雨の日にだけ開く古書店で、婚約破棄された私を待っていたのは―― 〜捨てられた令嬢は、本の精霊に愛されていました〜
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この作品は生成aiを用いて執筆を行なっています
あらかじめご了承の上、お楽しみください
「婚約を破棄する」
シャンデリアの光が眩く降り注ぐ大広間に、その言葉は残酷なほど明瞭に響き渡った。
私――リーゼロッテ・フォン・ヴェルナーは、三百人を超える貴族たちの視線が一斉に突き刺さるのを感じながら、ただ静かに立ち尽くしていた。
(……ああ、やっぱり)
心のどこかで予感していた。今夜の婚約披露パーティーで、エドワード様の態度がいつにも増して冷たかったこと。私ではなく、あの蜂蜜色の髪をした令嬢ばかりを目で追っていたこと。
「エドワード様、これは一体――」
「聞こえなかったのか?」
金髪碧眼の婚約者――いや、元婚約者は、まるで汚物を見るような目で私を見下ろした。侯爵家嫡男として社交界の花形と称えられるその美貌が、今は醜い嘲笑に歪んでいる。
「君のような地味で暗い女は、伯爵家の恥だ。いや、私の恥と言うべきか」
広間にどよめきが走る。扇で口元を隠しながら、貴婦人たちがひそひそと囁き合う声が耳に届いた。
『まあ、可哀想に』『でも確かに、あの方では釣り合いが取れませんものね』『侯爵家には華やかな方がお似合いですわ』
(可哀想、か。三年間、この人のために社交術を学び、領地経営を手伝い、夜会の準備に奔走してきた私が――可哀想)
皮肉なものだ。誰一人として、私が実際に何をしてきたかなど見ていない。見ているのは「地味な外見」と「影の薄い存在感」だけ。
「エドワード様」
私は深く息を吸い、できる限り穏やかな声で問いかけた。
「三年間の婚約期間、私に何か落ち度がございましたでしょうか」
「落ち度?」エドワードは鼻で笑った。「君の存在そのものが落ち度だ。私の隣に立つにふさわしいのは、君のような陰気な女ではない」
そう言って彼が手を差し伸べた先に、一人の令嬢が進み出た。
白いドレスに身を包んだ、可憐な少女。蜂蜜色の巻き毛が揺れ、翡翠色の瞳には涙が光っている――ように見せかけている。
(イリス・マーガレット。『白百合の聖女』、ね)
私は冷静にその姿を観察した。完璧に計算された「か弱さ」の演出。涙を浮かべながらも、その目の奥には隠しきれない勝利の色が見える。
「社交界で評判の聖女イリスこそ、私にふさわしい」
エドワードは高らかに宣言した。
「彼女の浄化の力は本物だ。王家すらも一目置く聖女を妻に迎えることで、カーライル侯爵家はさらなる繁栄を――」
(ああ、そういうこと)
私は全てを理解した。これは恋愛ではない。政治だ。エドワードは「聖女」の肩書きを利用して王家に取り入りたいだけ。そして私は、その野望の邪魔になったから切り捨てられた。
「リーゼロッテ様」
イリスが一歩前に出て、わざとらしく頭を下げた。
「お気の毒に存じます。でも、どうかお恨みにならないでくださいませ。これも全て、エドワード様と王国のため――」
「お気遣いなく」
私は静かに遮った。
「イリス様のお力が王国に必要とされているのであれば、私などが出る幕ではございません」
(本当に「力」があるのならば、の話だけれど)
社交界で囁かれる「浄化の聖女」の噂。しかし不思議なことに、彼女が力を発揮したという確かな証拠を、私は一度も見たことがない。
「……ふん、物分かりがいいな」
エドワードが唇を歪めた。
「もっと泣きわめくかと思ったが、やはり君には情というものがないらしい。だからつまらないのだ」
(情がない、ですか)
三年間、あなたの気まぐれな機嫌に振り回されながらも、一度も不満を口にしなかった私に。夜会のたびに「もっと華やかにしろ」と言われ、華やかにすれば「目立とうとするな」と叱責された私に。
――情がない。
ああ、おかしい。本当に、おかしい。
「それでは」
私はスカートの裾を軽く持ち上げ、完璧な礼をした。
「お二人の幸せを、心よりお祈り申し上げます」
(どうか末永く、お似合いの二人でいてくださいませ。嘘つきと、愚か者)
背を向けた瞬間、背後から嘲笑が聞こえた。
「見ろ、あの女。泣きもしない。やはり人の心がないのだ」
「本当に地味な女でしたわね。あれでは殿方が離れるのも当然ですこと」
私は振り返らなかった。
大広間を横切り、扉を抜け、廊下を歩く。使用人たちの憐れむような視線も、すれ違う貴族たちの好奇の目も、全て無視して歩き続けた。
ようやく玄関ホールに辿り着いた時――外は、土砂降りの雨だった。
「お嬢様、馬車を――」
「いいえ、結構です」
侯爵家の従者を押しのけ、私は雨の中へ飛び出した。
冷たい。
雨粒が肌を打ち、髪を濡らし、ドレスを重くする。
でも構わない。この冷たさが、今は心地よかった。
(三年間)
走りながら、私は唇を噛んだ。
(三年間、私は何をしていたんだろう)
好きでもない相手のために尽くし、認められることもなく、最後は大勢の前で「無価値」の烙印を押された。
母様が生きていたら、何と言っただろう。
『いつか本当の居場所を見つけなさい』
胸元に手を当てる。ドレスの下、肌身離さず持ち歩いている母の形見の栞。十年前に亡くなった母が、最期に私にくれたもの。
私が「本の声が聞こえる」と言った時、唯一信じてくれた人。
『それはとても特別な力よ、リーゼ』
雨の中を走り続け、気づけば見知らぬ路地に迷い込んでいた。
薄暗い石畳。苔むした壁。人の気配のない、忘れられたような裏通り。
その奥に――
「……?」
一軒の古書店があった。
看板には『雨燕古書店』と記されている。古めかしい木の扉。窓からは温かな灯りが漏れている。
(こんな場所に、本屋が……?)
