全国指名手配
すごい人間になりたかった。
それは、誰もが振り返るような才能を持ちたいとか、新聞に名前が載るような偉業を成し遂げたい名誉とか、そういう派手で明確な願望ではなかった。ただ、自分という人間がこの世界のどこかに立っていることで、誰かの景色がほんの少しだけ変わるような、無色だったものにわずかな色が差すような、誰かの世界を変えられるそんな人間になりたかったのだと思う。けれど、そんな願いは年齢を重ねるごとに輪郭を失っていった。
そんな僕の目の前にいるのは全国指名手配されている殺人鬼だ。これは僕とこの殺人鬼のお話。
大学三年の秋、僕は相変わらず進路を決められずにいた。周囲の友人たちはインターンだとか自己分析だとか業界研究だとか、知らない言葉を当たり前のように使いながら、未来に向かって少しずつ歩き出していた。彼らの背中は焦りを誘うほど眩しかったが、僕にはその眩しさの正体がわからなかった。自分が何になりたいのか、何をしたいのか、何を守りたいのかさえはっきりせず、ただ時間に押し流されるように講義へ出て、単位を拾い集め、夜になれば駅前のコンビニでアルバイトをした。
人生はもっと劇的に始まるものだと思っていた。
子供の頃は、二十歳を過ぎた自分がこんなにも曖昧な存在になっているなんて想像もしなかった。もっと強く、もっと賢く、もっと誰かに必要とされる人間になっているはずだった。なんでもできて誰よりも優れていてすごい人間になっていると信じてた。
けれど実際の僕は、賞味期限の近い弁当に割引シールを貼り、酔った会社員に頭を下げ、深夜に買われていく煙草の銘柄を覚えることで一日を終える、どこにでもいる大学生にすぎなかった。
その夜は、雨が降っていた。
季節外れの冷たい雨だった。街灯の光は濡れたアスファルトの上でぼやけ、駅前のロータリーを行き交うタクシーのヘッドライトは、水面に落ちた月のように揺れていた。コンビニの大きなガラス窓には無数の雨粒が張り付き、その向こう側にある街の輪郭を少しずつ溶かしていた。店内は必要以上に明るく、蛍光灯の白い光が床のタイルを平坦に照らし、冷蔵ケースの低い唸り声と、どこか間の抜けた店内放送だけが、深夜の空気を薄く震わせていた。
僕はレジの中に立ち、缶コーヒーの補充を終えたばかりの指先をこすり合わせていた。冷蔵庫から出した商品はいつも少し湿っていて、その冷たさは掌に残りやすい。客はほとんどいなかった。二十分ほど前に来た作業着姿の男がスポーツ新聞とビールを買っていったきり、自動ドアは一度も開いていない。
だから、その音はやけにはっきり聞こえた。
電子音が短く鳴り、自動ドアが左右に開いた。
雨の匂いをまとって、一人の少年が入ってきた。
最初、僕は彼をただの客として見た。黒いパーカーのフードは濡れて重たく垂れ、髪は長いあいだ整えられていないように無造作で、頬は痩せていた。靴は泥で汚れ、ジーンズの裾は雨を吸って色を濃くしている。彼は店員である僕に目もくれず、まるで光に慣れていない動物のように少しだけ目を細めながら、ゆっくりと通路の奥へ歩いていった。
その背中を見たとき、胸の奥に小さな違和感が刺さった。
どこかで見たことがある。
けれど、それがどこなのかすぐには思い出せなかった。大学の講義室だろうか。駅前ですれ違ったことがあるのだろうか。あるいは、アルバイト中に何度か来た客だったのだろうか。僕は商品の位置を直すふりをしながら、棚の間を歩く彼の横顔を盗み見た。
その瞬間、背筋に冷たいものが走った。
記憶は、時に残酷なほど正確に人の顔を保存している。何気なく見たニュース映像、スマートフォンの画面を流れていった速報、駅の掲示板に貼られた指名手配のポスター。そこにあった顔が、濡れた髪とやつれた頬をまとって、今、僕の目の前に存在していた。
十八歳。
両親殺害。
その後、匿っていた親族三人も殺害。
合計五人を殺したとされる全国指名手配犯。
世間が、まるでひとつの便利な記号のように「殺人鬼」と呼んだ少年。
彼が、カップ麺の棚の前で立ち止まっていた。
恐怖というものは、もっと激しい感情だと思っていた。叫びたくなるとか、逃げ出したくなるとか、そういうわかりやすい形で身体を支配するものだと思っていた。けれど実際にそれが訪れたとき、僕の身体は驚くほど静かになった。手の指先から血が引いていき、喉の奥が乾き、心臓の音だけが不自然に大きく聞こえる。頭の中では、警察に通報しろ、バックヤードへ逃げろ、何も気づいていないふりをしろ、という命令がいくつも重なって響いていたのに、僕はそのどれひとつとして実行できなかった。
彼はカップ麺を一つ手に取った。
それから、おにぎりを二つ選び、ペットボトルの水を一本持って、レジへ向かってきた。
その動作はあまりにも普通だった。怯えるほど静かで、拍子抜けするほど生活じみていた。人を五人殺したとニュースで報じられ、日本中の人間から恐れられ、憎まれ、見つけ次第通報すべき存在として扱われている少年が、今はただ腹を空かせ、濡れた服のまま、温かいものを買おうとしている。その事実が、僕の中にあった「殺人鬼」という言葉の輪郭を少しずつ歪ませていった。
「いらっしゃいませ」
自分の声が、ひどく遠くから聞こえた。
彼は顔を上げた。
その目を見た瞬間、僕は息を呑んだ。
鋭い目ではなかった。狂気を宿した目でも、獣のようにぎらついた目でもなかった。むしろ、そこには何もなかった。怒りも、悲しみも、希望も、諦めさえも、すでに使い果たしてしまった後のような、底の見えない静けさだけがあった。あまりにも空っぽであるがゆえに、その目はかえって恐ろしかった。人間は本当に追い詰められると、泣くことも叫ぶこともやめてしまうような目になるのだと、その時の僕は初めて知った。
僕は商品をレジに通した。
カップ麺。
鮭のおにぎり。
昆布のおにぎり。
水。
画面に表示された金額は、彼の背負っている罪や噂や恐怖とはあまりに釣り合わない、ささやかな数字だった。
「760円です」
彼は濡れたポケットから小銭を取り出した。硬貨は何枚か手の中で滑り、レジ台の上にかすかな音を立てて転がった。その指には細かい傷がいくつもあり、爪の間には黒い汚れが入り込んでいた。僕はその手を見ながら、この手が本当に五人の命を奪ったのかと考えた。そう考えた瞬間、強い罪悪感のようなものが胸をよぎった。僕はまだ何も知らない。ニュースが流した言葉と、世間が作った輪郭だけを頼りに、目の前の人間を理解した気になっている。
ここで終わらせれば、素直にお釣りを渡しありがとうございました、と言って、彼を店から出すべきだった。
防犯カメラには彼の顔が映っている。後で警察に連絡すればいい。それが正しい。誰が考えても、それが最も安全で、常識的で、社会的な判断だった。
それなのに、僕の口は勝手に動いた。
「普通に買うんですね」
言葉が落ちた瞬間、店内の空気が変わった。
彼の指が止まった。
僕も、自分が何を言ったのか理解するのに少し時間がかかった。全身から血の気が引いていく。今すぐ謝るべきだと思った。何でもありません、失礼しました、どうぞお気をつけて。そう言えばまだ間に合うかもしれない。けれど彼は、ゆっくりと顔を上げ、僕を見た。
「……何がですか」
声は低く、かすれていた。
その声音には、怒りよりも疲労が滲んでいた。長いあいだ眠っていない者の声。誰にも名前を呼ばれず、誰にも言い分を聞かれず、逃げることだけを強いられてきた者の声だった。きっと僕との会話が普通の人間との久しぶりのやり取りだったんだとあとから思った。
僕は喉の奥に張り付いた息を無理やり剥がした。
「その、もっと、奪ったりするのかと思ってました」
言った直後に、僕は自分の愚かさを理解した。
