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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

眠れない夜に②(短編集 2024~)

マシュマロの淵も

作者: 裃 左右
掲載日:2025/10/27

 朝、起きたら、母さんの顔に穴が空いていた。

 大きさは、左の頬骨のあたりから眼球まで。すっぽりくり抜いたみたいだ。

 ミルクを飲む動きに合わせ、穴は、むに、と輪郭を歪ませる。淵は滑らか。どことなくマシュマロのようだな、と思った。

 穴を通して、薄汚れた花柄の壁紙がぼんやり見える。


「あら、グレゴール。おはよう、今日は早いじゃない」

「まあ、ね」


 普段通りの母さんの声。

 別に、穴からなにかが漏れ聞こえてくるわけじゃない。穴は、ただそこに在る。いや、違うな。ただそこに無い、と思うべきなのかな。

 ちらりと向かいの席に座る父さんを見る。スポーツ新聞から視線も上げず、ポリッジをすする。ズズ、ズズズ……。


「やめろよ、父さん」

「は?」

「いや、啜るなんて、あまりマナーがよくないだろ」

「ああ、ちょっとくらいは音が鳴ったかもな。でも、普段はそんなこと言わないじゃないか」

「とにかく、やめて」


 なぜか、今は聞くと気色が悪い。

 姉さんは、スマホの画面に釘付け。豆ペーストと野菜を挟んだブロートヒェンを片手に、タタタ、と親指を滑らせる。


(母さん以外は普通のままだな)


 テレビの情報番組が、どこかの市議の不祥事をけたたましく報じている。父さんのすする音も、姉さんのスマホから漏れるゲームの効果音も。なにもかも変に聞こえそうだ。

 目がどうしても、母さんの顔にぽっかり空いたウロに向かう。


「どうしたの、グレゴール。食欲ないの?」


 母さんが、小首をかしげる。

 同時に見えていた壁紙の花柄も、ぐにゃりと傾いた。レンズを嵌めたみたいに歪んでいる。

 口の中に苦いものが広がった。騙し絵染みて、顔が顔じゃないみたいだ。


「なんでもない、ちょっと寝不足で」


 嘘を吐いた。だって「母さん。今日は顔に穴が空いてるよ」なんて言えるはずもない。おかしくなったと思われる。いや、もしかしたら実際に、ぼくはおかしいのかも。

 パンを無理やり押し込み、ぬるくなったコーヒーで流し込む。なにも美味しくない。

 母さんがポリッジに口をつけた時、湯気が穴の淵を撫でて、向こう側へ吸い込まれるように消えた。テレビのCMに合わせて鼻歌を歌えば、穴が微かに震えた。


「あら、もうこんな時間。学校に間に合わなくなるわよ」


 母さんが立ち上がると、通り抜けて冷蔵庫が映る。

 これは……結局なんだろう。


「えっと、じゃ行ってきます」

「気をつけてね、グレゴール」


 幸い、通学路はいつも通りだった。一度だけ大きく深呼吸。流れ込んできた八月の生ぬるい空気が、現実感を呼び戻してくれた。

 生徒たちが、眠そうにあくびをする。教会の前を鳩が歩き、石畳に同じ角度で射す陽光。パン屋から漂う芳ばしい匂い。なにも、変わらない。

 だからこそ、朝の光景がなおさら悪い冗談みたいだ。

 今頃、母さんはあの穴の開いた顔で、鼻歌を混じりにシャボン玉に洗い物でもしているのか。それとも、トレンディなドラマを見てる?


