3 行手を阻む二つの人影
もみじが運転するSUV車は、未舗装の灯りがない道をヘッドライトを点灯して走行していた。道は途中で川から離れていき、道の両側を囲うように森が続いていた。
もみじは緊張した表情で、ヘッドライトの光で浮かび上がる狭い範囲の光景を頼りに運転しており、その隣には無表情で前を見つめるナツが座り、後部座席の中央に子猫を抱えた少女が座り、その左隣と右隣にそれぞれ鏡太朗とまふゆが座っていた。
鏡太朗は優しく微笑みながら少女に質問した。
「ねぇ、君の名前を教えてくれないかな?」
少女は鏡太朗に声をかけられると、身を固くして消え入りそうな声で答えた。
「わ、わたしなんか……、名前を言っても……誰もわたしのことなんて、覚えてくれないから……」
少女の小さな声を聞いたナツは、正面を向いたまま苛立った様子を見せ、眉間にシワを寄せた。
まふゆがギラギラした目で、少女に力強く言った。
「大丈夫だよーっ! あたしの記憶力は超人並なんだからさーっ! あんたのことと今日の出会いのことは、死んでも忘れないよーっ!」
少女はまふゆの語勢に怖気づいたかのように、さらに全身を緊張させて俯いた。鏡太朗がさらに口調を和らげながら、少女を優しく見つめた。
「ごめんね。知らない人に囲まれて、緊張するよね。でも、これだけは信じて。俺たちはみんな、君の力になりたいんだよ」
「……です……」
少女が聞き取れない微かな声で何かを言い、鏡太朗は微笑んだまま優しく聞き返した。
「あ、ごめん。今、車が走る音で、よく聞こえなかったんだ。もう一度、聞かせてくれないかな?」
少女の腕の中の子猫が、まるで少女の発言を促すかのように、愛くるしい顔で少女を見つめて『みゃお』と鳴いた。少女は身を固くして俯いたまま、小さな声で言った。
「……瑠璃……、き、切子です……。わ、わたしの……、な、名前です……」
「瑠璃切子ちゃん? 切子ちゃんって言うんだね? とても綺麗な響きだね。よろしくね、切子ちゃん。
俺は鏡太朗で、切子ちゃんの右にいる女性はまふゆさん。運転してるのはもみじさんで、その隣はナツさんだよ。
切子ちゃん。こんな時間にあんな人気がない場所を一人で歩いていて、今頃は切子ちゃんの家族が心配してるんじゃないかなぁ?」
鏡太朗が優しい眼差しを向けて切子に話しかけると、俯いたままの切子は子猫をぎゅっと抱きしめて両手を握りしめた。
「わ、わたし……、家族はいないんです……」
「え?」
鏡太朗が驚いて聞き返すのと同時に、もみじたちも驚きの表情を浮かべた。
「わたしが九歳の時に……、パパも、ママも、おねえちゃんも、弟の玻璃も、みんな死んじゃったんです……」
切子は体を小刻みに震わせ、俯いた顔から涙が雫になって零れ落ちた。
「大好きだったパパも、ママも、おねえちゃんも、弟も、みんなもういないんです。わたしのことなんか、心配してくれる人なんて……、もう……誰もいないんです……」
やっとのことで言葉を絞り出し、俯いたまま嗚咽を漏らす切子の顔を、子猫が大きな目で心配そうに見つめていた。
まふゆが目に涙を浮かべながら、左手で切子の左肩を抱きしめた。
「あたしも生まれてすぐにお父さんが死んで、五歳の時におかあさんも死んで、切子ちゃんの辛い気持ちはよくわかるよ……。あたしだって、兄のナツがいなかったら今頃どうなっていたか……」
鏡太朗は膝の上で握りしめた自分の拳を見つめながら、切子に言った。
「辛いことを思い出させて……、ごめん……」
切子は俯いたまま両手の甲で涙を拭った。
「ううん……。勝手に泣いたわたしが悪いの……。ごめんなさい。わたしなんかに謝らないで……」
ナツは正面を見つめたまま、再び眉間にシワを寄せた。
切子が落ちついた様子を見せると、鏡太朗は優しい声で再び切子に話しかけた。
「切子ちゃんの子猫、凄く可愛いね。何て名前なの?」
切子は俯いたまま言った。
「この子猫は昨日会ったばかりの野良猫なの……。わたしと一緒で一人ぼっちみたい……。だから、名前は知らないの……」
まふゆは驚いて切子に聞いた。
「昨日会ったって……、あんた、いつから一人で歩いてるのよーっ?」
切子は俯いたまま、身を固くした。