不思議だった。この路地は何度も通ったことがあるはずなのに、こんな店があった記憶がない。
でも――
呼ばれている、と感じた。
胸の栞が、かすかに温かくなっている気がした。
濡れた手で扉を押し開ける。
古いインクと紙の香り。かび臭いのではない、懐かしいような、安らぐような匂い。
「いらっしゃいませ」
柔らかな声がした。
カウンターの奥から現れたのは、銀髪の青年だった。
月光を紡いだような髪。雨雲を映したような深い灰色の瞳。長身痩躯、深緑のベストと白いシャツ。年齢は――分からない。二十代半ばにも、百年を生きた存在にも見える。
「ずいぶんとお濡れですね」
彼は静かに微笑み、タオルを差し出してくれた。
「あ、ありがとうございます……すみません、急に入ってしまって」
「いいえ」
青年は首を横に振った。
「この店は、必要な人のところに現れます。あなたが来たということは、あなたに必要だったのでしょう」
意味が分からなかった。でも、詮索する気力もなかった。
タオルで髪を拭きながら、私は店内を見回した。
壁一面の本棚。天井まで届くほどの古書の山。革装丁のもの、布張りのもの、見たこともない言語で書かれたものまで――
その時だった。
『――お帰りなさい』
声が、聞こえた。
「え……?」
『待っていたよ』『ようやく来た』『言霊を読む者』『クラリッサの娘』
本たちが、囁いている。
頁がひとりでにめくれ、文字が淡く光り、無数の声が私に語りかけてくる。
幼い頃、「本の声が聞こえる」と言って変人扱いされたあの感覚。でも今は――今は、はっきりと聞こえる。
「あなた……」
青年が、驚いたように目を見開いていた。その表情が、ゆっくりと――本当にゆっくりと、深い感慨を湛えたものに変わる。
「そうか。あなたが」
彼は一歩、私に近づいた。
「ようこそ、本に愛される人」
銀髪が揺れ、灰色の瞳が真っ直ぐに私を見つめる。
「私はレイン。この店の主です。あなたのことを――」
彼は、静かに、しかし確かな熱を込めて言った。
「ずっと、待っていました」
店内の本たちが一斉にざわめき、温かな光が私を包み込む。
雨音と古い紙の香りの中で――
私は初めて、「ここにいていい」と言われた気がした。
◇ ◇ ◇
「待っていた、とは……どういう意味でしょうか」
私は濡れた髪を拭きながら、この不思議な店主を観察した。
レインと名乗った青年は、穏やかに微笑んだまま答えない。代わりに、奥の暖炉に火を入れ、古めかしいティーカップを二つ用意している。
(怪しいと言えば怪しいけれど……)
不思議と、警戒心が湧かなかった。本たちの声が「大丈夫」と囁いているような気がする。いや、実際に囁いているのだ。
『この方を信じて』『彼は敵ではないよ』『百年も待っていたんだから』
「百年……?」
思わず口に出すと、レインの手が一瞬止まった。
「本たちが教えてくれましたか」
「え、ええ……でも、意味が分からなくて」
「そうでしょうね」
彼は温かな紅茶を私に差し出し、向かいの椅子に腰を下ろした。暖炉の火が彼の銀髪を琥珀色に染めている。
「まず、確認させてください。あなたは――幼い頃から本の声が聞こえていた。違いますか」
心臓が跳ねた。
「……なぜ、それを」
「その力こそが、あなたの血に流れる才能の証だからです」
レインは静かに語り始めた。
「かつて、この世界には『言霊を読む者』と呼ばれる血統がありました。文字に込められた真意を読み解き、意思を持つ書物と対話し、言葉の力を正しく導く――稀有な魔力の持ち主です」
私は息を呑んだ。
「その血統は、百年ほど前にほぼ途絶えました。最後の一人が姿を消して以来、私はずっと……次の継承者を待っていた」
「待っていた、って……あなたは一体」
「本の精霊の末裔です」
何の躊躇いもなく、彼はそう言った。
「人間でも精霊でもない、半端な存在。この店と契約を交わし、雨の日にだけ店を現世に顕現させ、ある書物を守る使命を負っています」
(雨の日にだけ――)
だから今まで、この店を見つけられなかったのか。晴れの日には存在しない店。雨の夜にだけ現れる、境界の場所。
「私の母も……」
声が震えた。
「母も、同じだったのですか。本の声が聞こえると言った私を、唯一信じてくれた人でした」
「クラリッサ様」
レインが懐かしそうに目を細めた。
「ええ、存じています。彼女もかつてこの店を訪れました。とても聡明で、優しい方だった」
胸の奥が熱くなる。母の名前を、こんな風に語る人がいるなんて。
「母は……何も教えてくれませんでした。私にこの力があることも、この店のことも」
「守りたかったのでしょう」
レインは静かに言った。
「『言霊を読む者』の力は、使い方によっては大きな災いを招きます。彼女はあなたが成長するまで、その力を隠しておきたかったのではないでしょうか」
形見の栞を取り出す。母の最期の贈り物。古びた革に、見たことのない紋様が刻まれている。
その栞が、淡く光った。
「これは……」
「古書店への鍵です」レインが頷いた。「あなたがその栞を持っていたから、この店はあなたの前に姿を現した。クラリッサ様は、いつかあなたがここに辿り着くことを信じていたのでしょう」
『いつか本当の居場所を見つけなさい』
母の遺言が、今になって意味を持つ。
私は――ここに来るべくして来たのだ。
「……でも」
私は顔を上げた。
「なぜ今夜なのでしょう。私はこの二十二年間、何度も雨の日を過ごしてきました。なのに、今夜初めてこの店を見つけた」
「それは――」
レインが言い淀んだ。その表情に、一瞬だけ苦いものが過ぎる。
「あなたが、本当に必要としたからです」
答えになっているような、いないような。
(何か、隠している)
直感がそう告げた。でも今は、追及する気力がない。
外では相変わらず雨が降り続いている。暖炉の火が爆ぜ、本たちがかすかに囁き合う。
「今夜は遅い。お帰りになるなら馬車を手配しますが……」
「いえ」
私は首を横に振った。
「もう少し、ここにいても構いませんか」
帰る場所を思い浮かべる。侯爵家のパーティー会場? 論外だ。実家の伯爵邸? 父は――きっと私より家の体面を心配するだろう。
「もちろんです」
レインが穏やかに頷いた。
「この店は、本に愛される人を拒みません。二階に客室があります。今夜はゆっくりお休みください」
立ち上がろうとした彼を、私は呼び止めた。
「レイン様」
「レイン、で構いません」
「では……レイン」
名前を呼ぶと、彼はわずかに目を見開いた。それから、どこか照れたように視線を逸らす。
「私は――」
言葉を探す。今夜起きたこと、知らされたこと、全てが頭の中で渦を巻いている。