殺されるかもしれない、と思った。だがこの好奇心には勝てなかった。
バックヤードには店長が置いていった段ボールカッターがある。けれど今さらそこへ手を伸ばせる距離ではない。もし彼がポケットから刃物を出したら、僕には何もできない。きっと、ニュースで見た被害者たちと同じように、一瞬でこの明るすぎるコンビニの床に倒れるのだろう。そんな想像が妙に鮮明で、僕は足の裏から冷えていく感覚を覚えた。
けれど彼は、僕を刺さなかった。
代わりに、ほんの少しだけ笑った。
それは笑みというにはあまりに弱く、喜びというよりは、壊れた習慣がかろうじて顔に残ったような表情だった。口元だけがかすかに歪み、すぐに消えた。
「盗み方は知りませんよ。」
その言葉を聞いた時、僕はなぜだか泣きそうになった。冗談のようにも聞こえたし、本気のようにも聞こえた。けれどどちらにしても、その短い言葉の中には、彼がこの世界でどれほど不器用に生きてきたのかが滲んでいた。悪人になる方法さえ知らないまま、悪人の名前だけを与えられた少年。生きるための道具を何ひとつ持たされずに、ただ逃げることだけを覚えさせられた少年。
僕はレジ台を挟んで、彼の顔を見つめた。
怖かった。
間違いなく怖かった。
けれど、それ以上に知りたかった。
どうして人は人を殺すのか。
どうして世界は、人間をそこまで追い詰めることができるのか。
そして、彼の目がこんなにも空っぽになるまでに、いったいどれほどのものが奪われたのか。
「ニュースで見ました」
彼の表情がわずかに固くなった。
僕は、もう戻れないと思った。ここで黙れば、ただ怯えただけの人間になる。ここで通報すれば、それは正しい。正しいが、きっと僕は一生、この目の意味を知らないまま生きていく。
だから、聞いた。
「どうして殺したんですか」
雨音が強くなった。
ガラス窓を叩く雨粒が、店内の沈黙を責めていた。彼はしばらく何も言わなかった。ただレジ台の上に置かれたカップ麺を見つめていた。値段の印字されたレシートが、空調の風に揺れている。
やがて彼は、小さく息を吐いた。
「知りたいんですか」
「はい」
「なんで」
その問いに、僕はすぐ答えられなかった。
正義感ではなかった。彼を救いたいなどと、その時点で胸を張って言えるほど僕は立派な人間ではなかった。好奇心と言われれば否定できないし、退屈な人生に突然現れた非日常へ手を伸ばしたかっただけなのかもしれない。けれど、それだけでもない気がした。
僕はずっと、自分が世界に対して何もできない人間なのだと思っていた。それは歳を取ればとるほど強みをまして自分の価値が低くなっていった。
誰かの痛みに触れることも、誰かの孤独を変えることも、自分にはできないのだと思っていた。
でも今、目の前にいる少年は、世界中から「殺人鬼」と呼ばれながら、たった760円分の食べ物を買い、僕の問いに答えるかどうか迷っている。
その事実が、どうしようもなく僕を捕まえていた。
「わからないです」
僕は正直に言った。
「でも、知らないままで終わらせたくないんです」
彼は僕を見た。
その目の奥で、何かがほんの少しだけ揺れたように見えた。
雨の夜、深夜のコンビニ、白すぎる蛍光灯、濡れた黒いパーカー。世界は相変わらず何ひとつ変わっていないはずなのに、その瞬間だけ、僕の足元にあった平凡な日常の床が、音もなく裂けたような気がした。
彼は長い沈黙のあと、低い声で言った。
「父親が、母を殺したんです」
その一言は、刃物よりも静かに、僕の中へ入ってきた。
僕は何も言えなかった。
レジの中に立ったまま、白い蛍光灯の下で、彼の濡れた髪からぽたりと落ちた水滴が床のタイルに小さな跡を作るのを見ていた。店内の空調はいつも通り一定の温度を保ち、冷蔵ケースは低く唸り、レジ横のホットスナックのケースには売れ残った揚げ物が乾いた光を浴びて並んでいる。世界は何ひとつ動揺していないように見えた。人間がひとり、人生のいちばん暗い場所を語ろうとしているのに、機械も照明も時計も、平然と役割を続けていた。
「でも、誰も信じなかった」
彼はそう続けた。
僕は、彼の言葉が雨音に消えてしまわないように、無意識に少しだけ身を乗り出していた。
「父は、外では普通の人でした。挨拶もするし、近所の人には愛想もよかった。仕事もたぶん真面目に行ってたんだと思います。だから誰も知らなかったんです。家の中でどんな顔をしていたのか」
彼はそこで一度、言葉を切った。
それは記憶を選んでいるようにも、思い出したくないものをどうにか飲み込んでいるようにも見えた。
「家って、普通は安心する場所なんですよね」
彼は僕を見ずに言った。
「たぶん」
その「たぶん」が、僕にはひどく痛かった。
彼にとって、家とは確信を持って語れるものではなかったのだ。家は温かいとか、帰れば誰かがいるとか、眠るための場所だとか、そういう当たり前の言葉が、彼の中にはきちんと根を張っていない。
「父が帰ってくる時間になると、空気が変わるんです」
彼はレジ台の上に置かれた小銭を指先で軽く押した。硬貨がわずかに擦れて、乾いた音を立てた。
「玄関の鍵が回る音がするだけで、母の肩が少し上がるんです。テレビの音量を下げて、食器の位置を直して、僕に目で合図する。部屋に行きなさいって。声に出すと、父に聞こえるから」
僕はその光景を想像した。
夕方の薄暗い居間。古い蛍光灯。油じみた換気扇の音。テーブルの上に並んだ冷めかけの食事。玄関から聞こえる靴音。母親の細い背中。息を潜める少年。
家庭という言葉の中に、本来あるはずの柔らかさがひとつもなかった。
「でも、部屋に行っても聞こえるんです。壁って、意外と薄いから。声も、物が倒れる音も、母が謝る声も、全部」
彼の表情は動かなかった。
動かないことが、かえってその記憶の深さを物語っていた。泣ける出来事は、まだ人の中で生きている。けれど泣くことすらできなくなった出来事は、感情ではなく心の中で積もり溜まる。折り重なって、固まって、年月の奥で黒く沈み、やがてその人間の形そのものを変えてしまう。
「母は、いつも僕に謝ってました」
彼は言った。
「自分が悪いわけじゃないのに。ごめんねって。怖かったねって。何もできなくてごめんねって」
その声が、わずかに揺れた。
「でも僕は、母が謝るたびに腹が立った。母にじゃないです。何もできない自分に。守られてるだけの自分に。父が怖くて、部屋から出られない自分に」
彼の拳に力が入ったのが目に見えた。
濡れた袖口から覗いた手首は細く、骨の形がはっきりと浮いていた。その手が何人もの命を奪ったのだと考えると、恐ろしいはずだった。けれど僕には、その手がむしろ、長いあいだ何かを掴み損ね続けてきた手のように見えた。
「ある日、母が僕にプリンを買ってきたんです」
突然、彼の声の中に別の色が混じった。
それはあまりにも小さく、見逃してしまいそうな光だった。
「コンビニの安いやつです。三つ入りの。父が甘いもの嫌いだったから、冷蔵庫の奥に隠して。夕飯のあと、父が寝たら食べようって言って」
僕はレジ横のデザート棚を見た。
そこには今も、小さなカップに入ったプリンが整然と並んでいる。値段のシールが貼られ、賞味期限順に前へ出され、明日の朝には多くの客が何気なく手に取るだろう。僕にとってそれは、ただの商品だった。けれど彼にとって、それはきっと暗い家の中で母親が隠してくれた、灯りのようなものだった。
「嬉しかったんです」
彼は小さく言った。
「すごく。馬鹿みたいだけど」
「馬鹿じゃないです」
僕は思わず言った。
彼は少し驚いたようにこちらを見た。
僕自身も、自分の声に驚いていた。けれど、その言葉だけはどうしても否定したくなった。誰かが買ってきてくれた小さなプリンを嬉しいと思うことが、馬鹿であるはずがない。むしろ、そういうささやかな喜びを守るために、人は生きているのではないかと思った。