「なあ、グレゴール。昨日のテレビ見たか?」

「ああ。コメディアンが、ゲップでメロディを奏でてたな」

「バッカ、それじゃねえよ!」


 教室に入れば、いつもの仲間たちが声をかけてくる。

 当たり障りない相槌。誰もぼくが、朝からどんな気持ちになったかなんて知らない。

 黒板に書かれた数字の羅列。窓の外は、灰色のアパート。路面電車が走り、おばあさんが手押し車を押す。

 やっぱり世界のどこにも、異常はない。異常は、あの家にだけある。

 憂鬱さが増した時、近くの席のニーナが微笑みかけてくれた。


「グレゴール、なんだか元気ないね。嫌なことでもあった?」

「ああ、ニーナ。そういうわけじゃないんだ」

「それは本当に?」


 疑うというより、ぼくの憂いを推し測ろうとする仕草。思わず、本音がこぼれた。


「実を言うと、ね。母親の顔をあまり見たくないんだ。上手く言葉には出来ないんだけれど」

「まあ、グレゴール。そういう日は、わたしにもあるわ。きっとよくわかると思う」

「そうかい?」

「ええ、たぶんね。だから、あまり抱え込まなくていいと思うわ」


 なるほど、親の顔が見たくない日は誰にだってある。

 ただ、ぼくは母さんを嫌いになったわけじゃない。どうにかできるなら、してあげたいくらいだ。


(でも、少なくとも本人も困ってないし。ぼく以外に困っている人もいないようだ)


 どうにもならないけど、それでもなんだか気が楽になった。だから、ぼくはニーナに感謝をした。

 でも、気分はすぐに最悪になった。歴史の時間に答案が返されたのだ。

 赤いインクで書かれた30点。先週あれだけ暗記したはずの三十年戦争の年号は、今や頭からきれいに消え去っている。


「おいおい、グレゴール。これでは進級が危うくなってしまうぞ?」


 教師からの同情が、むしろ惨めにさせた。

 周囲から、くすくすと笑いを堪えている気配がする。答案用紙をくしゃくしゃに丸めてカバンの奥に押し込んだ。すると、カバンが鉄の塊みたいに重くなった。

 家に帰りたくない、あの忌まわしい食卓の記憶が蘇ってくる。公園のベンチに座り、日が傾くまでぼんやりと空を見ていた。でも、永遠にそうしているわけにもいかない。

 なんとか身を引きずる思いで、帰ることにした。


「おかえり、グレゴール」


 すると、キッチンから母さんの声がした。顔は見たくなかった。


「……ただいま」


 ぼくは返事もなおざりに、リビングを横切って自室に向かおうとした。

 すると、母さんが、ひょっこりとキッチンから顔を出した。穴は、まだそこにある。左の頬から眼球にかけて、ぽっかりと。

 向こう側に。湯気を立てる鍋が歪む。穴が、むに、と引き攣れた。


「どうしたの、元気ないじゃない。何かあった?」

「な、なんでもないっ!」


 ぼくは部屋に駆け込んだ。はあはあ、と肩で息をする。鞄から丸められた答案用紙を、広げれば言い知れない憎しみがこみ上げてきた。

 赤チェックが連なったクシャクシャの紙切れは、ひどく醜悪で、存在してはならないようにすら思えた。


 見せられるわけがない、特に母さんには。

 あの穴と対面しながら説教されることだけは、さすがに耐え難かった。


 だからって、どうすればいい。破って、燃やして、トイレに流す?

 いつもなら机の引き出しの奥に隠しておくけど、なぜか今日は、ありふれた隠蔽では足りない気がした。

 この答案用紙は、もっと完璧に、この世から消し去らなければスッキリしない。そんな風に思ってしまった。


 その時だ。ふと、脳裏に、あの穴が浮かんだのは。


 ――いや、まさか。


 ぼくは頭を振った。なんてひどいことを考えるんだ。あれは、少なくとも母さんの顔の一部だ。得体のしれない、恐ろしいナニカではあるけれど。

 それでも一度芽生えたアイデアは、耳のなかに住んでしまった虫みたいに出て行かないものだ。


(もし、あの穴にこれを捨てられたら? この『30』と書かれた忌まわしい紙を)


 あまりに突飛で、不謹慎な考え。

 