「私は、ここで何をすればいいのでしょう」
「何も」
彼は静かに答えた。
「何もしなくていい。まずは休んでください。全ては、あなたが望んでからだ」
私が、望んでから。
――誰かにそんなことを言われたのは、初めてだった。
「それから」
レインが付け加えた。
「明日の朝、もしよければ……店の本を読んでみてください。あなたにしか読めない本が、この店にはたくさんある」
「私にしか……」
「ええ。あなたが来るのを、本たちも待っていましたから」
その言葉が、胸に沁みた。
パーティー会場で投げつけられた言葉を思い出す。
『お前のような地味で暗い女は、伯爵家の恥だ』
『君の存在そのものが落ち度だ』
『お前なんか誰にも必要とされない』
――本当に、そうだろうか。
ここには、私を待っていたという店主がいる。私にしか読めない本がある。私を歓迎する声がある。
『お帰りなさい』『ずっと待っていた』『あなたは特別なのよ』
本たちの囁きが、温かく私を包む。
「……ありがとうございます」
私は小さく頭を下げた。
「明日、また来てもいいですか」
「いつでも」
レインが微笑む。その笑顔は、エドワードの嘲笑とは全く違う――穏やかで、優しくて、どこか寂しげな笑顔だった。
「雨の日であれば、この店はいつでもあなたを迎えます」
窓の外で、雷が遠くで鳴った。
その夜、私は古書店の二階で眠りについた。古い紙とインクの香りに包まれて、本たちの子守唄のような囁きを聞きながら。
――長い、長い夜が明けようとしていた。
◇ ◇ ◇
同じ頃、侯爵邸では。
「あの女、どこへ消えた」
エドワードは苛立たしげに窓の外を睨んでいた。
「雨の中を逃げ出したきり、戻ってこないそうです」イリスが可憐に首を傾げる。「まあ、惨めに泣き暮らしているのでしょう。放っておけばよろしいのでは?」
「ふん、そうだな」
エドワードは鼻で笑った。
「あんな女、誰も気に留めない。消えてくれて清々する」
イリスは天使のように微笑んだ。しかし、エドワードが背を向けた瞬間――その翡翠色の瞳が、冷たく細められた。
(リーゼロッテ・フォン・ヴェルナー)
イリスは胸元に手を当てた。そこには、黒い痣のような紋様が脈打っている。
(あの女の血が、早く必要なのに)
窓の外で、雨が激しさを増していた。
(雨は嫌い。この忌々しい雨は、私の力を弱らせる――)
その秘密を、まだ誰も知らない。
◇ ◇ ◇
目を覚ますと、雨はまだ降っていた。
窓から差し込む灰色の光。古い天蓋付きのベッド。見知らぬ部屋――一瞬だけ混乱し、すぐに昨夜のことを思い出す。
(そうだ、私は――)
婚約破棄され、逃げ出し、不思議な古書店に辿り着いたのだ。
起き上がると、枕元に着替えが畳んで置いてあった。深い青色のシンプルなワンピース。昨夜の濡れたドレスの代わりだろう。
(レインが用意してくれたのかしら)
着替えを終えて階下に降りると、店内はすでに活気づいていた――本たちの囁きで。
『起きた起きた』『おはよう、リーゼロッテ』『今日は何を読んでくれる?』
声が、昨夜よりはっきり聞こえる。まるで眠っていた感覚が目覚めたように。
「おはようございます」
思わず本たちに挨拶を返してしまってから、自分の行動に驚いた。
(本に挨拶するなんて、やっぱり私はおかしいのかしら)
「いいえ、正しい礼儀作法ですよ」
背後から声がして振り返ると、レインがトレイを手に立っていた。温かいスープとパンの香りが漂う。
「彼らは意思を持つ存在です。挨拶を返されて喜んでいます」
確かに、本たちの囁きが嬉しそうな色を帯びている気がした。
「朝食をどうぞ。それから――」
レインがテーブルに食事を並べながら言った。
「もしよければ、店を見て回ってください。あなたに読んでほしがっている本が、たくさんありますから」
「私に……?」
「言霊を読む者は、ただの読者ではありません」
レインは本棚を見上げた。朝の薄明かりの中、銀髪が淡く輝いている。
「あなたが読むことで、本は癒され、力を取り戻す。長い間誰にも読まれなかった本は、少しずつ眠りについてしまうのです」
私は朝食を口に運びながら、店内を見回した。
壁一面の本棚。天井まで届く書架。その全てが、かすかに振動しているように見えた。期待に震えているように。
(私を、待っている……)
その感覚が、胸の奥を温めた。
朝食を終え、私は書架の間を歩き始めた。
指先で背表紙をなぞると、本たちが次々に語りかけてくる。
『私は三百年前の旅行記よ。忘れられた王国のことを知りたくない?』
『僕は恋愛詩集。少し恥ずかしいけど、読んでくれたら嬉しいな』
『私は錬金術の入門書だ。最近の若者は魔法ばかりで基礎をおろそかにする――』
(なんて、賑やかなの)
今まで「本の声が聞こえる」と言っても、誰も信じてくれなかった。変人扱いされ、笑われ、無視された。
でもここでは――ここでは、それが「当たり前」なのだ。
「気難しい哲学書には気をつけてください」
レインがカウンターから声をかけた。
「議論を吹っかけてきますから」
『失礼な。私は知識の探求者であって――』
「ほら」
レインが苦笑する。私も思わず笑ってしまった。
どれくらいそうして書架を巡っただろう。ある一角で、私は足を止めた。
他とは違う、重い気配。
奥まった場所に、黒い布で覆われた本棚がある。近づくだけで、空気が変わる。
『……近づくな』
低い声が聞こえた。他の本たちとは違う、不穏な響き。
「それには触れないでください」
いつの間にか、レインが隣に立っていた。その表情が、初めて見る厳しさを帯びている。
「あれは……?」
「禁断の書。『虚言の福音書』」
その名を口にした途端、黒い布がかすかに揺れた。
「あらゆる偽りの言葉を真実に変える禁呪が記された魔導書です。正しく扱えば偽証を暴く力となりますが、悪用すれば――」
「嘘を現実に変えてしまう」
私は直感的に理解した。本の囁きが、そう告げている。
「ええ。だからこの店は、あの書を守るために存在する。そして――」
レインが言葉を切った。
「……そして?」
「いえ、今は何も」
彼は首を横に振り、穏やかな笑顔に戻った。
(また、何か隠している)
昨夜も感じた違和感。レインは親切だけれど、全てを話してはいない。
――でも、今は追及しないことにした。
この店で、私は初めて「居場所」を感じている。それを壊したくなかった。
「それより」
レインが話題を変えた。
「せっかくですから、あなたの力を試してみませんか」
「力を?」
