていくように設計されていますから」
白衣の男はにっこりと微笑んだ。
そこはとある地方の精神病院の敷地内。林の一部を切り開いて整備された治療用の散歩道。二人はその出口に並んで立っていた。病院は離れた位置にあり、人の気配はなく、木々の葉が風に揺れる音だけが静かに響いていた。
記者は画期的な治療法が行われているという話を聞きつけ、取材のためにこの病院を訪れていた。駐車場に車を止めて早々に出迎えられ、ここまで案内されたのだった。
「林の一部を整備して散歩道を造ったとのことですが、それがどのように治療に結びつくのでしょうか」
「ただの散歩道ではありません。言うなれば、キチガイ散歩道ですな。……おっと、不適切な表現でしたかね。失礼、失礼」
白衣の男は肩をすくめ、喉の奥でくっくっと笑った。
「要するに、精神疾患を抱えた患者たちの話をもとに、彼らが日常的に見ている世界を現実に再現したのですよ」
「それは……なんというか、凄まじそうですね」
「ええ。各種オブジェを配置し、スピーカーで環境音を流し、匂いの演出も加えました。さらに、いくつか可動装置も仕込んであります。まあ、ちょっとしたテーマパークみたいなものですな」
白衣の男はネクタイを緩めながら、どこか楽しげに言った。
「はは、なるほど。しかし、それが患者の精神にどのように作用するのでしょうか?」
「入口付近はごく普通の林です。しかし進むにつれ、景色は少しずつキチガイの世界へ変化していきます。ああ、つまり異常がどんどん増えていくわけですね。患者は自分が普段見ている幻覚や妄想に近いものを目にするわけです。もちろん実際には作り物ですがね。ですが、本人たちの脳が勝手に補完し、さらには増幅して認識することでしょう」
白衣の男は一度言葉を切り、記者にずいと身を寄せた。
「そして、キチガイの世界を存分に味わい尽くしたあと、出口に近づくにつれて景色は再び“普通”へと戻っていく。すると、どうなると思います? 患者を苦しめていた妄想も幻覚もすべて林の中に置き去りになるのですよ」
白衣の男はズボンのベルトに手を掛けながら興奮気味に言った。
「つまり、自分は治ったのだと錯覚を植え付けるわけですね」
「そのとおり! 憑き物が落ちたという感覚になるのでしょうな」
「それはすごい。……ですが、そんなにうまくいくものでしょうか。途中で林を突っ切って逃げてしまうのでは?」
「もちろん、その点も対策済みですとも。精神疾患を抱えた人間の多くは、視線と音に極端なストレスを感じる傾向があります。ですから、目玉のオブジェや音響装置を各所に配置し、無意識に柵の外へ出たくなくなるように誘導しているのです。また、柵そのものに行動抑制効果がありましてね。人間というものは、腰ほどの高さの柵が一本あるだけでも無意識に越えてはいけない境界だと認識するものなんですよ。いやあ、案外一番手間がかかりました。高すぎても低すぎても効果が薄いので、そのあたりは何度も試行錯誤しましたよ。それに、仮に林の外へ出たとしても、病院の敷地全体を高いフェンスで囲っていますから問題ありません」
「なるほど……。でも、怖くなって途中で引き返してしまうこともありそうですね」
「その場合は入口で捕まえればよいだけです。もっとも、それも音響である程度は制御できますし、医者が付き添って歩くケースもあります。途中で何かあっても対応できるようにしてありますよ」
「ああ、電話でもそのようなお話をされていましたね。いやあ、ずいぶん思い切った治療法を考えたものだ……」
記者は感心したように呟き、改めて散歩道を覗き込んだ。
その瞬間だった。薄闇の中に、先ほど見たときにはなかったものがぼんやりと浮かんでいることに気づいた。青白く、立っているようにも揺れているようにも見える。輪郭がはっきりしないため、それが何なのかまでは判別できなかった。
記者は眉を寄せ、目を凝らした――そのときだった。ふいに背中へそっと手が添えられた。
記者はびくりと肩を跳ねさせ、反射的に振り返った。すると、白衣の男がすぐ後ろでにっこりと笑っていた。
「さあ、入りましょうか」
「え……入るんですか?」
「ええ、当然でしょう」
「いや、電話では患者さんがここから出てきたところを取材すると伺っていたものですから……」
「ああ、そうでしたかな。まあ、別にいいじゃありませんか」
「いやあ、まあ……でも、正直ちょっと怖いですね」
「大丈夫ですよ。さっきも言ったでしょう。ちょっと変わったテーマパークのようなものですよ」
「ははは……あ、でも出口側から入っても問題ないんですか?」
「ええ。構造自体は入口とほぼ変わりません。中腹がいちばんすごいんだから」
「え、ははは……」
白衣の男は親しげに記者の肩に腕を回すと、身体を押しつけるようにして、ぐいと前へ促した。興奮しているのか、男の熱い吐息が記者の耳にかかり、背筋がぞわりとした。
記者は引きつった笑みを浮かべながら、その腕をやんわりと外し、二、三歩後ずさりした。
「……行かないんですか?」
白衣の男はゆっくりと首を傾げた。細めた目と吊り上がった口角は笑顔の形を保っているはずなのに、先ほどまでの親しげな印象は消え、作り物めいていた。
「え、ええ、その……あ、さっき、あの辺に何か見えた気がして……」
記者は誤魔化すように笑いながら散歩道へ向き直り、身を乗り出すようにして暗い林の奥を見つめた。
そのときだった。
「せんでばああああああああああああ!」
林の奥深くから、けたたましい声が轟いた。
記者は思わず飛び上がり、反射的に白衣の男のほうへ振り返った。
「あ、あの、中に誰かいるんじゃ――」
言葉が途切れた。白衣の男が息を荒げながら服を脱ぎ始めていたのだ。
「やっぱりねえ、こんな服……私には似合いませんよ……へへへ……」
白衣を脱ぎ捨て、シャツを乱暴に剥ぎ取り、ズボンを蹴り飛ばし、あっという間に全裸になった男はネクタイだけを大事そうに握りしめた。
「これ、彼に返してきます。返さないと! だもんね!」
そう叫ぶや否や、男は散歩道へ駆け出した。
その後ろ姿は、まるで無邪気にはしゃぎながら温泉に飛び込んでいく子供のようだった。
林の暗がりがその姿を飲み込んでいく。不釣り合いな肌色の身体はみるみる小さくなっていき、やがて完全に消えた。錯覚なのか、左右の木々がゆっくりと内側に迫り、男の姿を包み込んだようにも見えた。
記者はその光景を呆然と見つめながら無意識に一歩、また一歩と後ずさりした。そして男の姿が完全に見えなくなった瞬間、弾かれたように踵を返して走り出した。
駐車場に駆け込み、震える手で車のドアを開けた。勢いのまま運転席に身を滑り込ませ、エンジンをかける。低い駆動音が車内に満ちた瞬間、記者は意識してハンドルを強く握りしめた。
病院の敷地を抜け、道路に出た。そのまま走らせていると、記者は肺の奥に溜まっていた空気をすべて吐き出すように深く息をついた。
ようやく現実の世界に戻ってこられた――そんな安堵が込み上げてきた。
だが、ふと道路脇の雑木林へ目を向けたその瞬間だった。
木の枝から何かが飛び立った。
それは一見するとフクロウのようだった。しかし、下半身は、猿じみており、顔は、人間によく、似て、いた。