彼はしばらく僕を見て、それから視線を落とした。
「……ありがとうございます」
その礼は、あまりにも不慣れだった。
言い慣れていないというより、誰かに受け取られることを期待していない声だった。
「その日です」
彼は続けた。
「母が死んだのは」
店の外で、車が一台、水を跳ねて通り過ぎた。ガラス窓が低く震えた。
「父はいつもより酔ってました。帰ってきた瞬間から機嫌が悪くて、靴も脱がないで台所に入ってきて、皿の置き方が気に入らないとか、味が薄いとか、そんなことで怒鳴ってました。母はずっと謝ってて、僕は部屋に行きなさいと言われました。」
彼の視線は、もうこのコンビニにはなかった。
おそらく彼は、あの夜の家に戻っていた。雨に濡れた黒いパーカーの下で、十八歳の少年ではなく、もっと幼く、もっと無力だった頃の自分に戻っていた。
「母が倒れた音がしました」
その一文だけが、異様に静かだった。
「人が倒れる音って、変なんです。ドラマみたいじゃない。もっと鈍くて、重くて、嫌な音がする。僕はその音を聞いた瞬間、何かが終わったってわかりました」
僕は唾を飲み込んだ。
喉が痛かった。
「部屋から飛び出して見てみると、父は、母を見下ろしてました。息をしてない母を。何も言わずに。ただ邪魔なものを見るみたいに」
彼の目に、初めてはっきりとした感情が宿った。
それは怒りだった。
けれど燃え上がる炎のような怒りではなかった。長い時間をかけて冷え切り、黒く固まり、重さだけを増していった怒りだった。
「その時、僕の中で何かが切れたんです」
彼は言った。
「母がずっと我慢してきたことも、ずっと謝ってきたことも、僕を守るために何度も殴られてきたことも、全部、急に許せなくなった。父が許せなかったんじゃない。あの家の中で、母だけが謝らなきゃいけなかったことが許せなかった」
僕は何も言えなかった。
正しい言葉など存在しない場面だった。慰めることも、同情することも、理解したふりをすることも、どれも彼の傷を軽く扱うように思えた。だから僕は黙っていた。黙って、彼の言葉の隣に立つことしかできなかった。
「気づいたら、台所にいました」
彼は続けた。
「手に包丁を持ってました。そこから先は、あまり覚えてません。父が何か言っていた気もするし、何も言っていなかった気もする。ただ、母の顔だけ覚えてます。床に倒れて、目を閉じていて、でも少しだけ眠ってるみたいで」
彼はそこで、唇を噛んだ。
「僕は母を守りたかったんです」
その声は、とても小さかった。
「でも、守れなかった」
泣いてはいなかった。
涙は一滴も落ちなかった。
けれど僕には、彼が泣いているように見えた。涙が出る場所を失ってしまった人間が、身体の内側だけで静かに崩れているように見えた。
「警察には、ちゃんと話しました。父が母をやったんですって。僕は父を刺しましたって。でも、信じてもらえなかった」
僕は眉を寄せた。
「どうして……」
「証拠がなかったから」
彼は淡々と答えた。
「家の中には僕と父と母しかいなかった。近所の人は、父が怒鳴っていたのを聞いたことはあるけど、暴力までは知らないって言った。母はもう何も言えない。父も何も言えない。残ったのは、両親のそばにいた僕だけです」
言葉が重かった。
真実とは、こんなにも脆いものなのかと思った。誰かが見ていなければ、記録されていなければ、声の大きな物語に飲み込まれてしまう。社会は真実そのものより、説明しやすい形を好む。複雑な痛みより、わかりやすい怪物を求める。
「ニュースでは、すでに決まってました」
彼は自嘲するように笑った。
「家庭内トラブル。両親殺害。十八歳の少年。残虐。異常性。そんな言葉ばっかりでした。僕の名前より先に、殺人鬼って言葉の方が広まった」
彼の目が、再び空っぽに戻っていく。
「一度そう呼ばれると、もう人間には戻れないんです」
僕はその言葉を聞いた瞬間、胸の奥が締めつけられた。
人は名前で生きている。
友人から呼ばれるあだ名。家族から呼ばれる愛称。出席を取られる時の番号。レシートの担当者欄に印字される名前。そういう小さな呼び名の積み重ねで、自分が誰なのかを保っている。
けれど彼は、名前を奪われていた。
世間に与えられたのは、殺人鬼という名だけだった。
「その後、親戚の家に逃げました」
彼は少しだけ肩をすくめた。
「母の妹の家です。叔母さんは、最初は優しかった。大変だったねって、信じてるよって言ってくれた。叔父さんも、警察にはしばらく黙っておくって言ってくれた。従兄弟も普通に接してくれて、久しぶりに食卓で人とご飯を食べました」
彼の声に、またわずかな温度が戻った。
「味噌汁が温かかったのを覚えてます」
その一言が、僕には妙に忘れられないものになった。
とても普通のことなのに。
あまりにも普通すぎることなのに。
温かい味噌汁を飲むというそれだけの記憶が、彼にとっては救いのように語られる。その事実が、彼のそれまでの生活を何より雄弁に語っていた。
「でも、長くは続かなかった」
彼の声から温度が消えた。
「テレビで僕の顔が何度も流れて、ネットでも色々書かれて、懸賞金までついて。最初は、叔母さんもテレビを消してくれてたんです。でもだんだん見なくなった。僕が部屋にいる時、リビングからニュースの音が聞こえるようになった」
彼は少しだけ笑った。
「不思議ですよね。自分の顔がテレビに映ってるのに、自分の話じゃないみたいなんです。そこに映ってるのは僕なのに、語られてる人間は僕じゃない。知らない誰かが、僕の顔を使って怪物にされてるみたいだった」
僕は、スマートフォンで何気なく見たニュースのことを思い出した。
画面の中の彼に、僕もきっと恐怖した。コメント欄に並ぶ言葉を眺め、ひどい事件だと思い、犯人は早く捕まればいいと思った。そこにいる人間が、どんな家で育ち、どんな声で母親に名前を呼ばれ、どんな夜を越えてきたのかなど、一度も考えなかった。
知らなかったから仕方がない。
そう言うことはできる。
けれど、知らないまま誰かを怪物にすることの残酷さを、僕はその夜初めて思い知った。
「ある晩、叔父さんが言いました」
彼は言った。
「警察に行こうって」
その口調は、まるで舞台の幕が下りる瞬間を説明するようだった。
「お前のためだって。逃げ続けても仕方ないって。ちゃんと話せばわかってもらえるって。でも、目が違いました。僕を心配してる目じゃなかった」
彼はレジ台に置かれたおにぎりの袋を見つめた。
「怖がってました。僕を。あと、たぶんお金も見てた」
懸賞金。
その言葉が僕の頭に浮かんだ。
人間に値段がつく。
命ではなく、発見に値段がつく。
どこにいるかを知らせれば、金になる。そうなった瞬間、その人間は誰かにとって守るべき存在ではなく、差し出すべき対象になる。
「叔母さんは泣いてました。従兄弟は部屋から出てこなかった。叔父さんは電話をかけようとして、僕は逃げようとしました。そしたら殴られました」
彼の声は乱れなかった。
乱れないことが、ひどく悲しかった。
「父と同じでした。言ってることは違うのに、手の感じが同じだった。押さえつけられて、蹴られて、腕を掴まれて、連れていかれそうになった時、僕はもう何も考えられなかった」
僕は息を止めていた。
「まただ、と思ったんです」
彼は言った。
「また誰も話を聞いてくれない。また僕は押さえつけられる。また僕だけが悪いことになる。そう思ったら、身体が勝手に動いてました」
彼はそこから先を詳しく語らなかった。
僕も聞かなかった。