「言霊を読む者の能力は、訓練で磨かれます。本と対話するだけでなく、文字に込められた真意を読み解き、偽りを見抜く――そんなことも、あなたにはできるはずです」
彼は一冊の古書を取り出した。
「この本には、著者の二つの想いが込められています。表の意味と、裏の意味。どちらも読み取れますか」
私は本を受け取り、開いた。
文字が目に飛び込んでくる。ただの文章――のはずなのに。
(……見える)
文字の奥に、別の言葉が透けている。インクの下に隠された、著者の本音が。
「この人は……」
私は驚きながら言った。
「表では賞賛しているけれど、本当は批判しています。権力者への皮肉を、褒め言葉の中に隠している」
「正解です」
レインが目を見開いた。それは予想以上だ、とでも言いたげな表情。
「初めてでこれほど明確に読み取るとは……。あなたの力は、思っていた以上に強い」
本たちがざわめいた。
『すごいすごい』『さすが継承者』『クラリッサよりも強いかも』
「母より……?」
「お母上も素晴らしい読み手でしたが、ここまで即座に裏の意味を読み取ることはできなかった」
レインの声に、かすかな感嘆が混じる。
「あなたは――本当に、特別な存在です」
特別。
その言葉が、胸に響いた。
二十二年間、私は「地味」「暗い」「影が薄い」と言われ続けてきた。
『無能な女』『つまらない女』『誰にも必要とされない』
でも――
(私には、この力がある)
誰も知らなかった。エドワードも、イリスも、社交界の誰一人として。
私を「無価値」と断じた人々は、何も見えていなかったのだ。
「レイン」
私は顔を上げた。
「私に、もっと教えてくれますか。この力の使い方を」
「もちろんです」
彼は静かに微笑んだ。
「それこそが、私の――」
言いかけて、彼は口を閉ざした。
「あなたが望むなら、喜んでお教えします」
何を言おうとしたのだろう。でも、今は聞かないことにした。
窓の外では、相変わらず雨が降り続いている。
雨の日だけ開く古書店。本の声が聞こえる私。百年を待ち続けた精霊の末裔。
まるでおとぎ話のような状況――でも、これは現実だ。
「明日も来ます」
私は言った。
「雨が降っていれば、必ず」
「お待ちしています」
その日から、私の新しい日常が始まった。
雨の日には古書店へ通い、レインから本の扱いと自分の力について学ぶ。晴れの日には実家で過ごし、婚約破棄の後始末に追われる。
父は――思っていたより、動揺していた。
「すまなかった、リーゼ」
珍しく、父が私の部屋を訪ねてきたのは、あの夜から三日後のことだった。
「お前の気持ちも確かめず、侯爵家との縁組を進めてしまった。父として、失格だった」
「……いいえ、お父様」
私は首を横に振った。確かに寂しかった。母が亡くなってから、父は私を避けるようになった。でも――
「お父様なりに、家を守ろうとしてくださっていたのでしょう。私は大丈夫です」
「大丈夫?」
父が驚いたように私を見た。
「ああ、そうか……。お前は、昔から強い子だったな」
弱い子だと思っていたのだろう。従順で、控えめで、自己主張のない娘だと。
――でも、それは違う。
私はただ、自分を殺して生きていただけだ。そうしなければ、生きられなかったから。
(でも、もう)
古書店で学んでいることを思い出す。本たちとの対話。偽りを見抜く力。自分の中に眠っていた、特別な才能。
(もう、誰かに合わせて生きる必要はない)
婚約破棄は、確かに屈辱だった。
でも同時に――解放でもあったのだ。
あのパーティーの夜、エドワードは言った。
『お前のような地味で暗い女は、伯爵家の恥だ』
私は心の中で答える。
(そうね、あなたの隣に立つには、確かに私は地味だったわ)
(でも、あなたには私の価値が見えなかっただけ)
(それを見抜けなかったあなたこそ――愚かなのよ、エドワード)
雨の音が、窓を打つ。
私は形見の栞を握りしめた。
明日も雨なら、古書店へ行ける。
レインが待っている。本たちが待っている。
私を「特別」だと言ってくれる場所が、ある。
――それだけで、今は十分だった。
◇ ◇ ◇
「聖女イリスの浄化の儀、大成功ですってよ」
晴れた日の昼下がり、実家の応接間でお茶を飲んでいると、侍女のマリアが社交界の噂を持ってきた。
「昨日の夜会で、病に伏せっていたレイモンド子爵を癒されたとか。王太子殿下もいたく感心されて――」
私は黙ってカップを傾けた。
(浄化の儀、ね)
イリス・マーガレットが「聖女」として名を上げ始めたのは、約一年前のこと。それまで無名だった男爵令嬢が、突然「浄化の力」を発現し、病人を癒し、穢れを払い、社交界の寵児になった。
――その時期と、私が「本の声」を聞きにくくなった時期が重なっていることに、私は気づいていた。
「お嬢様」
マリアが心配そうに私を見る。
「お辛くはないですか? エドワード様のことは――」
「ええ、大丈夫よ」
私は微笑んだ。本心からの笑顔だった。
「むしろ清々しているくらい。あの方とは、どうせうまくいかなかったもの」
「まあ、お嬢様……」
マリアが驚いた顔をする。以前の私なら、こんなことは言わなかっただろう。
(でも、もう隠す必要はないわ)
古書店での日々が、私を変えつつあった。自分の力に気づき、それを磨く中で、長年の抑圧が少しずつ溶けていく。
「それより、マリア」
「はい」
「イリス様の『浄化の儀』は、いつも晴れた日に行われているの?」
「え?」
マリアは首を傾げた。
「そう言われれば……確かに、雨の日に行われたという話は聞きませんね。たまたまではないですか?」
「そう、たまたま……」
(たまたま、かしら)
私は窓の外を見た。今日は見事な快晴。古書店は開いていない。
(雨の日に外出しないイリス。雨の日にだけ弱まる力……)
レインが言っていた。禁断の書『虚言の福音書』は、偽りを真実に変える力を持つ、と。
もしイリスの力がその書から盗んだものだとしたら――
(雨は、嘘を洗い流すもの)
偽りの力は、雨によって弱められる。だから彼女は雨の日を避ける。そう考えれば、辻褄が合う。
「お嬢様?」
「何でもないわ。少し、考え事をしていただけ」
私はカップを置いた。
「明日は雨の予報よね。少し出かけてくるわ」
◇ ◇ ◇
翌日、予報通りの雨。
私は見慣れた路地を歩き、雨燕古書店の扉を開けた。
「いらっしゃいませ。今日は――」
レインが顔を上げ、私の表情を見て言葉を止めた。
「何かありましたか」
「レイン」
私はカウンターに歩み寄った。
「禁断の書について、詳しく教えてください。特に――」
「特に?」
「その書から、力を盗むことは可能ですか」
レインの表情が、一瞬凍りついた。
「……どうして、それを」
