19 紫と闇のまだらの光
切子は夜空を低空で飛んでいた。その左右の上腕には、二体のヘビの姿の式神のしっぽが巻きつき、その式神の翼の羽ばたきで黒い桜が狂い咲く森の奥へと運ばれていた。怯えた表情を浮かべる切子は、鏡太朗から託されたお札を右手でしっかりと握りしめていた。
『どんなことになっても、絶対にこのお札を守るんだ……。鏡太朗さんのために、このお札を守り抜くんだ……』
切子は恐怖で体を小刻みに震わせながら、自分自身に言い聞かせていた。
やがて、眼下に広がる黒い桜とその枝葉の奥の暗闇から、悪霊に支配された村人たちの狂ったような叫び声が聞こえてきた。
「人間はどこだーっ? どこにいるーっ? 殺してやるから出てこーいっ!」
「殺してやるぞーっ! 殺してやるーっ! 人間は皆殺しだーっ!」
「ぎゃはははーっ! この鎌で体中を切り刻んでやるぞーっ!」
人の声とは思えないような恐ろしい叫び声を聞いた切子の顔からは、どんどん血の気が引いていき、その目には涙が滲み、体中がガタガタと大きく震え出した。
『こ、怖い……。この声、怖い、怖過ぎるよ……。え?』
切子を捕らえた二体の式神は、口からサーチライトのように光を放射し、悍ましい叫び声を上げる悪霊に支配された村人たちを照らした。その光で浮かび上がったのは、鎌を振り回して獲物を探す六人の悪霊に支配された七十代のおじいさんとおばあさんの姿であり、黒い血管が浮き出ている顔で式神が放つ光を見上げると、そこに切子の姿を発見し、狂気に満ちた黒い目でニヤリと笑った。
切子を捕らえた二体の式神は光の放射を止めると、六人の悪霊に支配された村人に向かってゆっくりと降下していった。
『こ、ここに降りるっていうの……? あ、あの人たちがいるところに……? わたし……あの鎌で殺される……』
切子が大きく見開いた目からは涙が溢れ、切子は体中のあらゆる細胞が凍りついていくような恐怖に襲われた。
蔵の中では、左腕が元通りになったナツが、さっきまで神子が立っていた場所に鋭い目を向けた。
「あとは神子を倒すだけだ」
しかし、蔵の中にはすでに神子の姿がなかった。
「神子がいない! 本殿か?」
ナツは勢いよく蔵から飛び出し、隣の神社に駆け込んだ。
たくさんのロウソクの火が灯る本殿にナツが土足で踏み入ると、そこには本殿の奥に向かって正座して平伏する神子の姿があった。
「俺は絶対にお前を逃さない! お前を守る式神が消えて、咒いの神に助けでも求めているのか?」
ナツが冷たい表情で神子に言い放つと、神子は上体を起こし、目を吊り上げてナツを睨んだ。
「無礼者の身のほど知らずが! 余はお前から逃げたのではなく、我が咒いの神、禍忌凶怨咒尊様から新たな役目を仰せつかり、ここに参ったのだ。お前ごときに、余を攻撃することなど何一つできぬのだ。試してみるがよい」
神子が邪悪な顔に薄笑いを浮かべると、ナツは鋭い眼光で神子を睨んだ。
「お前は、あらゆる人間とこの世に禍をもたらす。老人であろうと、女であろうと手加減はしない」
ナツは神子に向かって右足を一歩前へ踏み出した。その時、ナツの足元の床が紫色と闇がまだらになった光で輝いた。
「ぐわあああああああああああああああああああっ!」
紫と闇がまだらになった光は、火柱のように上へ伸びてナツの全身を包み、ナツは全身を襲う激痛で苦しみ悶えて絶叫した。神子は立ち上がると、ナツを蔑んだ目で見た。
「愚か者め! 咒靈力の光の柱の中で、全身を襲う激痛に悶え苦しむがよい。余は神の声を聞く者。咒いの神、禍忌凶怨咒尊様が宿るこの土地におる限り、余を必要とされる禍忌凶怨咒尊様があらゆるものから余を守られるのだ。お前には失望した。お前など、もう必要ない」
咒靈力の光の柱が消えると、ナツは気を失って床に崩れ落ちた。
暗い森の中では、切子を捕らえている二体の式神が、六人の悪霊に支配された村人の手前二メートルの位置で降下していき、恐怖に怯える切子の靴の底が、足元に生い茂る紫蘇の群生に触れるかどうかの位置で静止した。
「ひひひ……。殺してやるぞ! 殺してやる!」