「でも、もしかしたら……試してみるくらいいいんじゃないか?」


 その夜。我が家が、寝息に包まれるのを待った。

 ぼくは抜き足差し足で、ベッドを抜け出し。そっと寝室のドアに手をかける。


 街灯の明かりが、カーテンの隙間から差し込む。

 母さんは、寝息を立てていた。規則正しく上下する胸。そして、顔の左側にぽっかり浮かぶ、暗い闇。


 早鐘を打つ心臓。きっと、心臓は『やめなさい』と言っているんだと思った。

 ぼくは、とんでもないことをしようとしている。ただの悪戯じゃなく、もっと根源的な、なにかのルールを破ろうとしている。

 ポケットから、くしゃくしゃになった答案用紙を取り出した。

 それを小さく小さく、固く丸めれば、とうとうゴルフボールくらいになった。


 ゆっくりと母さんの顔に近づく。石鹸の匂い。なぜか混じる、ごく僅かな古びたカビや埃のような匂い。


 ぼくは、あまり近くにいたくもなくて。

 丸めた紙を、ためらいがちに、穴へ――差し込んだ。


 指先に、まったく抵抗はなかった。

 水面に、物を落としたみたい。摩擦もなく。すぅ、と吸い込まれていった。

 ただ、消えた。ぼくの手にあったはずの『30点』が、母さんの顔の、奇妙な空洞に。


 ぼくは息を殺したまま、立ち尽くした。

 じわじわと足元から、なにかが這って来る気がする。それはつま先から、太もも、おへそ、胸を伝って。喉から耳に手をかけて、とうとう頭に入ってきた。

 途端、猛烈な吐き気がこみ上げてきた。


(ああっ! ぼくはなんてことをしたんだっ!)


 ぼくは母さんの顔に、失敗の証拠を、ゴミを、捨てた。

 これは冒涜だ。母親という、世界で一番神聖かもしれない存在への、許されざる行為。


 それでも、母さんの寝息は穏やかなまま。

 なんとかぼくは後ずさる。母さんの寝室から、自分のベッドへと逃げ込んだ。布団を頭までかぶり、抑えようとするが、歯の根が合わずにカチカチ鳴る。


(もう二度としない。そうだ、あんな恐ろしいことするもんじゃない! 明日になったら、母さんに謝ろう。答案をなくしてしまいました、と。そうだ、それがいい)


 心に誓いながらも、指にはあの不思議な感触がこびりついていた。

 なんの抵抗もなく吸い込んでいく、虚無という感覚。そして、罪の証拠が世界から消えたという、間違いない事実。


 翌朝。母さんには、やっぱりまだ穴が空いている。父さんは新聞を読み、姉さんはスマホをいじっている。


「グレゴール、おはよう。昨日はよく眠れた?」

「……うん」


 嘘だ。一睡もできなかった。

 罪悪感で押しつぶされそうだった。母さんを、まともに見ることができない。もし穴から、ぼくの捨てた答案用紙が見えていたらどうしよう。そんな恐怖に駆られた。

 でも、なにも起きなかった。母さんはいつも通り元気だ。

 学校も、昨日までとは違う理由で、授業が頭に入ってこない。友達との会話もどこか上の空。結局、母さんに謝ることも、答案用紙のことを話すこともしなかった。


 それから、三日が経った。世界は、驚くほど何も変わらない。

 母さんは変わらず元気だし、父さんも姉さんも、なにごともなかったかのように日常を過ごしている。

 食卓に30点の答案が、落ちていることもなければ、母さんが腹痛を訴えることもない。ぼくが犯した冒涜は、夏夜の悪夢みたいに、痕跡ひとつ残さず消えた。


 安心したけど、得体の知れなさを感じていた。

 そして、芽生えてしまった、黒い好奇心からも目が離せないでいる。

 

(本当に、消えてしまったのだろうか? あの答案用紙は、一体どこへ?)