「イリス・マーガレットという女性をご存じですか」
沈黙。
長い沈黙の後、レインはゆっくりと息を吐いた。
「やはり、あなたは聡明だ」
彼は奥の書架に向かって歩き始めた。私もその後を追う。
黒い布に覆われた本棚の前で、レインは足を止めた。
「一年ほど前のことです。ある雨の夜、この店に一人の令嬢が現れました」
「イリス……?」
「ええ。彼女は――どこからか、この店の存在を知ったようでした。そして、あの書に触れようとした」
本たちがざわめく。不穏な気配が店内に満ちる。
「私は阻止しましたが、彼女は書の一部――ほんの断片だけを盗み出すことに成功した。それが、彼女の『浄化の力』の正体です」
「偽りを真実に変える力……」
「正確には、その劣化版です。彼女は完全な力を手に入れたわけではない。だから効果は限定的で、しかも――」
「雨で弱まる」
「そう。嘘は雨に洗われて薄れる。だから彼女は雨の日を恐れている」
すべてが繋がった。
私の「本の声」が弱まったのは、禁断の書の一部が持ち去られたせいだ。言霊を読む者の力と、あの書は連動している。
「でも、なぜ彼女がこの店を――」
言いかけて、私は気づいた。
レインの表情。苦悶と――罪悪感。
「彼女は、こう言いました」
レインが低い声で続けた。
「『言霊を読む者の血があれば、この力を完全なものにできる』と」
血。
私の血。
「だから、あなたが危険だと知りながら――」
レインが苦しげに目を閉じた。
「私はあなたを待っていた。あなたの力がなければ、あの書を正しく封印することはできない。でもそれは同時に、あなたを危険に晒すことでもあった」
「……つまり」
私は冷静に状況を整理した。
「イリスは私の血を狙っている。そして、あなたは最初から――私を、利用するつもりだった」
「違う」
レインが顔を上げた。灰色の瞳が、今まで見たことのない激しさで揺れている。
「最初は――確かに、そうでした。百年待ち続けた継承者。あなたの力がなければ、私は使命を果たせない。だから――」
言葉を切り、彼は深く息を吸った。
「でも、あなたと過ごすうちに、私は……」
「レイン」
私は彼の言葉を遮った。
「私を利用しようとした。それは事実ですね」
「……はい」
「でも、今は全てを打ち明けてくれた」
「……はい」
私は、少しだけ考えた。
怒るべきだろうか。裏切られた気持ちになるべきだろうか。
――でも、不思議と、そんな感情は湧いてこなかった。
エドワードに三年間利用されたことを思い出す。あの時、私は何も知らされず、何の価値もないものとして捨てられた。
でもレインは――
「あなたは、私に選択肢を与えてくれた」
私は静かに言った。
「最初から利用するつもりなら、今も黙っていればよかった。でも、あなたは話してくれた。私自身に、決めさせようとしてくれている」
「……リーゼ」
「だから、私が決めます」
私は真っ直ぐにレインを見つめた。
「イリスの力は偽物。そして彼女は、私の血を狙っている。それなら――」
本たちが一斉にざわめいた。期待と不安が入り混じった囁き。
「私は逃げません」
私は宣言した。
「私の力で禁断の書を封印し、イリスの嘘を暴く。それが私にしかできないことなら――私がやります」
レインが息を呑んだ。
「でも、危険です。彼女が本気であなたを狙えば――」
「知っています」
私は微笑んだ。
「でも、もう決めたの。私はもう、誰かに価値を決められる人生は送らない」
その言葉は、自分でも驚くほど自然に口から出た。
「無価値だと言われて、黙って捨てられる――そんな私は、もういない」
本たちが歓声を上げた。
『リーゼ!』『やっぱりあなたは特別だ』『クラリッサの娘らしい』
レインが、ゆっくりと頭を下げた。
「ありがとうございます。そして――申し訳ありませんでした」
「頭を上げて、レイン」
私は彼の手を取った。冷たい指先が、かすかに震えている。
「これからは、対等な協力者として。私を導いてくれますか」
彼が顔を上げた。灰色の瞳に、温かな光が宿っている。
「喜んで」
彼の手が、私の手を握り返した。
窓の外では、雨が静かに降り続いている。
嵐の前の、静けさのように。
◇ ◇ ◇
その日は、特別に強い雨だった。
古書店の窓を叩く雨音が、まるで何かを警告するように激しい。
「今日は早めに帰ったほうがいい」
レインが珍しく厳しい表情で言った。
「空気が……おかしい」
本たちもざわめいている。普段の陽気な囁きではなく、不穏な緊張を孕んだ声。
『何か来る』『嫌な予感がする』『リーゼ、気をつけて』
「何か――」
私が問いかけようとした、その時だった。
店の扉が、乱暴に蹴り開けられた。
「見つけた」
雨に濡れた金髪。傲慢に歪んだ碧眼。
エドワード・カーライルが、そこに立っていた。
「やはりここにいたか、リーゼロッテ」
「エドワード様……」
私は驚きを隠せなかった。この店は、雨の日にしか現れない。そして、必要な人の前にしか――
「どうやって、この店を」
「私が教えたのよ」
エドワードの背後から、もう一つの姿が現れた。
白いドレスが雨に濡れ、蜂蜜色の髪が肌に張りついている。いつもの可憐な装いが台無しになった姿――イリス・マーガレットが、憎悪に満ちた目で私を睨んでいた。
「一年前、私はこの店から力を盗んだ。でも、完全な力を得るには――」
「言霊を読む者の血が必要」
私は冷静に言った。レインが私の前に立ち、庇うような姿勢を取る。
「知っていたのね、やはり」
イリスの目が細まった。
「なら話が早いわ。大人しく血を差し出しなさい。そうすれば、痛い思いはさせないであげる」
「断ります」
「――何ですって?」
「断ると言いました。私の血は、あなたの偽りの力を完成させるためのものではありません」
イリスの顔が、怒りで歪んだ。可憐な聖女の仮面が、一瞬で剥がれ落ちる。
「この……地味な女が、私に逆らうの!?」
「地味で結構。でも、嘘つきよりはましだわ」
私の言葉に、エドワードが前に出た。
「口を慎め、リーゼロッテ。お前のような無能な女が、イリスを侮辱することは許さない」
「無能、ですか」
私は静かに笑った。
「エドワード様。あなたは三年間、私を見ていて――本当に、何も分からなかったのですね」
「何だと?」
「私があなたの領地経営をどれだけ助けていたか。夜会の準備を誰がしていたか。あなたの失言を何度フォローしたか――」
「黙れ!」
エドワードが怒鳴った。図星を突かれた人間特有の、過剰な反応。
「お前のような女が、私に意見するな! お前なんか、誰にも必要とされない――」
その瞬間だった。
