10 切子の記憶
ヘリコプターがふらふらしながら夜空を飛んでいた。
「咒恨様、これを外してくださいよーっ」
ヘリコプターの後部座席には、七十歳くらいの男性パイロットが座面に転がっていた。その両手首と両足首には闇でできたマムシがそれぞれ巻きつき、その顔には黒い血管が浮かび、目は黒く、闇のオーラに包まれた姿に変貌していたが、弱々しい表情と声をしていた。
咒恨が操縦席で操縦桿を握りながら、笑顔で答えた。
「悪霊に入れ替わった君らは、何をしでかすかわからないからさ〜。しばらくそうしててね〜」
「そんなーっ! 俺、咒恨様に手を出すなんて恐ろしい真似はしませんよーっ!」
「そうだ! さっき梨の皮を剥いたナイフがその辺に転がってるから、気をつけてね〜。急いで操縦席に移ったから、その時にどっかに行っちゃったよ〜。
ところでさ〜、君ってヘリコプターの操縦はできる?」
「俺が取り憑いているじーさんは操縦が得意だけど、俺は操縦の方法なんて知りませんよーっ!」
「奇遇だね〜! 嬉しいよ! 俺も操縦の方法を知らないんだ〜」
ヘリコプターが急に前傾して高度を落とし始めた。
「わあああああああっ! 助けて、咒恨様ーっ!」
後部座席に転がっている悪霊に支配されたパイロットが、ヘリコプターの急降下の揺れで体が反転し、背もたれの方に顔が向くと、背もたれと座面の隙間に挟まっていた果物ナイフの切先がすぐ目の前にあり、悲鳴を上げた。
「ひいいいいいいいいいいいーっ!」
「このままじゃあ、たぶん墜落しちゃうね〜。仕方がないな〜」
ヘリコプターが落下を始めても咒恨は平然としており、その操縦桿を握る両手が闇の塊で包まれると、闇の塊はヘリコプター全体へ広がっていった。咒恨は目の前の計器類に向かって言った。
「ヘリコプターよ。我が咒靈力により、咒いの式神として我に仕えよ」
計器の一つが口に変わり、他の計器は全て目に変わった。
「咒恨様、かしこまりました」
口に変わった計器が恭しく答え、目に変わった計器は眼球をあちこちに向けて、視線を動かし続けていた。
咒恨が計器類に向かって命じた。
「さあ、俺を安全に朝死川霊園の隣の広場まで運んでね〜」
「了解しました。咒恨様」
森に墜落寸前だったヘリコプターは上昇し、安定した飛行を始めた。
後部座席では、悪霊に支配されたおじいさんが感心していた。
「咒恨様の式神をつくる術は、いつ見ても大したもんですねーっ」
「君も知っているように、俺の術はどんな物体でも俺に仕える咒いの式神に変えることができるのさ〜。君を拘束しているマムシの姿の式神も、元々は単なる手拭いなんだよ〜。
神子様が内に秘している式神はさ〜、咒靈力を練り上げた塊でつくられたからめちゃめちゃ強いんだけど、つくるのには相当な時間がかかるんだよね〜。その点、俺はすでにある物体を式神に変えるから、早くつくれるし、一度に大量につくることもできるんだよ〜。式神をつくるスピードと量だけなら、俺は神子様よりも凄いのさ〜!