ただ、三人が死んだという事実だけが、レジ台の上に重く置かれていた。彼がどれほど追い詰められていたとしても、人が死んだ事実は消えない。
彼が完全な悪ではなかったとしても、完全な無罪になるわけではない。被害者にも人生があり、そこにはもう戻らない時間がある。
その複雑さを前に、僕は簡単に彼を許すことも、断罪することもできなかった。
たぶん人間の真実とは、そういうものなのだ。
白でも黒でもなく、善でも悪でもなく、いくつもの痛みと過ちと偶然が絡み合って、誰にもほどけない形になっている。
「それで五人です」
彼は言った。
まるで数を数えるように。
まるで自分に言い聞かせるように。
「僕は五人殺した人間です」
僕は彼を見た。濡れた髪。
痩せた頬。傷だらけの指。空っぽの目。
そして、その奥にまだわずかに残っている、誰かに信じてほしかった少年の面影。
「あなたは」
僕はゆっくりと言った。
「本当は、どうしてほしかったんですか」
彼はすぐには答えなかった。
その問いは、彼自身も考えたことがなかったのかもしれない。逃げること、生き延びること、追われないこと。そういう目前の恐怖ばかりに追われてきた彼には、自分が何を望んでいたのかを考える余白すらなかったのだろう。
長い沈黙のあと、彼は言った。
「母が生きててほしかった」
その答えは、子供みたいにまっすぐだった。
「それだけです」
僕の胸の奥で、何かが小さく崩れた。
彼が望んでいたものは、大きな自由でも、無罪でも、復讐でもなかった。ただ母親に生きていてほしかった。ただ一緒にプリンを食べたかった。ただ夜に怯えず、朝を迎えたかった。それだけの願いが叶わなかった結果、彼は世界中から殺人鬼と呼ばれる場所まで流されてしまった。
僕は視線を落とした。
レジ画面にはまだ760円という数字が光っていた。
あまりにも小さな数字だった。
人間の人生がこんなにも壊れているのに、機械は律儀に税込価格を表示していた。
「僕は」
彼が言った。
「もう、自分が本当は何だったのかわからないんです」
僕は顔を上げた。
「母の子供だったのか、父を刺した人間なのか、親戚を殺した化け物なのか、ニュースに出てる殺人鬼なのか。毎日逃げてるうちに、どれが自分なのかわからなくなった」
その声には、初めて迷子のような響きがあった。
「世界って、こんなに広いんですね」
突然、彼は窓の外を見た。雨に濡れた街に、車の光が交差している。傘を差して歩く人もいる。
夜になっても眠らない駅前。
「逃げてから、いろんな場所に行きました。でも、何も見てないんです。駅も、公園も、海の近くも、山の方も。ただ隠れる場所か、通り過ぎる場所でしかなかった。綺麗とか、楽しいとか、そういうふうに見たことがない」
僕はその言葉を聞いて、なぜか息苦しくなった。
彼はずっと世界の中にいたのに、世界を見ていなかった。いや、見ることを許されていなかったのかもしれない。
彼にとって街の灯りは美しいものではなく、自分を見つける目だった。人混みは賑わいではなく、通報者の群れだった。駅はどこかへ行くための場所ではなく、誰にも気づかれずに逃げるための通路だった。
同じ世界に生きているはずなのに、僕たちはまったく違うものを見ていた。
「ねえ」
僕は言った。
自分でも驚くほど自然に、その言葉は出た。
「お腹、空いてませんか」
彼は窓から視線を戻した。
「え」
「それ、外で食べるんですか?」
僕はレジ台の上の商品を指した。
「カップ麺、お湯入れます。裏で食べてください」
彼の表情が変わった。
警戒というより、理解できないものを見た時の顔だった。拳向けられることには慣れていても、食事を勧められることには慣れていない。疑われることには慣れていても、ただ空腹を心配されることには慣れていない。そんな顔だった。
「通報、しないんですか」
彼は聞いた。
僕は答えられなかった。
するべきだと思った。
今すぐにでも。
彼は五人を殺したとされる人間で、僕はただの大学生で、ここは深夜のコンビニで、防犯上のマニュアルなら迷わず警察に連絡するべき場面だった。
それなのに、僕はもう彼をただの指名手配犯として見ることができなかった。
だからといって、彼の罪が消えるわけではない。
誰かが死んだ事実は変わらない。
それでも、今目の前にいる少年が、寒さと空腹で震えながら、760円分の食べ物を買おうとしていることもまた、変えようのない事実だった。
「今はしません」
僕は言った。
「今は?」
「はい」
彼は少しだけ目を細めた。
「いつかはするんですか」
「わかりません」
僕は正直に言った。
「でも、少なくとも今、あなたがここで倒れそうなのを見て、警察だけ呼ぶことはできない」
彼は黙っていた。
その沈黙の中に、疑いと困惑と、ほんの少しの疲れが混ざっているのがわかった。
「変な人ですね」
彼はやがてそう言った。
「よく言われます」
「殺されるかもしれないのに」
「怖いです」
僕は即答した。
「ものすごく」
彼は少し驚いたようだった。
「でも、怖いのと、知りたいのは別です」
その言葉を口にした瞬間、僕は自分自身の輪郭をほんの少しだけ掴んだ気がした。
僕は勇敢な人間ではない。
正義感の塊でもない。
誰かを救えるほど強くも賢くもない。
それでも、目の前にいる人間を知らないまま終わらせたくないという気持ちだけは、本物だった。
僕はカップ麺にお湯を注いだ。
湯気が立ちのぼり、冷えた空気の中で白く広がった。乾いた麺が少しずつ柔らかくなっていく匂いが、店の裏側に漂った。彼はバックヤードの簡易椅子に座り、両手でカップを包み込むように持っていた。
その姿は、ひどく幼く見えた。
指名手配犯でも、殺人鬼でもなく、ただ温かいものを食べようとしている少年だった。
「熱いですよ」
僕が言うと、彼は小さく頷いた。
「はい」
そして数分待ってから、彼はゆっくりと麺を口に運んだ。
たったそれだけの光景なのに、僕は胸が詰まった。
人間は、こんなふうに食べるのだ。
生きるために。
明日がまだ来るかどうかもわからない夜に、それでも温かいものを口に入れる。逃げていても、追われていても、罪を背負っていても、身体は空腹を覚え、温度を欲しがる。
「おいしいですか」
僕が尋ねると、彼は少し考えてから言った。
「わからないです」
「わからない?」
「でも、温かいです」
その言葉に、僕はなぜか救われた気がした。
おいしいかどうかはわからなくても、温かいことはわかる。
それだけで十分なのかもしれなかった。
僕たちはしばらく黙っていた。
バックヤードには段ボール箱が積まれ、返品予定の商品が隅に寄せられ、壁に貼られた勤務表には僕の名前が黒いペンで書かれていた。あまりにも現実的で、あまりにも生活じみた空間だった。その中で、全国に追われる少年がカップ麺を食べている。
この夜のことを、僕はいつか思い出すだろうと思った。
人生がどこへ向かっても、どんな仕事に就いても、どれほど時間が経っても、この雨の匂いと、蛍光灯の白さと、彼がカップ麺を両手で包み込んでいた姿だけは、きっと消えない。
「あなた、名前は」
彼がふいに聞いた。
僕は自分の名前を答えた。
彼はそれを小さく繰り返した。
他人の名前を久しぶりに口にするように、慎重に。
「僕は」
彼は一瞬迷った。
おそらく、自分の名前を言うこと自体が怖かったのだろう。名前は自分を証明するものだけれど、今の彼にとっては、自分を追い詰める手がかりでもある。
それでも彼は言った。
「水瀬蓮です」
僕は頷いた。
「蓮くん」
その瞬間、彼の箸が止まった。
たったそれだけのことだった。
僕が彼を名前で呼んだだけ。
けれど彼は、まるで不意に傷口へ触れられたみたいに固まった。
「名前で呼ばれたの、久しぶりです」
彼はそう言った。僕は何も返せなかった。