店中の本が、一斉に光を放った。
『黙れ、愚か者』
『リーゼを侮辱するな』
『彼女は私たちに愛されている』
『言霊を読む者を、誰にも必要とされないだと?』
無数の声が重なり、うねり、エドワードを圧倒する。
「な、何だ、これは――」
「本たちよ」
レインが静かに言った。
「意思を持つ古書たち。彼女を侮辱する者を、彼らは許さない」
本棚から本が次々に飛び出し、エドワードとイリスを取り囲む。頁が風もないのにめくれ、文字が浮かび上がり――
「いやっ……!」
イリスが悲鳴を上げた。
彼女の周囲に、別の文字が浮かんでいる。赤く、不吉に光る文字。
「これは――」
レインの声が緊張を帯びる。
「あの書から盗んだ力の痕跡だ。本たちが、それを暴こうとしている」
『見ろ見ろ』『偽りの聖女の正体を』『嘘で塗り固めた力を』
本たちの声と共に、浮かび上がった文字が一つの文章を形作った。
【この者の力は偽りなり。禁断の書より盗みし断片、雨に洗われて消えゆく泡沫】
「嘘よ……!」
イリスが叫んだ。
「私の力は本物よ! 私は聖女なの!」
しかし、言葉を発するたびに、彼女の周囲の文字が赤く脈打つ。
【偽り】【偽り】【偽り】
「本たちは嘘を見抜く」
私は静かに言った。
「あなたの言葉が偽りであればあるほど、それは暴かれる。ここは――嘘が通用しない場所よ、イリス」
「う、嘘よ、こんなの――」
イリスが後ずさる。雨に濡れた彼女の肌に、黒い紋様が浮かび上がっていた。禁断の書から盗んだ力の代償。
「何だ、それは……」
エドワードがイリスを見て、顔を青ざめさせた。
「イリス、お前の腕に――」
「見ないで!」
イリスが腕を隠す。だが遅い。本たちの光が、全てを照らし出していた。
「彼女の『浄化の力』は、この店の禁断の書から盗んだものです」
レインが淡々と告げた。
「その代償として、彼女の体には穢れが蓄積されている。いずれ――いや、すでに体を蝕み始めている」
「そんな……」
エドワードがイリスから一歩離れた。その動きを見て、イリスの顔が絶望に歪む。
「エドワード様……」
「来るな!」
エドワードが叫んだ。
「お前、私を騙していたのか!? 聖女だと、本物の力だと――」
「騙してなんかいないわ! 私は、私は本当に――」
「うるさい!」
エドワードがイリスを突き飛ばした。彼女は床に倒れ、濡れた髪を振り乱して泣き叫ぶ。
「なぜ……なぜよ……」
イリスが私を睨んだ。
「なぜ、こんな地味な女が特別なのよ! 私のほうが美しい、私のほうが努力した、私のほうが――」
「努力?」
私は静かに問い返した。
「他人から盗んだ力に頼ることを、あなたは努力と呼ぶの?」
「黙れ! お前に私の何が分かる!」
イリスが立ち上がろうとして、膝から崩れ落ちた。黒い紋様が広がり、体が言うことを聞かなくなっている。
「私は……私は、あの貧しい家から抜け出したかっただけ。誰かに認められたかっただけ。何がいけないの……」
「方法が間違っていた」
私は彼女の前にしゃがんだ。
「あなたの境遇は、確かに気の毒だったかもしれない。でも、だからといって他人を陥れ、嘘で身を固める権利は、誰にもないわ」
「……」
イリスの目から、涙がこぼれた。今度は演技ではない、本物の涙。
「どうすれば……どうすれば良かったの……」
「それは、あなた自身が考えることよ」
私は立ち上がった。
「でも、今からでも遅くない。本当の自分で生き直すことは、できるはずよ」
本たちの光が、少しだけ和らいだ。
『許すわけではないけれど』『愚かな子』『でも、まだ若い』
「レイン」
私は振り返った。
「禁断の書を封印すれば、彼女の体の穢れも消えますか」
「……消えます。ただし、盗んだ力も完全に失われる」
「いいわ。やりましょう」
私は黒い布に覆われた本棚に歩み寄った。
「待て!」
エドワードが叫んだ。
「お前が何をしようと、私は認めない! 侯爵家の名にかけて――」
「黙りなさい、エドワード」
私は振り返らずに言った。
「あなたはもう、私の婚約者ではないわ。私に命令する権利は、どこにもない」
「……っ」
「それに」
私は冷たく続けた。
「偽りの聖女に騙され、その片棒を担いだあなたの立場は、これからどうなるのかしら。王家が知れば――ただでは済まないでしょうね」
エドワードの顔が、蒼白に変わった。
「そ、それは――」
「ご安心なさい。私から告発するつもりはないわ。でも、イリスの力の正体が知れ渡るのは、時間の問題よ」
レインが静かに頷いた。
「本たちは、真実を記憶し、伝える存在です。いずれ、この出来事は然るべき者の耳に届くでしょう」
エドワードは何も言えなくなった。
傲慢な侯爵家嫡男は、今や震える足で立ち尽くす惨めな男に成り下がっていた。
私は彼を一瞥もせず、禁断の書へと向かった。
封印を――始めよう。
◇ ◇ ◇
黒い布を払うと、『虚言の福音書』がそこにあった。
黒い革装丁に銀の錠前。表紙には、見る者によって異なるという文様が浮かんでいる。私の目には――母の形見の栞と同じ紋様が見えた。
『お前に資格があるのか』
禁断の書が、低く問いかけてきた。他の本たちとは異質な、威圧的な声。
「資格、ですか」
『言霊を読む者。だが、お前はまだ若い。我を封じるには、力が足りぬのではないか』
「足りないかもしれません」
私は正直に答えた。
「でも、やらなければならない」
『なぜだ』
「あなたの力は危険だから。このまま放置すれば、イリスのように盗もうとする者が現れ続ける」
『それが人間の愚かさだ。我の責ではない』
「そうね。でも――」
私は書に手を伸ばした。
「あなた自身も、正しく扱われることを望んでいるのではありませんか」
沈黙。
『……何を根拠に、そう言う』
「聞こえるの。あなたの奥底にある声が」
私は静かに続けた。
「作られた時の想い。偽りを暴き、真実を守るために生み出された――本来の目的。それが歪められ、悪用されることへの、怒りと悲しみ」
書が震えた。
『……お前は』
「言霊を読む者は、文字の奥にある真意を読み取る。あなたが本当に伝えたいことも――私には、分かります」
レインが息を呑んだ気配がした。
本たちが、静まり返っている。
『……そうか』
禁断の書の声が、少しだけ和らいだ。
『百年ぶりだ。我の真意を読み取れる者が現れたのは』
「では、協力してくれますか」
『条件がある』
「何でしょう」
『完全に封じるのではなく、正しく使える者のみがアクセスできるよう――新たな契約を結べ』
レインが前に出た。
「そのような契約は可能なのですか。禁断の書を完全に封印するのが、本来の方法では――」