 ああ、正直に言おう。きっとぼくは、もう一度やる理由を探していた。


 二度目の誘惑は、突然やってきた。

 放課後、ニーナの家で、アナログレコードを聴かせてもらうことになった。だって、エレクトロニック・ミュージックが流行っていたから。


「レコードは音質にも深みがあっていいなあ、ニーナが羨ましいよ」

「そうでしょう? あ。その、ちょっと席を外してもいいかしら?」

「ああ、もちろん。ゆっくりして来なよ。ぼくはその間、堪能させてもらうとするさ」


 ニーナが席を外した時、なんとなく目についた先。

 彼女の父親が収集しているというアンティーク。銀製のインク壺、繊細な鷲の彫刻が施されていた。


「はあ、さすがはニーナのお父さん。趣味がカッコいいなあ」


 ひんやりとした金属の感触は心地よく。翼を広げた鷲の彫刻は生きているみたい。きっと、ものすごく高価に違いなかった。

 ぼくはインク壺を元の場所に戻そうとして――手を滑らせた。


 ガシャン。慌てて拾い上げたが、翼の先端が無残にもへし折れている。


「どうしたの、グレゴール。すごい音がしたけど!」


 あわてて、駆けつけてくるニーナ。

 ぼくはパニックに陥り、咄嗟に、破片とインク壺をポケットにねじ込んだ。


「い、いや、なんでもない! ちょっと椅子を倒しちゃって」

「……椅子を?」


 我ながら、あまりに酷い嘘だった。ニーナは怪訝な顔をしていたが。


「ああ、確かに」


 ぼくは動揺のあまり、実際に椅子を倒してしまっていたから疑われなかった。

 だが、落ち着かなかった。ポケットのなかにある、盗み取ってしまった証拠が、あまりにも重い。

 それからの会話は、まったく頭に入ってこなかった。ぼくは早々に「用事を思い出した」と告げて、ニーナの家から逃げ出すように立ち去った。


 帰り道、罪悪感と恐怖で胸が張り裂けそうだった。


(ニーナに正直に謝るべきか。でも、きっと弁償できるような金額じゃない。きっと、もう口も利いてもらえなくなるだろう)


 絶望的な気分で、自宅のドアを開ける。


「おかえり、グレゴール。今日はニーナちゃんと一緒じゃなかったの?」

「――あ」


 母さんの顔、そこにある穴。

 ソファーでだらしなく、グミベアを摘まむ姿を見たら、思わず声が出た。


「え、なに?」

「いや。……なんでもない」


 ダメだ、もう二度としないと誓ったじゃないか。

 それに、今度はただの紙切れじゃない。ちょっと大きくて、硬い、銀の塊だ。


(あんな穴に入るだろうか。それに、もし入らなかったら? 途中で詰まったりしたら?)


 ぼくは自分の部屋に入って、ゆっくり考えた。


「あれ? 詰まったりしたら、どうなるんだろう」


 この大きさのものは入るのかな、と罪とか関係なく気になってしまった。

 紙は入った。より大きいものは? じゃ、これは?

 そもそも証拠を隠滅したところで、盗みはバレる時はバレる。ただ、目につかない所に入れるか、入れないかの違いしかないんじゃないか。


「仮に、そうだとして。もうしてしまったものは、どうにもならないのだとして……」


 丁度良いサイズだった。この『インク瓶』は入るか入らないか、を考えるのに。

 

 ――そう、とても良いサイズだったのだ。


 ポケットにしまえるくらいで。でも、折れた翼の破片は鋭く尖り、さっきから太ももにチクチク当たって痛い。硬くて、重くて、形のある、紛れもない物体。


「これを……母さんの顔に?」


 一度目の行為は、魔が差した、とでも言える。

 でも、これは違う。これは明確な意思だ。

 取り出したインク壺、折れた翼。つまめば鈍く明かりを反射する。ニーナの悲しむ顔が目に浮かんだ。


 でも、ぼくの好奇心は、罪悪感をじわじわと上回っていった。

 この重さ、この硬さ、この大きさが、あのマシュマロみたいに柔らかそうな穴に、本当に消えるのか?

 やはり、耳奥の虫が囁いた。


 深夜。再び、母さんの寝室に忍び込んでいた。

 心臓は、前回よりもずっと静かだ。罪悪感がないわけじゃない。むしろ、心はインク壺よりも重い気がした。

 だけど、ぼくはもう後戻りできなかった。


 そっとインク壺を穴に近づける。

 まず、翼の折れた、一番体積のある部分から。じっくりと押し込むと、沼に沈んでいくみたいに、ぬるり、と抵抗なく入っていく。前回と同じだ。


 ――いや、違う。


 ごく僅かに、ほんの僅かに、ごり、という手応えがあった。

 

(今、何かに……当たった?)