殺人鬼。指名手配犯。凶悪犯。容疑者。
世間が彼に貼りつけた言葉はいくつもあった。
けれど、彼は水瀬蓮だった。
母親が呼んだ名前があり、プリンを喜んだ夜があり、家の中で息を潜めていた時間があり、誰にも信じてもらえなかった言葉があった。
人間を人間として見ることは、こんなにも怖いことなのだと思った。
怪物として見ていれば簡単だった。
恐れて、憎んで、遠ざければよかった。
けれど名前を知ってしまうと、その人間の痛みを見ないふりができなくなる。
罪を許すこととは違う。正当化することとも違う。
ただ、そこに人生があったのだと知ってしまう。
その重さは、僕の想像よりずっと苦しかった。
「蓮くん」
僕はもう一度呼んだ。
彼は顔を上げた。
「世界を見に行きませんか」
言ったあとで、僕は自分が何を口走ったのか理解した。
馬鹿げているし危険すぎる。現実的ではない。
今すぐ前言撤回するべきだった。
けれど、彼は笑わなかった。
ただ、僕を見ていた。
「世界?」
「大げさに言いました」
僕は少しだけ苦笑した。
「でも、あなたが見たことないものを、少しだけ」
「どうして」
その問いは、さっきと同じだった。
どうして知りたいのか。
どうして通報しないのか。
どうして食べ物をくれるのか。
どうして名前で呼ぶのか。
どうして。
彼はきっと、人生の中でずっとそれを問い続けてきたのだろう。どうして殴られるのか。どうして母が謝るのか。どうして信じてもらえないのか。どうして自分だけが怪物になるのか。
僕はしばらく考えた。
そして、やはり正直に答えるしかなかった。
「僕が見せたいからです」
「何を」
「色を」
蓮くんは、僕の言葉を理解できないように見つめていた。
「色?」
「はい」
僕は窓の外に目を向けた。
雨はいくらか弱まっていた。黒い夜の中で、信号機の赤が濡れた道路に滲み、タクシーの黄色い車体がゆっくりと駅前を曲がっていく。コンビニの看板の光は白く、遠くの自動販売機は青く光っていた。
いつもなら何とも思わない景色だった。
けれどその夜だけは、それらすべてが、誰かにまだ見られるのを待っている色のように思えた。
「逃げるためじゃなくて、隠れるためじゃなくて、ただ見るために見る世界を」
僕は言った。
「あなたに、見せたいです」
蓮くんは何も言わなかった。
ただ、カップ麺を持つ手に少しだけ力を込めた。
彼がその申し出を信じたのか、疑ったのかはわからなかった。僕自身、それが本当に優しさなのか、それとも自分の退屈な人生を変えたいだけの身勝手な衝動なのか、判断できなかった。
それでも、その時の僕には確かに思えた。
彼は世界を知らない。
そして僕も、彼に出会うまで、本当の意味では世界を知らなかった。
僕たちは、まったく違う暗闇の中にいた。
ならば少しくらい、一緒に歩いてみてもいいのではないか。
たとえその先に、正しい結末が待っていないとしても。
たとえいつか、僕が彼を警察へ連れていかなければならないとしても。
この夜だけは、彼を殺人鬼ではなく、蓮くんとして
温かいものを食べるひとりの少年として扱いたかった。
雨が止みかけていた。
そして僕は知らなかった。
この夜の小さな選択が、僕の平凡で曖昧だった人生を、後戻りのできない場所へ連れていくことを。
僕がずっとなりたかった「すごい人間」などではなく、誰かの世界にたった一色だけを足そうとする、愚かで、弱くて、けれど確かに生きている人間に変えていくことを。
まだ、何も知らなかった。
その夜から、僕たちは世界を見に行くようになった。
初めは、そんな大げさなものではなかった。
深夜のコンビニの裏口から、雨上がりの街へ出た。濡れたアスファルトには信号機の赤や青が滲んでいて、車が通るたびにそれらは水面の絵の具みたいに揺れた。蓮くんは黒いパーカーのフードを深く被り、僕の少し後ろを歩いていた。誰かに見つかることを恐れているというより、誰かと並んで歩くこと自体に慣れていないような距離だった。
駅前の喧騒は、夜が遅いにもかかわらずまだ息をしていた。酔った大学生の笑い声、タクシー乗り場にできた短い列、コンビニの袋を提げて足早に帰る会社員、閉店間際の居酒屋から漏れる焼き鳥の匂い。僕にとっては見慣れた景色だった。退屈で、騒がしくて、どこにでもある地方都市の夜だった。
けれど蓮くんは、それらをひとつずつ確かめるように見ていた。
看板の光を。
雨粒の残ったガードレールを。
駅の時計を。
誰にも追われていない顔で笑う人たちを。
「みんな、普通に歩いてるんですね」
彼は言った。
「そりゃ、歩きますよ」
僕は少し笑った。
「そうじゃなくて」
蓮くんはうまく言葉を探せないように、濡れた地面を見つめた。
「怖くないみたいに」
その言葉に、僕は返事ができなかった。
彼にとって外の世界は、いつも危険のある場所だったのだろう。家の中が安全でなかった人間にとって、外の世界が急に優しくなるはずもない。人の視線は自分を見つけるためのものに思え、足音は追ってくる音に聞こえ、誰かの笑い声さえ、自分を嘲っているように響いたのかもしれない。
僕はその時、初めて思った。
世界を見るということは、ただ景色を見ることではないのだと。
怖くないものを、怖くないものとして受け取れること。
綺麗なものを、疑わずに綺麗だと思えること。
それ自体が、彼にはまだ与えられていなかったのだ。
翌日、僕は大学へ休学に近い形の長期欠席届を出した。正確には、体調不良と家庭の事情を理由に、講義もゼミも一ヶ月ほど休むことにした。アルバイト先には、親戚の手伝いで遠方に行かなければならないと説明した。嘘は驚くほど簡単に口から出た。人は本当に隠したいことがある時ほど、自然な顔で嘘をつけるのだと知った。
罪悪感はあった。
けれど、それ以上に焦りがあった。
蓮くんには時間がない。
彼がいつ捕まるのか、あるいはいつ自分から終わりを選んでしまうのか、僕にはわからなかった。だから僕は、彼がまだ歩けるうちに、まだ世界を見る気力が残っているうちに、できるだけ多くのものを見せたかった。
僕の預金口座には、思っていたよりも金があった。
大学に入り、遊ぶ予定もあまりなく、ただ働き続けていたからだった。講義が終わればバイトへ行き、休日も人手が足りないと言われればシフトに入った。通帳に増えていく数字を見ても、特に嬉しいとは思わなかった。将来が不安だから、何となく貯めていただけだった。
その何となく貯めた金を、僕は一ヶ月で使い切ることにした。
馬鹿げていると思った。
実際、馬鹿げていた。
けれど、人生で一度くらい、正しさではなく、どうしてもそうしたいという気持ちだけで動いてもいいのではないかと思った。
最初に行ったのは、ボウリング場だった。
平日の昼過ぎで、客は少なかった。古びたビルの三階にあるそのボウリング場は、入口に安っぽいポップが貼られ、貸し靴の棚から独特の消毒液の匂いが漂っていた。レーンの奥ではピンが倒れる乾いた音が反響し、天井の蛍光灯が磨かれた床の上で白く伸びている。
蓮くんは、ボウリングの球を前にしてしばらく固まっていた。
「これ、重いですね」
「重いやつ選びすぎです」
「どれが普通ですか」
「人によります」
「普通って難しいですね」
彼が真面目な顔でそう言ったので、僕は笑いそうになった。
けれど、すぐに笑えなくなった。
彼は本当に知らないのだ。遊び方を。
自分に合う重さを選ぶことを。
蓮くんの最初の一投は、見事にガターだった。
球は哀れなほどゆっくりと溝を転がっていき、ピンには一本も触れなかった。彼はしばらくレーンの奥を見つめ、それから僕を振り返った。
「終わりですか」
「終わりじゃないです。もう一回あります」
「失敗しても?」
「失敗しても」