だけどさ〜、どんなに凄い術を遣えても、肉体の老化と衰えを止められないのが悩みなんだよね〜。五十年以上付き合ったこの肉体とは、そろそろバイバイして、肉体を新調したいんだけど、どこかに俺が術を遣う時の膨大な霊力に耐えられる若い肉体はないものかな〜」
黒い花弁が舞い落ち、枝に吊るされた日本人形が大きく揺れ、人形に取り憑いた悪霊たちが呪いの言葉を叫んでいる暗い森の中で、悪霊に支配された八人のおじいさんとおばあさんは、悪霊に支配された葬儀屋のおばあさんの行動を見てニヤリと笑った。悪霊に支配されたおじいさんとおばあさんが、自分の足首を繋ぐ鎖を狙って殺意を込めて『殺してやるーっ!』と叫んでみると、その口から咒靈力が黒い光線のように放射された。
鏡太朗と鏡太朗に右腕を引かれて走る切子の背後で、人間とは思えない九人の悪霊の『殺してやるーっ!』という叫び声が繰り返し響いていた。
「あ、みゃお!」
切子の左腕からみゃおの遺体が滑り落ち、紫蘇の群生の中に落下した。
「みゃお!」
「切子ちゃん、今は逃げるんだ!」
涙を浮かべて立ち止まり、みゃおの遺体を拾おうとする切子に、鏡太朗は右腕を引っ張って逃げることを促した。
悪霊に支配された九人のおじいさんとおばあさんは、邪悪な笑みを浮かべて立ち上がった。その足首を繋いでいた鎖は砕け散っており、おじいさんとおばあさんは黒い血管が浮かび上がっている顔を上げ、黒い目で鏡太朗たちが逃げ去った方を睨んだ。
「今度こそ、殺してやるぞ!」
九人のおじいさんとおばあさんがニヤリと笑うと、その体を包む黒いオーラが膨れ上がり、老人の体とは思えないスピードで、鎌や棒を手にして鏡太朗たちの後を追って駆け出した。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
鏡太朗に右腕を引かれている切子は、息切れしながらフラフラと走っていた。やがて、切子は紫蘇が生い茂る地面に前のめりに倒れた。
「切子ちゃん!」
「はぁ、はぁ……、わたしはもう走れません……。わたし、病気で何年も入院してたから体力がないんです……。はぁ、はぁ……、鏡太朗さん……、わたしのことなんか置いて逃げてください……。鏡太朗さん一人なら……きっと逃げ切れます。はぁ、はぁ……」
「そんなこと、できるわけないだろおおおおおおおおおおおっ!」
鏡太朗は切子に向かって力の限り叫んだ。悪霊に支配されたおじいさんとおばあさんたちの『殺してやる!』という叫び声は、次第に近づいていた。
鏡太朗は右手に持っていた懐中電灯を投げ捨て、切子の両腕をとって立たせると、切子を背中におぶった。
「鏡太朗さん?」
「俺が絶対に切子ちゃんを守ってみせる!」
鏡太朗はそう言うと、切子をおぶったまま凄いスピードで駆け出した。
「鏡太朗さん! ダメです! わたしをおぶっていたら、鏡太朗さんまで追いつかれてしまいます!」
「心配しないで! 何があっても、絶対に俺が切子ちゃんを守り抜くから!」
「鏡太朗さん、一人で逃げてください! わたしなんて、死んだとしても悲しんでくれる人なんて一人もいないんです! わたしなんか、どうせ生きている価値なんてないんです! そんなわたしなんかのために、死なないでください!」
鏡太朗に向かって懸命に叫ぶ切子の目からは、涙が溢れていた。
「生きている価値がないなんて、そんなわけないだろおおおおおおおおおっ!」
鏡太朗は涙を流して本気で怒り、叫び声を上げた。切子は激しく揺れる鏡太朗の背中の上で目を丸くしていた。
「生きる価値がないなんて、絶対に二度と言うんじゃない! 今度そんなことを言ったら、俺は絶対に切子ちゃんを許さない! 切子ちゃんが、五年経って、十年経って、あの時死ななくてよかったって心から思える幸せな日々が来るまで、そしてその先だって、もっともっと長く生きていたいって本気で願える毎日が来るまで、絶対に生き続けるんだ! 切子ちゃんがそんな日を迎えられるように、俺は絶対に切子ちゃんを守る! 切子ちゃんが幸せに笑って過ごせる未来へのバトンを必ず繋いでみせる!」