「この鎌を何十回も突き刺して、じわじわと殺してやる!」
悪霊に支配された村人たちは、狂気に満ちた目でニンマリ笑うと、鎌を掲げてじわじわと切子に近づいてきた。
『わたし、ここで殺される!』
悪霊に支配された村人たちの狂気に満ちた殺意を放つ姿が、次第に切子の視界を占めていった。村人たちは一斉に鎌を振りかぶると、切子目がけて力任せに振り下ろした。
『もうダメ!』
切子は自分に向かって振り下ろされる鎌から顔を背け、目をつぶった。
「え?」
切子が恐る恐る目を開けると、鎌を振り下ろした六人の村人が二メートル先に立っていた。
「逃げるなああああああああっ! 殺してやるうううううううっ!」
村人たちは、再び鎌を掲げながら鬼気迫る形相で切子に駆け寄り、鎌を振り下ろしたが、二体の式神が羽ばたいて切子を五メートル後方に運んだ。
『この怪物、すぐにはわたしが殺されないように楽しんでる……? あの黒衣のおじいさんみたい……。それがあのおじいさんの命令なの?』
二体の式神は突然切子からしっぽを放して黒い桜の木の上まで上昇し、森全体に向けてワライカワセミに似た鳴き声を響かせた。しばらくすると、森の様々な方向から、悪霊に支配された村人たちの人間とは思えない悍ましい声が聞こえてきた。
「あっちに何か生き物がいるぞーっ!」
「殺してぇーっ! 殺してやりてぇーっ!」
「生きてる奴は何でも殺せーっ! 人間だろうが、獣だろうが構わねーっ!」
村人たちの声はどんどん切子に近づいてきた。
切子は現実とは思えない悪夢のような状況に愕然としていたが、目の前の悪霊に支配された村人たちが『殺してやる!』と口々に叫んで迫ってくるのに気づき、慌てて反対側に向かって駆け出した。
切子が逃げ出すと、森の上で滞空していた二体の式神は、咒恨がいる川に向かって飛び去っていった。
怨咒に憑依されたもみじは、頭から十二本の枝を生やし、別人のような邪悪な笑みを浮かべてまふゆの前に立っていた。
「ふふふふっ。この体を使って、あなたを殺して差し上げますわ」
もみじは怨咒の声でまふゆに言った。
「そんな……、もみじさんが……。そんな……」
まふゆは変貌したもみじの姿を茫然として見つめ、その目には涙が溢れていた。
「あたしの体を勝手に使ってんじゃねぇよ!」
もみじの顔が突然いつもの表情に戻ると、いつもの声と口調で喋り始めた。
「おめぇなんかに、超絶美しいあたしの体を勝手に使われてたまるかーっ! 古より雷を司りし天翔迅雷之命よ! その御力を宿し給え! 一条之稲妻ああああああああああああああああああああああああっ!」
もみじは自分の胸に右掌を当てて、凄まじい雷を自分に向けて放った。
「があああああああああああああああああああああっ! こ、今度こそ、おめぇを退治してやるぜええええええええええええええええええっ!」
もみじは雷の激痛に耐えながら、必死の形相で叫んだ。
『ぎゃあああああああああああああああああっ! こ、こんなに凄い雷は耐えられませんわ! でも、この体を捨てて、新しい体に入ればいいだけのことですわ!』
怨咒の魂は、もみじの体から抜け出そうとした瞬間に愕然とした。
『出られない! この体から出られませんわ! この女、霊力の壁をつくってわたくしの魂を閉じ込めたのですわ! ぎゃああああああああああああああああっ! もうこれ以上、耐えられませんわああああああああああああああっ!』
怨咒の魂の断末魔のような叫びとともに、もみじは目を大きく見開いたまま仰向けに倒れ、もみじの体から小さな光の粒が抜け出し、逃げるように空高く上っていった。
「もみじさん!」
まふゆが慌ててもみじに駆け寄り、もみじに呼びかけながら体を揺すったが、もみじの反応はなかった。まふゆの脳裏に、母の遺体を泣きながら揺すり続けた記憶が蘇り、まふゆは大粒の涙を流しながら、もみじに呼びかけ続けた。
「もみじさん! もみじさん! もみじさああああああああん!」
「まふゆ」
まふゆがハッとして声が聞こえた方を見上げると、もみじの魂が傷ひとつない姿で優しく笑って頭上に浮かんでいた。