彼はその言葉を、まるで初めて聞く外国語みたいに受け取った。
失敗しても、もう一回ある。
それはボウリングでは当たり前のルールだった。
けれど彼の人生には、たぶんなかった言葉だった。
二投目もガターだった。
僕はさすがに笑ってしまった。
蓮くんは少しだけむっとしたような顔をしたが、やがて自分でもおかしくなったのか、口元を緩めた。
その笑顔を見た瞬間、僕は胸の奥が熱くなるのを感じた。
たぶんそれは、彼が初めて僕の前で見せた、過去にも恐怖にも縛られていない笑顔だった。
人は笑う時、ほんの一瞬だけ無防備になる。
その無防備さを彼が取り戻したことが、僕には泣きたくなるほど嬉しかった。
映画館にも行った。
大きなショッピングモールの中にある映画館で、僕たちは人の少ない朝一番の回を選んだ。蓮くんは館内に入るなり、巨大なポスターと薄暗い廊下、甘いポップコーンの匂いに圧倒されたように立ち止まった。
「映画って、家で見るものじゃないんですか」
「映画館で見るものでもあります」
「贅沢ですね」
「まあ、贅沢かもしれません」
僕たちは一番後ろの席に座った。
上映前の暗闇の中、蓮くんは紙カップのコーラを両手で持っていた。スクリーンが白く光り、予告編の音が劇場全体を震わせた瞬間、彼の肩が少し跳ねた。
「音、大きいですね」
「大丈夫ですか」
「大丈夫です」
そう言いながらも、彼はしばらく身体を硬くしていた。
物語が始まると、少しずつ力が抜けていった。彼はスクリーンをじっと見つめていた。瞬きも忘れているようだった。暗闇の中で、彼の横顔だけがときどき映像の光に照らされる。その顔は、十八歳の少年というより、初めて芝居小屋に迷い込んだ子供のようだった。
映画の内容は、正直よく覚えていない。
魔法も事件も恋もあった気がする。
けれど僕が覚えているのは、エンドロールが流れたあとも蓮くんが席を立たなかったことだ。
「終わりましたよ」
僕が言うと、彼は小さく頷いた。
「知ってます」
「じゃあ、行きますか」
「もう少しだけ」
彼はスクリーンを見つめたまま言った。
「人が作った世界って、こんなに綺麗に光ってるんですね」
僕はその言葉を聞いて、何も言えなくなった。
蓮くんは、世界を知らないだけではなかった。
世界を表現する言葉を、彼なりに必死で探していた。
その言葉はときどき不格好で、ときどき妙に美しく、
僕よりずっとまっすぐ物事の芯に触れていた。
僕たちは、いくつもの場所へ行った。
水族館では、彼は巨大な水槽の前からなかなか動かなかった。
青い光の中を魚たちがゆっくり泳ぎ、銀色の群れが方向を変えるたびに、水の中で光がほどけるように揺れた。
「水の中って、静かそうですね」
「実際は音あると思いますよ」
「でも、人間の声は聞こえなさそうです」
彼はそう言った。
その言葉の意味を、僕は深く聞かなかった。
聞かなくてもわかることがある。
彼の人生には、人間の声が多すぎたのだ。
怒鳴り声。謝る声。決めつける声。
追い立てる声。テレビの中で自分を怪物にする声。
だから彼は、水槽の中を羨ましそうに見ていた。
人の声が届かない青い場所に、憧れるように。
海にも行った。
昼の海だった。
蓮くんは以前、夜の海しか知らないと言っていた。だから僕は、どうしても晴れた日の海を見せたかった。
電車を乗り継ぎ、人気の少ない海岸駅で降りた。改札を抜けると潮の匂いがした。夏ではなかったから海水浴客はいなくて、浜辺には犬を散歩させる老人と、遠くで写真を撮っている若い男女がいるだけだった。
海は、驚くほど青かった。
空の色をそのまま溶かしたような青ではなく、もっと深く、もっと重く、光の角度によって緑にも銀にも変わる青だった。波が寄せては返し、そのたびに白い泡が砂浜に細い線を描いた。
蓮くんは、しばらく何も言わなかった。
ただ立っていた。
風に髪を揺らされながら、黒いパーカーのポケットに手を入れて、まるで自分の目だけではこの広さを受け止めきれないというように、海を見ていた。
「広いですね」
やがて彼は言った。
「うん」
「あんなに広いのに、誰のものでもないんですか」
「たぶん」
「変ですね」
「何がですか」
「こんなに綺麗なものが、売られたり、隠されたりしないで、ずっとここにあるのが」
僕は、その言葉を聞いて海が少し違って見えた。
国のもの誰のものでもないという常識はこうも覆されるのだと
僕にとって海は、ただ広くて青いものだった。
けれど蓮くんにとってそれは、奪われないものの象徴だったのかもしれない。誰かの機嫌で壊されず、誰かの暴力でゆがめられず、誰かの値段で売られないもの。そんなものがこの世界に存在すること自体、彼には奇跡のように思えたのだろう。
そして、僕たちはディズニーランドにも行った。
それは、僕がこの一ヶ月の中でいちばん迷った場所だった。
人が多すぎるし監視カメラもある。警備員だっている。
彼の顔を知っている人間がいるかもしれない。
危険は大きかった。
けれど蓮くんが、スマートフォンでたまたま見たパレードの動画を、ほんの数秒だけ食い入るように眺めていたことに僕は気づいてしまった。
あの時の彼の目を、僕は無視できなかった。
夢の国、という言葉を僕はあまり信じていなかった。
けれど蓮くんには、その馬鹿みたいに明るい夢が必要な気がした。
早朝、新幹線に乗った。
蓮くんは窓側の席に座り、流れていく景色を黙って見ていた。田んぼ、住宅街、川、工場、ビル群。それらが窓の外で次々に後ろへ流れていく。
「世界って、こんなに速く変わるんですね」
彼は言った。
「新幹線だからね」
「僕の中では、ずっと同じ場所にいたみたいでした」
僕はその言葉の意味を考えた。
逃げていた彼は、誰よりも移動していたはずだった。
けれど心はずっと、あの家の夜に閉じ込められていたのだろう。
母親が倒れた音に父親を刺した感触。
親族の家で向けられた恐怖の目。
彼はどこへ行っても、そこから出られなかった。
思ったよりもすんなり入れた。人が多すぎることが逆に彼を注目からとざけていた。
ディズニーランドのゲートをくぐった時、蓮くんは足を止めた。
目の前には、現実とは明らかに違う色が広がっていた。建物の壁は柔らかい色で塗られ、音楽が空気に混ざり、見知らぬ人たちが耳のついたカチューシャをつけて笑っている。風船が空へ向かって揺れ、甘い匂いがどこからか漂い、遠くに見える城は、嘘みたいに白く光っていた。
「ここ、怒られないんですか」
蓮くんが真顔で言った。
「何を?」
「大人が、こんなに楽しそうにしてて」
僕は笑った。
けれどすぐに、その笑いも胸の奥で苦しくなった。
彼の中では、大人とは怒るものだった。殴るものだった。支配するものだった。楽しそうにしている大人、誰も傷つけずにはしゃいでいる大人、子供みたいな顔でポップコーンを食べている大人は、彼の知っている世界には存在しなかったのだ。
「怒られませんよ」
僕は言った。
「ここでは、楽しんでもいいんです。
馬鹿みたいにはしゃいでにっこり笑っていいんですよ。」
蓮くんは、その言葉を信じるまでに少し時間がかかった。
僕たちはアトラクションに乗った。
彼は暗い室内型のものでは最初、身体を硬くした。急に大きな音が鳴るたびに肩を震わせ、出口に近い方を確認していた。けれど、乗り終えるたびに少しずつ表情が変わった。
怖いものが、怖いだけで終わらない。
驚いたあとに笑ってもいい。
心臓が速く鳴っても、それは危険の合図ではなく、楽しさの一部かもしれない。
彼はそのことを、身体でひとつずつ覚えているようだった。
昼過ぎ、僕たちはベンチに座ってチュロスを食べた。
蓮くんはそれを妙に慎重にかじった。
「甘いです」
「そりゃ甘いですよ」