『お前の先代はそう決めた。だが、この娘は違う提案をしている』
書の表面に、銀の文字が浮かび上がった。
『言霊を読む者のみが開くことを許す。悪意ある者が触れれば、その嘘が全て暴かれる。これが我の望む新たな契約だ』
私は考えた。
完全な封印ではなく、条件付きのアクセス。危険性は残るが――
「それは……」
『本来、我は真実を守るために生まれた。完全に封じられるよりも、正しく使われることを望む』
その言葉が、心に響いた。
正しく使われることを望む。誰かの役に立ちたいという、書の本心。
「わかりました」
私は頷いた。
「その契約を、受け入れます」
「リーゼ――」
レインが心配そうに私を見る。
「大丈夫。この書は、嘘をついていない」
私は書に手を置いた。
栞が、胸元で強く光る。母の形見が、私を導くように脈動している。
「契約の言葉を」
レインが厳かに告げた。
「あなたの血と、あなたの言葉で」
私は左手の指先を、書の銀の錠前に押し当てた。鋭い痛みと共に、一滴の血が落ちる。
「私、リーゼロッテ・フォン・ヴェルナーは、言霊を読む者の名において――」
声が、自然と紡がれていく。まるで、最初から知っていた言葉のように。
「この書と契約を結ぶ。真実を求める者にのみ道を開き、偽りを抱く者には扉を閉ざす。言葉の力が正しく使われる限り、私と私の血を継ぐ者が、この書の守り手となることを誓う」
書が光に包まれた。
眩い白と、深い黒。相反する光が渦を巻き、店内を満たす。
本たちが歌うように囁き始める。祝福の声。歓喜の声。
『契約成立』『新たな時代の始まり』『リーゼロッテが守り手となった』
光が収まった時――
禁断の書は、静かに鎮座していた。銀の錠前に、新たな紋様が刻まれている。私の血で結ばれた、契約の証。
「終わった……のですか」
「ええ」
レインが安堵の息を吐いた。
「見事でした、リーゼ」
後ろで、うめき声が聞こえた。
振り返ると、イリスの体から黒い靄が消えていくところだった。禁断の書から盗んだ力が、契約と共に無効化されたのだ。
「私の……力が……」
イリスが呆然と自分の手を見つめている。黒い紋様も、完全に消えていた。
「終わったわ、イリス」
私は静かに言った。
「あなたの偽りの力は、もうない。でも――穢れも消えた。これからは、自分の足で歩きなさい」
「……どう、して」
「どうして助けたか?」
私は少しだけ笑った。
「さあ、どうしてかしらね。でも――あなたが本当に惨めなのは、嘘をつき続けなければならなかったことでしょう」
イリスの目から、また涙がこぼれた。
「私……私は……」
「もう行きなさい。エドワード様も」
私はエドワードに目を向けた。
彼は、信じられないものを見る目で私を見つめていた。
「お前が……そんな力を……」
「知らなかったでしょう」
私は淡々と答えた。
「でも、あなたは最初から知ろうとしなかった。私のことを」
「……」
「お帰りください。もう、ここにいる理由はないでしょう」
エドワードは何か言いたそうに口を開き――そして、何も言えずに背を向けた。
イリスを引きずるようにして、二人は店を出ていく。
扉が閉まった瞬間、私は大きく息を吐いた。
緊張が解けて、膝から力が抜けそうになる。
「リーゼ」
レインが私を支えた。
「よくやりました。本当に……よくやった」
「ありがとう」
彼の腕の中で、私は初めて涙を流した。
悔しさでも、悲しさでもない。
――安堵と、解放の涙だった。
「終わったのね」
「ええ」
レインが優しく私の髪を撫でた。
「あなたは、本当に強い人だ」
本たちが、幸せそうに囁いている。
『リーゼ』『私たちの守り手』『おめでとう』『お疲れ様』
窓の外で、雨が小降りになっていく。
嵐は、過ぎ去ろうとしていた。
◇ ◇ ◇
数週間後――
「エドワード・カーライル侯爵嫡男、聖女詐欺への関与により爵位継承権剥奪」
その知らせは、社交界を震撼させた。
イリス・マーガレットの「浄化の力」が偽物だったという事実は、彼女を寵愛していた貴族たちの怒りを買った。王太子もまた、騙されていたことに激怒し――結果、イリスは王国から追放、エドワードは共犯者として地位を失うことになった。
「因果応報、というやつですね」
レインが淡々と言った。
私たちは古書店のカウンターで、届いた新聞を読んでいる。今日は珍しく晴れていて、店は「閉店中」――のはずだが、私だけは特別に入れるようになっていた。契約の守り手として。
「イリスは、どうなるのかしら」
「追放された後は……分かりません。でも、若いですから。やり直せるでしょう」
「そうね」
私は窓の外を見た。青空が広がっている。
「エドワード様は――後悔しているのかしら」
「それは……どうでしょうね」
レインが苦笑する。
「『あの地味な女を手放すなんて』と嘆いているという噂は聞きますが」
「あら、そう」
私は肩をすくめた。
正直、もうどうでもよかった。エドワードが後悔しようがしまいが、私の人生には関係ない。
「リーゼ」
レインが改まった声で呼んだ。
「何?」
「話があります」
彼が椅子から立ち上がり、私の前に膝をついた。
「……え?」
「この数週間、あなたと過ごして――いえ、あなたと出会ってから、私は確信しました」
レインが真剣な目で私を見上げる。灰色の瞳が、今日は銀色に輝いて見えた。
「百年間、私はこの店を守りながら、いつかの継承者を待っていた。使命だと思っていた。でも――」
彼が私の手を取った。
「あなたに会って、それは使命ではなかったと分かりました。私は――あなたを待っていた。言霊を読む者としてではなく、あなた自身を」
心臓が、大きく跳ねた。
「レイン……」
「君は本に愛されている」
彼が静かに、しかし確かな想いを込めて言った。
「そして――私にも」
本たちが一斉にざわめいた。
『告白だ告白だ!』『きゃー!』『百年越しの恋が実る!』
「ちょ、ちょっと静かにしてくれる!?」
レインが本棚に向かって叫ぶ。珍しく取り乱した様子に、私は思わず笑ってしまった。
「……笑わないでください」
「ごめんなさい。でも――」
私は彼の手を握り返した。
「嬉しかったの。本当に」
「では……」
「ええ」
私は微笑んだ。
「私も――あなたを、ただの店主だとは思っていないわ」
告白という形の言葉にはならなかった。でも、それで十分だった。
私たちの間には、言葉にしなくても通じ合えるものがある。本の声を聞く者と、本の精霊の末裔。
――運命だと、言ってもいいのかもしれない。
「それで」
レインが咳払いをした。
「一つ、提案があります」
「何かしら」
「この店の――共同経営者になってくれませんか」