 硬いものが、柔らかいものにめり込むような、鈍い感触。まさか、前に捨てた答案用紙だろうか。

 思わず手を離しかけたが、構わずにインク壺をぐっと奥へ押し込んだ。


 ずぶ、ずぶ、と、最後には銀の塊も完全に消えた。

 続けて、折れた翼の破片も。それはなんの抵抗もない。


 終えて自室に戻ると、空っぽになったポケットを確かめ、深く、深く息を吐いた。


「はあ、意外となんでも入っちゃうのかな」


 翌日から、ぼくの投棄は、半ば日課のようになった。

 もはや罪の隠蔽というよりも、ほとんど実験に近いものだった。

 まず、万引きしてしまった消しゴムを。するり、と入った。

 次に、割ってしまった姉さんのコンパクトミラーのかけらを。これも入った。

 食べ残したブロッコリー。道端の石。枯れ葉。広告のチラシ。残したコーラ。

 ぼくは様々な『物』と『理由』をわざわざ集めては、夜な夜な母さんの穴に捨て続けた。


 この狂った世界で、ぼくだけが知る真実。


「ああ。母さんの顔には、確かに穴があるんだ」


 不思議と捨てたものについて、誰かから指摘を受けることもなかった。

 今でも変わらず、ニーナはぼくに笑顔を向けてくれる。


「ハァイ、グレゴール。今日は機嫌がよさそうね」

「ああ、なんだか毎日が上手く行ってるんだ。家族とね……向き合い方がわかったというか」

「へえ。あなたが笑顔だと、わたしも嬉しいわ」


 でも、そんなことはもうどうでもよかった。


 投棄を始めて一週間が経った頃、奇妙なことに気づいた。

 母さんから、石鹸の匂いに混じって、あの古びた埃とカビ。土のような臭いが、少しずつ強くなっている気がする。

 そして、寝息に混じって、なにか別の音が聞こえるようになった。


 カサ、コソ……。ザリ、ザリ……。


 穴の奥で、誰かがゴミを漁っているような。ネズミが何かを齧っているような、不快な音。

 ぼくは恐ろしくなって、それ以上耳を澄ますのをやめた。


 それでも、家族は元気だった。

 母さんは「最近よく眠れるのよねえ」なんて言いながら編み物をしている。

 父さんは相変わらず新聞を読み、姉さんは次の週末のデートのことで頭がいっぱいだ。


(結局は、ぼくに無関心なんだな)


 今となっては、都合がいいことだ。

 次の変化が起きたのは、一ヵ月くらい経ってからだろうか。その日の夕食は、ミートボールシチューだった。


「なんだか、今日は部屋が臭わないか?」


 気づいたのは、父さん。鼻をひくつかせながら、リビングを見回している。


「ええ? そうかしら」

「ぼくも別に……」


 姉さんがスマホから顔を上げて言う。


「私もなんとも思わない、臭いなんてする?」


 でも、実はぼくにはわかった。確かに臭う。微かに、甘く腐った匂いが漂ってくる。

 母さんは、穴の空いた顔できょとんと見つめている。


「みんなわからないって。ちょっとあなた、鼻が利きすぎるんじゃないかしら」

「まあ、そうかもな。でもなんだか、生ゴミみたいな……まあいいか」


 父さんはそれ以上追求することなく、シチューを口に運んだ。

 姉さんは眉をひそめて、「排水溝の匂いじゃない?」とスマホに視線を戻す。


 誰も気づかない。いや、気づこうとしない。

 この異臭が、にこやかにシチューを食べる母さん自身から発せられているという事実に。


 このまま捨て続ければ、きっと取り返しのつかないことになる気がする。父さんが気づいたのだ。次は姉さんか、それとも母さん自身か。匂いはどんどん強くなるだろう。

 

 恐ろしくて、もう投棄はやめようと何度も思った。

 でも、やめられなかった。

 あの穴に物を捨てる行為は、ぼくにとって呼吸をするのと同じくらい、自然な習慣になってしまっていたからだ。もはや、行為なしに一日を終えることができなかった。


 夜に母さんの枕元に立つ。異臭は、どんどん強くなっている。

 カサコソ、という乾いた音は、もう聞こえない。

 代わりに、ゴリッゴリッと、硬いもの同士が擦れ合い、砕けていく音。時折、グチュリと湿った粘液をかき混ぜる音がする。


「なんだか、ゆっくりミキサーに掛けられてるみたいだなあ」


 ぼんやりと、ぼくはそんなことを口にした。

 決壊の兆しは、さらに一週間後。日曜の午後。


 テレビでは、くだらないコメディ番組が流れていた。腹を抱えて笑う父さんにつられて、家族全員が大笑いしていた。

 ぼくも、無理に口角を上げていた。


「ぶははっ! こいつは傑作だ!」

「まあ、あなたったら、あはははは!」


 母さんがくしゃりと顔を歪めて、笑い転げた。

 

 ――まさにその時。


 ポトリ。


 何かが、カーペットの上に落ちる。


「あら、何かしら、これ」

 