「こんな甘いものがあるなんて知りませんでした」
「チュロス?」
「はい」
彼は少し考えてから続けた。
「逃げてる時に食べる甘いものとは違います」
僕は彼の横顔を見た。
「どう違うんですか」
「逃げてる時は、味がしないんです。食べないと動けないから食べるだけで。でも、これは」
彼は手元のチュロスを見た。
「食べたくて食べてます」
その言葉は、小さな宣言のようだった。
生きるために食べるのではなく、食べたいから食べる。
眠るために目を瞑るのではなく、眠りたいから幕をとじる。
移動するために歩くのではなく、見たいものがあるから歩く。
そういう当たり前の選択を、彼は少しずつ取り戻していた。
結局僕のチュロスも、半分蓮くんが食べた。
夜、パレードを見た。
音楽が鳴り、光が動き、人々の歓声が空へ上がった。色とりどりの電飾が夜の闇を押し返し、キャラクターたちが手を振るたびに、子供たちが夢中で名前を呼んだ。
蓮くんは黙って見ていた。
隣に立つ僕にもわかるほど、彼の呼吸は浅かった。
「大丈夫ですか」
僕が尋ねると、彼は頷いた。
「大丈夫です」
でも、その目には涙があった。
初めて見る涙だった。
彼は慌てて顔を伏せたが、もう遅かった。光に照らされた頬を、透明な線がひとつ落ちていた。
「すみません」
彼は言った。
「なんで謝るんですか」
「わからないです。泣いたら、謝らなきゃいけない気がして」
僕は何も言えなかった。
泣くことさえ、彼にとっては許可のいる行為だったのだ。
泣くと怒られ、面倒がられ、もっと殴られる。
そんな世界で育った彼は、自分の涙にまで謝っていた。
「謝らなくていいです」
僕は言った。
「泣いていいんです」
蓮くんは唇を噛んだ。
そして、子供みたいに泣いた。
声は出さなかった。
ただ肩を震わせながら、夜の光の中で泣いていた。
僕は隣に立っていた。
背中をさすることも、抱きしめることもできなかった。そんなことをしていい関係なのか、僕にはわからなかった。ただ、彼が泣いている間、そこから離れなかった。それだけが僕にできる最善なのだと。
あの夜、僕は思った。
世界は、時々残酷なほど美しい。
どこかのアニメで見たそんなセリフも今なら理解ができる。
美しすぎるものは、傷ついた人間の心を容赦なく照らしてしまう。
暗闇の中では気づかずにいられた傷も、光の中でははっきり見えてしまう。だから美しいものは、人を救うだけではない。人を痛めつけることもある。
それでも僕は、蓮くんにこの光を見せてよかったと思った。
彼の涙が、悲しみだけのものではなかったからだ。
その一ヶ月は、夢のように過ぎた。
僕たちは安いビジネスホテルに泊まり、朝食バイキングで蓮くんがスクランブルエッグを取りすぎて困ったり、知らない街の商店街を歩いたり、ゲームセンターでクレーンゲームに失敗し続けたりした。観覧車にも乗った。美術館にも行った。夜行バスで眠れずに、サービスエリアの自動販売機で温かい缶コーヒーを買ったこともあった。
その間、蓮くんは少しずつ変わっていった。
劇的な変化ではなかった。
事件の記憶が消えたわけでも、罪の重さが軽くなったわけでもない。
けれど、彼は笑うようになった。
食べたいものを言うようになった。
眠い時に眠いと言い、寒い時に寒いと言うようになった。
それだけのことが、僕には奇跡のように思えた。
彼はまだ、世界の入口に立ったばかりの子供だった。
十八歳という年齢だけなら、大学に入ったばかりの友人たちと変わらない。サークルに入り、講義をさぼり、恋をして、将来に悩み、深夜にくだらない話をして笑っていてもおかしくない年齢だった。
けれど蓮くんは、そのどれも知らなかった。
彼の十八年間は、生き延びることだけで埋まっていた。
だから僕は、彼が何かを初めて知るたびに、嬉しいと同時に腹が立った。
どうしてこんなものまで、彼は知らずに生きてこなければならなかったのだろう。
一ヶ月目の終わり、僕たちは最初に出会った街へ戻ってきた。
預金はほとんど底を尽きていた。
財布の中には数千円しか残っていなかったし、スマートフォンにはカード会社からの利用通知がいくつも届いていた。これ以上は続けられないことを、僕も蓮くんもわかっていた。
夕方だった。
僕たちは河川敷に座っていた。
空は薄い橙色から紫へ変わりかけていて、川面には雲の影が長く伸びていた。遠くの橋を電車が渡り、その音が少し遅れてこちらへ届く。風は冷たくなり始めていて、枯れ草がかすかに擦れる音がした。
「帰ろっか」
僕は言った。
それは、どこへ帰るという意味だったのだろう。
僕のアパートか。
この街か。
それとも、それぞれが本来戻るべき現実か。
言った僕自身にも、よくわからなかった。
蓮くんはしばらく川を見ていた。
水は何も知らない顔で流れていた。人間の罪も、後悔も、願いも、すべて足元を通り過ぎていくように。
「僕、自首します」
彼は静かに言った。
予感はあった。
この一ヶ月が永遠に続かないことくらい、僕にもわかっていた。蓮くんが逃げ続けることを本当は望んでいないことも、途中から気づいていた。彼は世界を見た。色を知った。温かいものを食べ、遊び方を覚え、泣いても怒られない夜を知った。
だからこそ、逃げ続けることができなくなったのだと思う。
真実を話したい。殺人鬼とつけられたこの身から、自分の名前を取り戻したい。
殺人鬼という言葉だけで終わりたくない。
彼の中に、そういう気持ちが生まれていた。
「止められないです」
僕は言った。声が震えていた。
「怖いです」
蓮くんは少し笑った。
その笑顔は、最初にコンビニで見た壊れた笑みとは違っていた。
弱くて、怖がっていて、それでも自分の足で立とうとしている笑顔だった。
「一緒に来てくれませんか」
彼は言った。
「警察署まで」
僕は彼を見た。
彼の目はもう空っぽではなかった。
恐怖もあり。後悔もあり。痛みもある。
けれど、その奥に確かに意思があった。
自分の人生を、他人の言葉だけで終わらせないという意思が。
「ついていきましょう。」
僕は言った。
「最後まで。」
夜になってから、僕たちは警察署へ向かった。
街灯の下を歩く蓮くんの横顔は、ひどく静かだった。僕は隣を歩きながら、何度も何かを言おうとした。大丈夫だと言いたかった。きっとわかってもらえると言いたかった。君は怪物じゃないと言いたかった。
でも、どれも言えなかった。
僕には未来を保証できない。
社会が彼を許すかどうかも、裁判が何を認めるのかも、誰が彼の言葉を信じるのかもわからない。
だから僕は、ただ隣を歩いた。
それしかできなかった。
警察署の前に着いた時、蓮くんは一度立ち止まった。
建物の白い壁は夜の中で冷たく光っていた。入口の自動ドアの向こうには、明るすぎる蛍光灯と、受付に座る警察官の姿が見えた。
「一ヶ月、楽しかったです」
蓮くんは言った。
僕は喉の奥が詰まった。
「僕もです」
「初めて、明日が来るのが怖いだけじゃなかった」
その言葉で、僕はもうだめだった。
泣きそうになって顔を伏せた。
蓮くんはそんな僕を見て、少し困ったように笑った。
「泣いていいんですよ」
彼は笑って言った。
僕が彼に教えた言葉を、彼は僕に返した。
それがあまりにも優しくて、残酷で、美しくて、僕はその場から動けなくなりそうだった。
蓮くんは自動ドアの前に立った。
そして、振り返らずに言った。
「僕、全部話します」
ドアが開いた。
彼は中へ入った。僕も、その後に続いた。
取り調べは長かった。
僕は別室で何度も事情を聞かれた。いつ彼に会ったのか。なぜ通報しなかったのか。この一ヶ月どこへ行っていたのか。彼に脅されていたのか。協力していたのか。僕はできる限り正直に話した。
脅されて居ないこと。僕の意思で一緒にいたこと。