鏡太朗の熱い叫びを聞いた切子は、思わず鏡太朗をぎゅっと抱きしめ、その背中に頬を埋めた。
『鏡太朗さんと一緒にいると、心が温かくなって胸がキュンとする……。何だろう、この気持ち……? そうだ。今、わたしは幸せを感じているんだ……』
切子は穏やかな微笑みを浮かべ、その頬を流れる涙は嬉し涙に変わっていた。
天井に大きな穴が開き、床の中央で炎が燃えている蔵の中で、もみじはまふゆの上半身を抱えていた。
「大丈夫か、まふゆ? おめぇの体から、強い呪いの力を感じるぞ。季節の神様に呼びかけて、季節の神様の御神氣と波長を合わせて、御神氣が全身に満ちて呪いの力を体外へ追い出していくことをイメージするんだ」
「余計なことは止めてもらうぞよ」
もみじの背後から咒嗟の声が聞こえ、もみじが振り返ると、二十メートル離れた場所に咒嗟が立っており、その左肩にはビスクドールの怨咒が冷たい人形の顔で座り、咒嗟の右隣には漆咒魄が立っていた。咒嗟が続けた。
「その女子は此方の憑代なのである。此方が己の体として使うために、怨咒が咒靈力を物質化してつくった咒靈之茨で女子を捕らえ、その体に咒靈力を流し込んでいたのであるぞ。新しい体で急に咒靈力を使うと、組織や器官が損傷してしまい、場合によっては死に至ることもあり、此方の新しい体を咒靈力に慣らしていたのである。準備は整い、後は此方の魂が女子の魂と入れ替わるだけなのであるぞよ」
もみじはまふゆの体を床に横たえると、咒嗟を睨んで怒りの形相で叫んだ。
「ざけんじゃねえええええええええええっ! 人の体と魂と人生を何だと思ってんだ! まふゆの体はまふゆだけのもんだ。ぜってぇおめぇには渡さねぇ! あたしがぜってぇ、まふゆを守るぜ!」
「もみじさん……」
まふゆはもみじの熱い想いに胸を打たれ、もみじの後ろ姿を見上げながら目に涙を溢れさせていた。
漆咒魄が咒嗟の前に出ると、その右手に持つ槍に串刺しになっている三つのミイラの頭部が下品な声で一斉に言った。
「ぎゃははは! 咒嗟様よぉ。俺たちがこの女を壊してもいいか? 笛をつくり直すまであんたの術は遣えないだろうが、俺たちは自分の意思でこの生意気な女をぶっ壊してやりたいのさ」
咒嗟は少し困った声で答えた。
「この女の体は神子様の憑代である。壊してしまうことは控えてもらおうか」
咒嗟の左肩の上で、怨咒が楽しそうに言った。
「咒嗟、別にいいじゃない。あなたの憑代になる予定だったこの女の子の体を、代わりの憑代として神子様に献上すればいいのですわ。あなたが新しい体を我慢すれば丸く収まることですのよ」
漆咒魄の左手で髪を掴まれてぶら下がっている二体の女性のマネキン人形の頭部が、同時に喜びの声を上げた。
「嬉しいねぇ! 岩や橋を壊しても面白くなかったんだよ。やっぱり、壊すなら生身の人間の体じゃないと楽しくないからねぇ! この女の体がバラバラになることを想像するだけでワクワクするじゃないか!」
漆咒魄の腰に巻かれた掛け軸では、そこに描かれた水墨画の恨めしそうな表情の女性が恨めしそうな声色で言った。
「こんなに若くて顔も綺麗な女は、生きているだけで恨めしいのさ。見てるだけで殺したくなるのさ」
漆咒魄の活人形の顔が言った。
「さあ、始めるぞ」
漆咒魄は、三つのミイラの頭部が串刺しになった槍を右手一本で構えた。
『こいつらの闘い方は予測ができねぇ。一瞬の油断が命取りになるな……』
もみじは緊張した表情で両掌を前に上げ、体術の構えで身構えた。
「はぁ、はぁ」
鏡太朗は切子をおぶって暗い森の中を走っていた。鏡太朗は相当疲れた表情で、息が切れており、足を止めて周囲の様子を見渡した。
森の中には、枝に吊るされた人形に取り憑いた悪霊たちの呪いの言葉が響いていたが、悪霊に支配されたおじいさんとおばあさんの『殺してやる!』という叫び声は遠くから聞こえていた。