「わたし……、一昨日の夜、入院していた病院を抜け出したの。トラックの荷台に隠れて移動して、運転手が休憩して眠っている間にトラックからこっそり降りて、昨日の昼からずっと歩いてるの。人に見つからないように、ずっと道路じゃないところを歩いていたけど、さっきは橋を渡るために道路に出たの。この子猫とは、トラックから降りてすぐに会ったの」
子猫は切子の腕の中で、切子の腕に顔を擦りつけた。
鏡太朗は自分の声のトーンと発言内容に注意を払いながら、ゆっくり言った。
「病院を抜け出すって……、何か事情があるの?」
「ううん……。わたし、何年も入院してて……、外の世界を見たくなったの。わたしの病気って……薬で症状を抑えてるけど……、もう治らないの……」
切子は再び子猫をぎゅっと抱き締めた。
その場にいる誰もが、切子の発言に言葉を失っていた。鏡太朗は自分の無力さを感じていた。
『ちくしょう! 切子ちゃんにかける言葉が見つからない。切子ちゃんは俺と同じくらいの歳なのに、家族を全員失って想像できないくらい悲しんで、その上に不治の病で苦しんでるなんて……』
鏡太朗が嗚咽を漏らし始め、それに気づいた切子は顔を上げると、その瞬間に目を見張った。切子の瞳に映ったのは、悔しくてたまらないという表情を浮かべて大粒の涙を零している鏡太朗の姿だった。
「鏡太朗さん……?」
呆然としている切子に向かって、鏡太朗が声を震わせながら言った。
「ご……、ごめん……。切子ちゃんがどんな思いをしてきたのか考えたら、悲しくて……、何もできない自分の無力さが……、く、悔しくて……」
鏡太朗は涙を流して切子を見つめながら、言葉を詰まらせた。鏡太朗を見つめる切子の目から、大粒の涙が溢れた。
「鏡太朗さん……、わたしなんかのために泣いてくれて……、あ、ありがとうございます」
「おい!」
ナツが苛立ちを我慢できなくなり、切子の方を振り返りながら大声を出した。
「さっきから、いい加減にしろ! 『わたしなんか』なんて言葉、もう二度と言うな! お前がどんなに悲しい目に遭ってきたとしても、今、どんなに辛い思いをしていたとしても、胸を張って生きろ! もっと自分に優しくして、自分のことを認めてやれ!」
ナツは大声で切子に言い放つと、再び正面を向いた。
「ご……、ごめんなさい……。わたしの言葉で嫌な思いをさせて……」
切子は大きな瞳から涙を流してナツに謝った。
もみじがニヤリと笑いながら、隣のナツに小声で言った。
「五十点だな」
「何がだ?」
ナツはもみじを睨んで不機嫌そうに言った。
「おめぇの優しさと熱い心は感じたぜ。ただ、言葉の選択と言い方に気をつけたら、もっと高得点だったのに惜しいな」
「お、俺は別に優しくも、熱い心の持ち主でもない!」
ナツは少し頬を赤らめながら、不満げな顔で言った。
「そうだ! 切子ちゃん。その子猫に名前をつけてあげようよ。どんな名前がいいと思う?」
車の中でしばらく沈黙が続いた後、鏡太朗が雰囲気を変えようと、努めて明るい口調で言った。切子が驚いた顔で答えた。
「名前を……? わたしがですか? わたしなんかが、この子の名前をつけてもいいんでしょうか? あ、ごめんなさい……。また『わたしなんか』って言っちゃいました」
切子は思わず俯き、ちらりと上目遣いにナツの様子を伺った。
「合理的に考えて、お前の考え方と口癖を治すには時間が必要だ。徐々に変わっていければ、それでいい」
ナツは正面を向いたままぶっきら棒に言い、もみじは横目でナツの様子を見るとニヤリと笑った。
鏡太朗が優しい声で切子に言った。
「きっと、この子猫も切子ちゃんに名前をつけてもらいたいって、そう思ってるよ。この子猫も、切子ちゃんに名前で呼んで欲しいんじゃないかな?」
切子は愛くるしい顔で自分を見つめる子猫を眺め、やがて小さな声でポツリと言った。
「みゃお……」
「え?」
切子の声が聞きとれなかった鏡太朗が聞き返した。
「この子の名前『みゃお』がいいと思うんです……」
切子は頬を赤らめて自信なさげに言った。
「みゃお! いいねーっ! この子にぴったりだよ! よろしくね、みゃお!」