「え?」
「言霊を読む者がいれば、店の本たちはより安定します。それに――」
彼が少し照れたように目を逸らした。
「あなたが毎日ここにいてくれたら、私は……嬉しい」
「……」
私は少し考えた。
実家には父がいる。伯爵家の令嬢として、やるべきこともある。
でも――
「晴れの日は実家で過ごして、雨の日はここに来る。それでも、いい?」
「もちろんです」
レインが花開くように笑った。その笑顔を見て、私も自然と笑顔になる。
「じゃあ、決まりね」
私は立ち上がり、店内を見回した。
壁一面の本棚。意思を持つ古書たち。そして、百年を待ち続けた精霊の末裔。
――ここが、私の居場所だ。
『やったー!』『リーゼが仲間になった!』『これからもよろしくね!』
本たちが歓声を上げる。
その声に包まれながら、私は心から幸せだと感じた。
「そうだ、レイン」
「はい」
「一つ、聞いてもいい?」
「何でしょう」
「……今後、私のことは何と呼ぶつもり?」
レインが目を瞬いた。
「……共同経営者、では駄目ですか」
「味気ないわね」
「では……パートナー?」
「まあまあね」
「……妻、とか」
私は思わず固まった。
レインの耳が、赤くなっている。
「……あの、今のは少し先走りました。忘れてください」
「忘れないわ」
「え」
「忘れないから――いつか、正式に言い直して」
今度は、レインが固まる番だった。
本たちが騒ぎ立てる。
『プロポーズフラグ!』『百年越しのロマンス!』『早く続きを!』
「うるさいわね、本当に」
私は笑いながら、窓の外を見た。
晴れた空に、雨雲が近づいてきている。
――また、雨が降る。
そうしたら、この店は世界に姿を現す。私を待っている本たちと、私を愛してくれる人がいる場所へ。
「本に愛される人、か」
私は呟いた。
「悪くないわね、その称号も」
レインが私の隣に立った。
「これからも、よろしくお願いします」
「こちらこそ」
私たちは、窓の外の空を見上げた。
雨の匂いが、風に乗って届いてくる。
――これが、私の新しい物語の始まり。
婚約破棄された夜、雨の中で見つけた古書店で、私は本当の居場所を見つけた。
本に愛され、精霊に愛され、そして――自分自身を、愛せるようになった。
母の遺言が、ようやく叶った気がした。
『いつか本当の居場所を見つけなさい』
見つけたよ、母様。
雨の日にだけ開く古書店で、私を待っていてくれた人と一緒に――これからの物語を、紡いでいくわ。
◇ ◇ ◇
【エピローグ ――晴れの日には見えない場所で】
一年後――
「ねえ、知ってる? ヴェルナー伯爵家のご令嬢」
「ああ、婚約破棄された方でしょう。お気の毒に」
「いいえ、違うのよ。今はすっかりお幸せなんですって」
「まあ、本当?」
「雨の日にだけ現れる古書店で、素敵な殿方と一緒に働いているとか」
「古書店? 貴族のご令嬢が?」
「でも、とても幸せそうなんですって。見た人がいるのよ、銀髪の美しい青年と一緒に、楽しそうに本の整理をしている姿を」
「不思議な話ね……」
社交界では、そんな噂が囁かれていた。
元婚約者のエドワードは、その噂を聞くたびに歯噛みしたという。
「あの地味な女が、幸せだと……」
没落した屋敷で、彼は一人呟いた。
爵位継承権を失い、社交界から追放され、かつての取り巻きたちも離れていった。今の彼を訪ねてくる者は、誰もいない。
「私は間違っていない。あの女が特別だなんて、認めない――」
空虚な独白は、誰にも届かない。
認めても認めなくても、もう関係のないことだった。
リーゼロッテの人生は、とうに彼の手の届かない場所で花開いていたのだから。
◇ ◇ ◇
雨の降る日――
見知らぬ路地の奥に、一軒の古書店が現れる。
『雨燕古書店』
古めかしい看板。温かな灯り。開け放たれた扉から、古い紙とインクの香りが漂う。
「いらっしゃいませ」
栗色の髪の女性が、カウンターから微笑む。かつて「地味」と呼ばれたその姿は、今は穏やかな自信に満ちていた。灰青色の瞳は、訪れる人を温かく迎え入れる。
「本に愛される人は、いつでも歓迎いたしますよ」
その隣に、銀髪の青年が立つ。二人の手には、揃いの指輪が光っている。
「何かお探しですか」
「いえ――ただ、ここに来るといいと言われて」
「そうですか」
女性が優しく微笑む。
「それなら、あなたにはきっと、読むべき本があるのでしょう。ゆっくり探してみてください」
訪れた客が書架の間に消えると、本たちが囁き始める。
『新しいお客だ』『何を読みたいのかな』『案内してあげよう』
「相変わらず、お節介な子たちね」
リーゼが苦笑する。
「あなたを見て育ったからでしょう」
レインがからかうように言い、リーゼに軽く小突かれた。
「何よ、それ」
「褒めているんですよ」
「どこが」
「お節介で、世話焼きで、本に愛されていて――」
レインがリーゼの手を取った。
「私にも、愛されている」
「……もう、店内でそういうこと言わないで」
「誰も見ていませんよ」
「本たちが見てるでしょう」
『見てる見てるー!』『仲良しだねー!』『お熱いねー!』
「ほら」
リーゼがため息をつく。でも、その顔は幸せそうに綻んでいた。
窓の外で、雨が優しく降り続いている。
雨の日にだけ開く古書店。本の声が聞こえる女性と、精霊の血を引く店主。そして、意思を持つ無数の古書たち。
ここは、本に愛される人のための場所。
真実を求める者を迎え、偽りを抱く者を拒む――言葉の力が守られる、秘密の楽園。
「レイン」
「はい」
「明日は晴れの予報よ」
「そうですね」
「父のところに顔を出すわ。最近、少し元気がないみたいだから」
「いってらっしゃい。お義父様によろしく」
「義父様、って……」
リーゼが赤面する。
「正式に籍を入れたのですから、当然でしょう」
「そうだけど……まだ慣れないわ」
「私は早く慣れてほしいですけどね――奥様」
「……本当に、からかうのが好きね、あなた」
「百年も一人でしたから、からかう相手ができて嬉しいんです」
「何よ、それ」
二人は顔を見合わせて、笑った。
本たちも、幸せそうにページをめくる。
『いい夫婦だね』『クラリッサも喜んでいるよ』『末永くお幸せに』
母の形見の栞は、今もリーゼの胸元で温かく光っている。
天国の母に届くように、リーゼは心の中で呟いた。
(見ていてね、母様)
(私、本当の居場所を見つけたわ)
(そしてこれからも――本に愛される人として、ここで生きていく)
雨音と古い紙の香りに包まれて――
捨てられた令嬢の、新しい物語は続いていく。
穏やかに、幸せに、そして――本たちの祝福と共に。
【完】