「もみじさん!」
「どうやら、あたしは死んじまったみてぇだな」
まふゆは愕然としてもみじの魂を見つめ、大きく見開いた目から止めどなく涙を流し、体を震わせた。
「嫌だ……。そんなの嫌だ……。そんなの絶対に嫌だああああああああああっ!」
暗い夜空にまふゆの絶叫が響いた。
第二形態の鏡太朗は、対岸の咒禍死を忌々しく睨んだ。
『あいつの正体がわかったぜ。あいつの本体は三十六個の水晶だ。三十六個の水晶が宙に浮かび、そこから放出された咒靈力が物質化してあの体をつくっている。移動する時は物質化した体を咒靈力の状態に戻して水晶の中に吸収し、十八個の水晶が咒靈力を使って、他の十八個の水晶を鉄砲の弾丸のように一瞬で遠くに吹き飛ばし、次に、先に移動した十八個の水晶が、元の場所に残っている十八個の水晶を咒靈力を使って一瞬で引き寄せ、全部揃った三十六個の水晶が再び咒靈力を放出して物質化させ、あの体を再構築してやがる。その一連の動きを瞬きする間に行っているんだ。だから、あいつは移動する直前にはピクリとも動かねぇ。さっき、あいつが移動する時に動きがはっきり見えたが、どうやったらあの動きを止められる?』
鏡太朗は、闇の炎を川の向こう側の咒禍死に向かって再び放射した。意識を集中した第二形態の鏡太朗の目には、今起こっている出来事がスローモーションのように映った。
咒禍死は闇の炎が到達する直前に肉体が消え去り、眼球を始めとする体の中に埋め込まれていた三十六個の水晶が姿を現すと、十八個の水晶が咒靈力を爆発させるように、他の十八個の水晶を対岸に向けて吹き飛ばした。飛んで行く十八個の水晶と残った水晶は、網目状の咒靈力の塊で繋がっており、飛んで行った水晶は網を一気に引くように、残った水晶を引き寄せた。
三十六個の水晶は第二形態の鏡太朗の左後方に到達すると、咒靈力を放出し、それは人の形の塊になると、物質化して咒禍死の姿に変わった。
「何だと?」
咒禍死は、鏡太朗の背後に出現した瞬間に驚愕した。鏡太朗が腰の後ろに回していた両手の十本の指が扇状に長く伸びており、その左手の人差し指と中指と薬指が咒禍死の腹部を貫通していた。
「うひひひ……。思った通りだぜ。お前は必ず俺たちの背後に回り込むことを読んで、闇の炎を吐き出した直後、俺たちの後ろに向かって十本の指を伸ばしたのさ。お前が体を物質化した場所には、先に俺たちの指が伸びていたのさ」
「それがどうした? この体は単なる咒靈力の塊を物質化したものに過ぎない。痛みを感じなければ、ダメージを負うこともない」
咒禍死は鏡太朗の背中に強烈な前蹴りを放ち、鏡太朗は凄まじい勢いで吹き飛ぶと、川を超えて対岸の小石だらけの河原に叩きつけられた。
「な、何っ? お、お前……」
咒禍死は水晶でできた目を大きく見開いて動揺を見せ、鏡太朗は咒禍死を嘲笑いながら立ち上がった。その掲げた左手の人差し指と中指と薬指の間には二個の水晶が挟まれていた。
「うひひひ……。俺たちはお前の打撃で吹き飛ばされることを想定し、その力を利用して、お前の体を貫通していた三本の指でお前の体の中から一気に水晶を引き抜いたのさ」
第二形態の鏡太朗は、牙だらけの口の中に二個の水晶を放り込むと、噛み砕いて呑み込んだ。その直後に、黒い炎のような鏡太朗の体が一瞬だけ大きく膨らんだ。
土手の上では咒恨が狼狽していた。
「な、何てことだ! 水晶を食ったあいつの咒靈力が高まり、水晶を失った咒禍死の咒靈力が減ったよ! 咒禍死とあいつの咒靈力の量の差が大きく縮まったよ〜!」
咒禍死は一瞬で対岸から鏡太朗の正面に移動し、鏡太朗は突風のように素早く後退して咒禍死と距離をとった。
「うひひひ……。こりゃあいい。水晶を食ったら、動けるスピードが格段に上がった。あとは、こいつを試してみるか」
鏡太朗は足元に落ちている龍雷を右手で拾い上げると、不気味に嗤った。
「うひひひ……。さっきまでこの体を支配していた奴が、これを使って魔物の首を斬るのを前に見たことがある。一度、使って誰かを斬ってみたかったのさ。うひひひ……」