 母さんが、不思議そうにつまみ上げた。


 それは、ぼくが二週間ほど前に万引きし、捨てた消しゴム。

 薄汚れ、ぬるりとした粘液のようなもので湿っているように見えた。


「なんだ、それ。ゴミか?」


 父さんはテレビから目を離さずに言う。


「よくわからないけど、汚いわね。グレゴール、そこのティッシュ取ってちょうだい」


 渡すと、母さんはあっさりとティッシュに包んで、近くのゴミ箱に放り込んだ。


 家族の団欒は、何事もなかったかのように続く。

 でも、ぼくだけが理解していた。これは始まりの合図だと。


 その日を境に、逆流は頻繁になった。それは日常の、本当に些細なきっかけで起こる。

 母がくしゃみをすれば、いつか捨てた石ころが飛ぶ。


「まあ、どこから入ってきたのかしら」


 あくびをすれば広告の紙が、ひらりと舞い落ちた。


「もう、だれなの? 散らかして」


 食卓では、熱いスープを飲んでむせた時、へし折れた銀の鷲の翼が、カラン、と皿に落ちた。

 当然、家族にはわからなかった。「なんだか変な形の金属片ね」と母さんは首を傾げ、フォークの先で追いやっただけ。


 もう、血の気の引く思いで眺めるしかなかった。


 食卓が、リビングが、家じゅうが、ぼくが捨てた『秘密』と『好奇心』の残骸で汚れていく。

 なのに、家族はそれを「どこからか紛れ込んだゴミ」としか認識しない。みんな元気で、幸せで、いつも通りだった。

 ぼくが作り出した地獄の中で、ぼくだけが正気のまま、狂っていく家族を見ている。


「まったくもうっ! グレゴールったら、またポケットのゴミを出し忘れたの? 洗濯する時に困るでしょ」


 もはや、投棄はしていない。どうせ、もう入らないから。


「うん、ごめんね。母さん」


 出来ることと言えば、母さんを刺激しないことくらい。もう穴はとっくの昔に見慣れていた。


 で、運命となったのは嵐の夜。

 激しい雨が窓を打ち、雷鳴がとどろいていた。停電のせいで、父さんがテーブルの上に蝋燭を灯す。


 思わず、ため息をついた。なにが起きるかわかる気がしたから。


 ドォォォンッ!


 突如、稲光が辺りを真っ白に照らし、鳴り響いた振動。

 驚いた母さんは、けたたましい金切り声を上げた。


「きゃぁぁぁあああッ!」


 その絶叫が、引き金だった。


 ダムは決壊。顔の穴から、おびただしいヘドロが、津波の如く溢れ出す。

 破られた答案用紙、インク壺、コンパクトミラーの破片、腐ったブロッコリー、石、枯れ葉。あらゆる秘密と好奇心の残骸が、濁流となってロウソクの灯りを消し、家族に襲いかかる。


「うわっ!」「何よ、これは!」「いやぁぁっ!」


 真っ暗闇の中で、父さんも、姉さんも、さらには母さん自身も、なにが起きたのか理解できないまま、自分たちの息子がたった一人で溜め込んだ『罪』の激流に、悲鳴ごと飲み込まれていく。


 真っ暗な、汚物の海の中心で、ぼくだけが呆然と立ち尽くしていた。

 やがて、噴出が止まる。


 そして、空っぽになったはずの母さんの穴から、ズルリ、と最後にナニカが這い出てきた。


 それは、ひときわ大きく、歪な形をした塊。

 穴の中で全てのゴミを喰らい、飽和し、汚物の養分を吸って肥え太ったナニカ。


 ナニカは、ゆっくりと顔を上げる。

 暗闇に慣れたぼくの目に映る姿は……奇妙なほどにぼくに似ていた。

 でも、かくありたいと願った理想の姿だ。背が高く、キリっと自信に満ち溢れ、ちょっとだけ大人びた、そんな姿をしていた。

 だが、そんな完璧な顔の左頬に、ぽっかりと、母さんの顔にあったのと同じ穴が空いている。


 ナニカは、汚物の海に沈む家族を一瞥すると、満足そうに頷いた。

 そのまま、こちらに目を向け、にっこりと微笑む。

 唇がゆっくり動けば、マシュマロの淵も蠢いた。


「――ありがとう、グレゴール。次は誰にゴミを捨てる?」


 それから、ぼくは。

 世界中の人間が、ゴミ箱に見えるようになった。もちろん、大好きな女の子も。

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