鏡太朗は切子が子猫につけた名前を満面の笑顔で褒めると、みゃおに向かって微笑みながら挨拶し、みゃおも嬉しそうに『みゃお!』と鳴いた。
「みゃおも喜んでるよ!」
鏡太朗が切子にそう言うと、切子は喜びを噛み締めながら、みゃおと見つめ合った。
「わたし、自分の考えが誰かに認めてもらえるなんて……、ずっと長い間なかったことで……、今、とても嬉しいです……」
切子は俯いて涙を零した。
鏡太朗も、もみじも、ナツも優しく微笑み、まふゆは目に涙を溜めて切子の肩を抱いた。
もみじが運転するSUV車は、暗い森の間の未舗装の一本道を走行していたが、しばらくすると森を抜け、一面が雑草や低木が生えた原野の光景に変わり、道は原野の真ん中に真っ直ぐ伸びていた。
「気をつけろ!」
もみじが急に叫び声を上げ、車の速度を落とした。切子は何事かがわからず、もみじの声に驚いていたが、鏡太朗とナツとまふゆは緊張した表情で前方を睨んでいた。
「もみじさん。もの凄く強い呪いの力を感じるよ」
鏡太朗の言葉を聞いたもみじは、緊張した顔で頷いた。
「ああ……、前方から強烈な呪いの力が近づいてくる……。いや、逆だ。あたしたちの方が、呪いの力に向かって進んでいるんだ……」
車が進む先には再び森が広がっており、未舗装の道は森を迂回するように、森の手前で右にカーブを描いていた。
鏡太朗が張り詰めた顔でもみじに言った。
「もみじさん、あの森……微かに呪いの力を感じるよ」
「ああ……。だが、この強い呪いの力の出所は、その森の手前に立っている奴らだぜ。どうやら、あたしたちを待ち構えているようだな」
もみじが鋭い眼光で睨む先には、暗い森を背にして車のヘッドライトに浮かび上がる二つの人影があった。車が人影に近づくと、次第にその異様な姿が明らかになり、まふゆが愕然として言った。
「な……、何なの……あれは……?」
二つの人影の向かって右側は、歪んだお面と直垂を身に着け、首から頭蓋骨で作られた笛を吊るして立つ咒嗟であり、その左肩にはビスクドールの怨咒が腰掛けていた。
咒嗟の隣には、戦国時代の甲冑を身に着けた活人形と呼ばれる等身大の精巧な人形が立っていた。目を見開いて叫んでいる表情の木製の顔には、人間の肌そっくりの彩色がされ、ホーロー製の歯が埋め込まれており、人間の髪の毛が植え付けられていた。その右手には長さ三メートルの槍を持っていたが、槍の穂先の下には、違う方向を向いた三つのミイラ化した人間の頭部が串刺しにされていた。左手は長い髪の毛を鷲掴みにしており、その髪の毛の先には、二つの女性のマネキン人形の頭部がぶら下がっていた。鎧の腰部にはボロボロの古い掛け軸を巻いており、そこには髪の長い女性の恨めしそうな顔の水墨画が描かれていた。活人形の顔と三つのミイラ、二つの女性のマネキンの頭部、女性の水墨画が一斉にジロリと鏡太朗たちの方に目を向けた。
「な、何なの……、あれは……? 人なの……?」
切子が目に涙を浮かべて震え出し、みゃおも全身の毛を逆立てながら、警戒するように『シャーッ!』と鳴いた。その隣では、まふゆの顔からも見る見る血の気が引いていった。
「どうやら、あたしたちをここに来させるために、崖崩れと橋の崩落を起こしたみてぇだな……。あたしたちを歓迎しているようだぜ」
もみじは緊張した表情で半笑いを見せながら、咒嗟たちの手前三十メートルで車を停め、鏡太朗とナツも大きな不安を感じながら道を塞ぐ者たちを睨んだ。鏡太朗がもみじに訊いた。
「もみじさん、あの甲冑を着ている人……、何だか人形みたいに見えるよ……」
「ああ、あれは活人形と呼ばれる木で作られた精巧な人形だな。剥き出している歯は恐らくホーロー製で、兜から少しだけ見えている髪は、人間の髪を移植したものだろう……。奴から感じるのは、生きた人間の霊力じゃねぇ。ありゃあ、悪霊が取り憑いた人形だな」
「漆咒魄よ。お前の出番ぞよ」
直垂を着て仮面をつけた咒嗟はそう言った後、仮面を少し上にずらして頭蓋骨の笛を吹き、一帯に不気味な笛の音が響いた。
「あの笛の音だ!」
鏡太朗が叫ぶのと同時に、漆咒魄と呼ばれた者の活人形と三つのミイラと二つの女性のマネキンの頭部、女性の水墨画が一斉に低い呻き声を上げた。その瞬間、鏡太朗ともみじ、まふゆ、ナツは同時に目を見開き、もみじが叫んだ。