右の拳を振りかぶった咒禍死が、凄まじいスピードで鏡太朗を目がけて突進し、鏡太朗は素早く後退しながら両手で柄を掴んだ龍雷を、右下から左上に向けて一瞬で振り上げた。龍雷は咒禍死の左脇腹から右肩口までを一瞬で切断し、その時、軌道上にあった咒禍死の体内の水晶を四個粉砕した。鏡太朗は振り上げた龍雷の動きを止めずに頭の上で大きく回転させると、今度は咒禍死の左肩口から右脇腹までを一瞬で切断し、咒禍死の体内にあった水晶をさらに四個粉砕した。
砕けた水晶から紫と闇のまだらの光が一帯に広がり、土手の斜面に生えていた雑草は、光に当たった瞬間に枯れて朽ち果てた。
「ひい〜っ!」
咒恨は慌てて頭を両手で抱えると、土手に腹ばいになり、光が直接体に当たることを避けた。
「こんなに強烈な咒靈力は、数秒間浴びたらこの体が死んでしまうよ〜!」
咒恨が何かに気づいて上に目を向けると、一帯に広がっていた紫と闇のまだらの光が河原に向かって引き戻されていた。咒恨が恐る恐る河原を確認すると、光は第二形態の鏡太朗に向かって収斂していた。
「あ、あいつ、咒靈力を吸収している!」
鏡太朗の体が再び一瞬だけ大きく燃え上がるように膨らみ、咒恨の顔がどんどん青ざめていった。
「あ、あいつの咒靈力は、咒禍死を大きく上回った! もう咒禍死には勝ち目がないよ〜!」
「うひひひ……。さすがに神の力が宿る武器だな。凄い切れ味だぜ」
鏡太朗は龍雷を放り投げると、切断された体を元通りに回復した咒禍死に向かって不気味に嗤った。
「うひひひ……。お前の咒靈力を全てもらうぞ。うひひひ……」
咒禍死は水晶の目を見開きながら、その表情に怯えの色が広がっていった。
咒禍死は、両目の水晶から紫と闇のまだらの光を鏡太朗目がけて放射したが、鏡太朗はこれまでとは比べものにならないほど強烈な勢いの闇の炎を口から吐き出し、闇の炎は紫と闇のまだらの光を消し去った。闇の炎はそのまま咒禍死を直撃してその全身を包み込み、咒禍死は悲鳴を上げながら闇の炎の中で燃え上がると、その体と体内の水晶はボロボロに崩れていった。
崩れていった二十六個の水晶からは、紫と闇のまだらの光が周囲の空間に放出されたが、その光の全てを鏡太朗が全身で吸収していき、全ての光が鏡太朗の体の中に消え去った瞬間、鏡太朗の体が巨大な闇の炎と化し、やがて縮まって元の第二形態の鏡太朗の姿に戻り、大声で不気味に嗤った。
土手に身を伏せて一部始終を目撃していた咒恨は、冷や汗を流し続けながら絶望の淵にいた。
「もう、終わりだよ〜。あいつは咒禍死の咒靈力を全て吸収して自分のものにしちゃったよ〜。あんな奴に狙われたら、絶対に助かる訳ないよ〜!」
突然、鏡太朗の闇の体が膨らんで直径二メートルの闇の塊になり、闇の塊の中からたくさんの人々の呻き声が聞こえ始めた。
咒恨の生気を失った顔に、大きな怯えの色が浮かんだ。
「最後の変身をしちゃったよ〜。俺の魂とこの憑代の体は、あいつに食われちゃうよ〜」
鏡太朗の体を包む闇の暗さが次第に薄くなっていくと、闇のオーラに包まれた最終形態の鏡太朗が姿を現した。その髪と目は真っ白で、顔からは一切の感情が消え、薄い灰色の肌の表面では数え切れないほどの大小様々な大きさの亡者の顔が蠢き、口々に呪いの言葉を呟いていた。
「殺してやる! あいつを殺してやるぞ!」
「あいつら、みんな死ねばいいのよ……。あいつらを呪ってやるわ……」
「あたしはあいつが死んだくらいでは、まだ許さないわ……! あいつの魂も、家族も、友達も、みんなを永遠に呪い続けてやる……」
最終形態の鏡太朗は土手でうつ伏せになって身を隠そうとする咒恨に瞳がない白い目を向けると、突風のようなスピードで咒恨の隣に移動した。
「げへへへっ……。俺たちに膨大な咒靈力を贈ってくれて礼を言うぞ。お返しにお前の体と魂を食い尽くし、痛みと恐怖と絶望と永遠の消滅をくれてやる。げへへへっ……」
鏡太朗は、恐怖のあまり目を見開いたまま身動き一つできずにいる咒恨に向かって右足を一歩踏み出した。