でも、僕は彼をただ逃がしたかったわけではありません。
彼の話を聞きたかったんです。彼に世界を見せたかったんです。警察官は、僕の言葉を理解できないような顔で聞いていた。
無理もないと思った。
自分でも、すべてが正しかったとは思っていない。
通報すべきだった。早く警察に連れてくるべきだった。僕の行動が、誰かをさらに傷つける可能性だってあった。その責任から逃げるつもりはなかった。
それでも僕は思った。
あの雨の夜、レジの前に立っていた蓮くんを、ただ通報することだけが本当に唯一の正しさだったのかと。
数日後、世間は騒ぎ始めた。
全国指名手配犯、逮捕。
大学生が発見、同行。
逃亡中の少年を説得か。
懸賞金の対象に。
ニュースは、あまりにも簡単に物語を作った。
僕が蓮くんを捕まえたことになっていた。
勇敢な大学生。
偶然発見し、説得。
警察署へ同行。
まるで美談だった。
誰も、僕たちがボウリングをしたことを知らなかった。映画館の暗闇で彼がスクリーンを見つめていたことも、昼の海を見て「誰のものでもないんですか」と言ったことも、ディズニーランドのパレードの前で泣いたことも、誰も知らなかった。
懸賞金の話も出た。
僕に受け取る権利があると言われた。
でも、そんなものは欲しくなかった。
彼に値段をつけた金だった。彼が親族に差し出されかけた理由のひとつだったから。その金を受け取ることは、僕にはどうしてもできなかった。僕は断った。何度も。けれど手続きの話は淡々と進み、書類の上では、僕の名前と蓮くんの名前と金額が並んだ。
人間の人生は、時々ひどく事務的に処理される。
それが僕にはたまらなく苦しかった。
蓮くんは、無罪にはならなかった。
すべてが彼の言葉通りに認められたわけではなかった。父親の暴力や母親の死に関しては、新たな証言や古い記録が少しずつ出てきた。近所の人が、怒鳴り声を聞いていたことを話した。母親が生前、病院で怪我の説明を曖昧にしていた記録も見つかった。親族の家で何があったのかについても、彼が一方的な殺意だけで動いたのではない可能性が語られた。
それでも、人が死んだ事実は消えなかった。
彼が包丁を握ったことも。
彼の手によって命が終わったことも。
裁判の中で、彼は何度も謝った。
母親のことを話す時だけ、声が少し震えていた。
親族の遺族へ向けて頭を下げる時、彼の背中は折れそうなくらい細く見えた。
僕は傍聴席で、それを見ていた。助けたかった。
でも、助けるという言葉が何を意味するのか、僕にはわからなかった。
彼を自由にすることが救いなのか。
罪を受け止めさせることが救いなのか。
真実を知ってもらうことが救いなのか。
ただ、彼の名前をもう一度人間のものとして呼ぶことが救いなのか。
僕には何もわからなかった。
だから僕は、文章を書いた。
僕たちの一ヶ月を、SNSに投稿した。
最初は、怖かった。
世間に叩かれることはわかっていた。犯罪者を美化するなと言われるだろう。被害者のことを考えろと言われるだろう。お前も共犯だと言われるかもしれない。実際、そのすべてを言われた。
けれど僕は、書くことをやめなかった。
蓮くんがしたことを消すためではない。
彼を無理に許させるためでもない。
ただ、彼が殺人鬼という一語だけでできた人間ではなかったことを、誰かに知ってほしかった。
彼は、ボウリングで二回連続ガターを出して、少し拗ねた。映画館のエンドロールを、光が消えるまで見つめていた。昼の海を見て、こんなに綺麗なものが誰のものでもないことに驚いた。
チュロスを食べて、人のものも欲しくなる気持ちを知った。パレードの光の中で、泣いてもいいのだと知った。彼は十八歳だった。
まだ何も知らない子供だった。
世界を知らず、優しさの受け取り方を知らず、失敗してももう一回あることさえ知らなかった。
その子供が罪を犯した。
その事実は消えない。
けれど、その子供が子供だったという事実もまた、消してはいけないと思った。
投稿は瞬く間に広がった。
肯定する人もいた。
怒る人もいた。
泣いたと言う人もいた。
許せないと言う人もいた。
当然だと思った。
人の命が関わる話に、簡単な結論などあってはいけない。ただ、少しずつ、蓮くんを「殺人鬼」とだけ呼ばない人が増えた。
水瀬蓮という名前を書く人が増えた。
彼の事件を、単なる凶悪犯罪としてではなく、家庭内暴力や孤立、少年が追い詰められていく過程の問題として語る人が現れた。
世界が変わった、などとは言えない。
そんな大げさなことは言えない。
亡くなった人たちは戻らない。
蓮くんの罪も消えない。
僕の行動がすべて正しかったとも思わない。
けれど、ほんの少しだけ、世界の見方が変わった人はいたのかもしれない。
少なくとも僕は変わった。
退屈で、何者にもなれず、ただ働くだけの日常の中で、自分には何もできないと思っていた僕は、あの一ヶ月を通して知った。
人は、誰かを完全に救うことなどできない。
他人の罪を背負うことも、過去を消すことも、死者を戻すこともできない。
それでも、誰かが自分の名前を忘れそうになっている時、その名前を呼んであげることはできる。
誰かが世界を怖いものとしてしか見られない時、隣に立って、あれは海だよ、あれは光だよ、あれは甘いものだよと教えることはできる。
ほんの少しだけ、色を差し出すことはできる。
判決の日、蓮くんは僕の方を見なかった。
ただ前を向いていた。
裁判長の声が法廷に響く間、彼は一度も身じろぎしなかった。長い時間が奪われることを、彼は静かに受け止めていた。
閉廷後、連れていかれる直前に、彼は一度だけ振り返った。
そして、ほんの少し笑った。
口の動きだけで、何かを言った。
声は聞こえなかった。
けれど僕にはわかった。
ありがとう。
そう言ったのだと思った。
僕は泣かなかった。
泣いたら、彼がまた謝ってしまう気がしたから。
だから、ただ頷いた。
ちゃんと届いたと伝えるために。
外へ出ると、空は晴れていた。
雲ひとつない、痛いくらい青い空だった。
僕は法廷の前で立ち尽くし、その青を見上げた。
蓮くんに見せた海の色を思い出した。
ディズニーランドの夜の光を思い出した。
映画館の暗闇を、ボウリング場の乾いた音を、コンビニの裏で立ちのぼったカップ麺の湯気を思い出した。
すごい人間になりたかった。
僕がいることで、少しだけ世界が変わるような人間になりたかった。
それはこの僕の願いであり夢である。
でも今は、少し違う。
世界全部を変えられなくてもいい。
たった一人の世界に、たった一ヶ月でも色を灯せたのなら。その人が暗闇の中へ戻る時、ほんの少しでも青を、赤を、黄色を思い出せるのなら。
僕は、それでよかったのかもしれない。
蓮くん。
君がこれから長い時間を過ごす場所には、自由は少ないだろう。見える空は狭いかもしれない。夜は長いかもしれない。後悔に眠れない日もあるだろう。
けれど、どうか忘れないでほしい。
世界は君が見たように広い。
失敗してももう一回投げられるゲームがある。
食べたくて求める甘いものがある。
泣いても怒られない感動がある。
そして君は、殺人鬼と呼ばれる前から、水瀬蓮という名前を持った、ひとりの人間だった。
僕はそのことを、これからも書き続ける。
君の罪を消すためではなく。
君を綺麗な物語にするためでもなく。
人間を、一語で終わらせないために。
世界が少しでも、その複雑さに耐えられる場所になるように。
あの雨の夜、コンビニのレジの前に立っていた君へ。
色を知らなかった君へ。
そして、君に色を見せたいと言いながら、本当は君に世界の見方を教えられた僕自身へ。
そしてこれを読んでいる世界のみんなへ
僕は描き続ける。
僕と水瀬蓮のお話を。