「気をつけろ! 呪いの力が高まってるぞ!」
漆咒魄の二メートル前方に、直径一メートルの円盤状の黒い雲が漆咒魄と向かい合って出現し、ビスクドールの怨咒が咒嗟の肩から離れて宙を舞うと、黒い雲の中に飛び込んだ。
突然、もみじの車の室内の天井に直径一メートルの円盤状の黒い雲が出現すると、その中から怨咒が車内に姿を現し、鏡太朗ともみじ、まふゆ、ナツは驚愕した。
怨咒は車内に座る五人の真ん中で宙に浮いたまま、表情が変わらない人形の顔で口だけを動かし、言葉を発した。
「さあ、みなさん。わたくしの咒靈力を味わっていただこうかしら?」
そう言った怨咒の全身から煙のような闇が滲み出て車内に広がり、もみじとナツ、まふゆは慌てて車のドアを開けて車外へ逃れ、鏡太朗もみゃおを抱える切子の肩を抱いて車内から脱出した。
五人は車から距離をとって振り返ると、もみじの車の開いたドアやボンネット、マフラーなどから煙のような闇が外に溢れ出ており、まふゆは青ざめた顔で闇を見つめ、切子とその両腕の中のみゃおは恐怖で震えていた。やがて車から煙のような闇が消えると、ビスクドールの怨咒が蝶々のようにひらひらと宙を飛んで、咒嗟の左肩の上に座った。
もみじが緊張した表情のまま、咒嗟たちに向かって叫んだ。
「おめぇら何者だ? 何が目的であたしたちを狙う?」
咒嗟は笛を吹いた時に上へずらしたお面を元に戻し、甲高い女性の声で答えた。
「此方は咒魄物遣いの咒嗟ぞよ」
「咒魄物?」
鏡太朗が怪訝そうな表情で聞き返すと、咒嗟が答えた。
「左様。死後、この世に留まる魂を魄と言う。魄は年月とともに内に備えている霊力が自然に減少していき、霊力が尽きた時には存在そのものが消滅するぞよ。しかし、物や人間に取り憑くと、霊力の消耗を防ぎ、長年月この世に留まることができるのであるぞ。
咒いの力である『咒靈力』に支配された魂をお前たちは『悪霊』と呼ぶが、悪霊が取り憑いた物のことを『咒魄物』と言うぞよ。
此方は、人間の頭部で作ったこの笛を使い、物に宿る悪霊を下僕として操る術を身につけておる。動き回る悪霊を下僕として支配することは困難であるが、物に宿る悪霊は取り憑いた物に縛られ、捕らえておくことが容易であり、七日の間続けて行う儀式で、咒靈力に支配された悪霊を洗脳して従順な下僕にすることができるぞよ」
ナツが眉を寄せて吐き捨てるように言った。
「客観的に見て、こいつらも、こいつらの術も狂ってる……」
咒嗟が再び口を開いた。
「此方の隣におるのは、七つの咒魄物の集まりで、此方は漆咒魄と呼んでいるぞよ。活人形、三つの頭部のミイラ、二つのマネキン人形の頭部、腰に巻いた掛け軸の水墨画、それぞれに別の悪霊が取り憑いておる。七体の悪霊が同時に咒靈力を発揮すると、その力は相乗効果で数十倍に高まり、崖を崩し、橋を落とし、離れている二つの空間を結びつけることなど容易いのであるぞ」
咒嗟の左肩の上で、ビスクドールの怨咒が冷たい声色で言った。
「わたくしは咒靈力遣いの怨咒と申しますの。わたくしは大量の咒靈力を操り、咒靈力を物質化することもできますのよ。遥か昔……、わたくしも人間だった気がするけど、人間の体って大量の咒靈力を扱うとすぐに死んじゃうから、人間の体は捨てて、魂を人形に宿すことにしたの。この体は何十番目の体だったかしら……? わたくしは二千年以上生きているらしいけれど、今、記憶に残っていることと言ったら、せいぜい五百年前くらいまでの出来事ですのよ。時々色々な人間の姿や光景が鮮明に心に浮かぶのですけど、過去の記憶なのか、未来の幻視なのかは判別ができないのですわ。
もっとも、この世に何百年も存在している悪霊たちだって、ほとんどが人間だった頃のことなんて覚えていないものですのよ。誰を咒っていたのかは覚えていないのに、強烈な咒いの感情だけは、いつまでも生々しく消えることがないのですわ」
鏡太朗ともみじ、まふゆ、ナツは、 咒嗟と怨咒が語る異常な話を唖然として聞いていたが、切子はみゃおを両腕に抱きながら、何も考えられずに恐怖だけを感じて体を震わせていた。
「い、一体、こ、これは何なの……?」