「悪霊に支配された村の人たちとは、だいぶ距離をとれたみたい。でも、どれだけ走っても森から出られない。どっちに行けばいいんだろう?」
鏡太朗が周りを見回すと、どの方角にも暗い森が続いていた。
鏡太朗に抱きつく切子の腕に、ぎゅっと力が入った。
「鏡太朗さん……。ごめんなさい。わたしのせいで、こんなことになってしまって。わたしがパニックを起こして森に駆け込まなかったら、こんなことには……。わたし……、みんなを巻き込んで、本当に最低だ」
鏡太朗はゆっくりした速度で再び走り出すと、優しい口調で言った。
「切子ちゃんのせいなんかじゃないよ。実は、まふゆさんがさらわれたんだ。俺たちは、切子ちゃんが森に逃げ込まなくても、まふゆさんを探すためにここへは来ることになったんだよ。だから、気にしないで」
「まふゆさんが? 見つかったんですか?」
「わからない。もみじさんとナツさんも、今頃どこかでまふゆさんを探していると思う」
「こんな危険な森で、皆さんは大丈夫なんですか?」
「きっと、いや絶対に大丈夫だよ。みんなとても強いんだよ。特に、もみじさんはめちゃめちゃ強くて、しかも、状況をすぐに把握して対処方法を考える凄い人なんだ。もみじさんがいれば、絶対に大丈夫!」
切子は鏡太朗の背中に頬を預けながら、視線を下に向けた。
「鏡太朗さん……。あのね……、聞いて欲しいことがあるの。わたしがパニックを起こした理由……。わたしね……、刃物を見るのが怖いの……。わたしが……九歳の時……、夜中に家族みんなが寝ていたら……」
切子は途中で涙ぐみ、言葉を詰まらせた。鏡太朗はゆっくり走りながら、真剣な表情で切子の次の言葉を待っていた。
「両親の寝室で寝ていたパパとママ……、自分たちの部屋で寝ていたお姉ちゃんと弟の玻璃……、みんな殺されたの……」
鏡太朗は愕然として、思わず足を止めた。
「みんな、さっきのみゃおみたいに体中を刃物で何度も何度も刺されていたの! 部屋には血が飛び散って、パパとママのベッドの下には血まみれの包丁が落ちていたの! パパとママも、お姉ちゃんと弟の玻璃も、みんな刃物で滅多刺しにされて殺されたのーっ!」
切子は泣き叫び、そのまま鏡太朗の背中に顔を埋めて泣き続けた。
鏡太朗は胸が張り裂けそうな想いで俯き、背中に切子の涙を感じながら、体を震わせて泣いていた。
黒い花弁が舞い落ちる森の中に、背中で泣きじゃくる切子を背負った鏡太朗が、俯いて立ち尽くしていた。
『切子ちゃんの悲しみと苦しみが、痛いほど胸に伝わってくる。切子ちゃんの涙を止めてあげたいのに……、切子ちゃんの泣き顔を笑顔に変えてあげたいのに……、何もできない俺の無力さが悔しい! 悔しくて、悔しくてたまらない!』
鏡太朗は体を震わせながら涙を流し続け、何もできない自分に激しい怒りを感じ、その怒りはどんどん高まっていった。
「俺は切子ちゃんの力になりたいんだあああああああああああああっ!」
突然、鏡太朗は天を仰ぎ、涙を散らしながら、力いっぱい叫び声を上げた。切子は鏡太朗の背中から顔を上げ、目を丸くして鏡太朗の後頭部を見つめた。
「切子ちゃん。俺は、切子ちゃんが幸せを感じながら、笑って毎日を過ごせるようになって欲しいんだ。どんなに小さな幸せでもいい。身の回りに小さな幸せを見つけて、それを感じながら生きて欲しい。とても小さな幸せだって、それを集めたら、きっといつかは大きな幸せになるよ。
いつの日か、切子ちゃんが大きな幸せと手を繋いで生きていけるように、小さいかもしれないけど、俺はたくさんの幸せを君に贈ってあげたい。そんなことを考えている友達がここにいるって、そのことを信じて欲しい」
鏡太朗の言葉を聞いた切子は、思わず鏡太朗を強く抱きしめながら、その背中に顔を埋めた。その表情には驚きと喜びの感情が浮かんでいた。
「鏡太朗さん……。わたしなんかと……お友達になって……くれるの?」
切子は鏡太朗の背中に頬を寄せながら、少し不安そうに訊いた。
「『わたしなんか』なんて、もう言っちゃだめだよ」
鏡太朗は穏やかな微笑みを浮かべながら、聞く者の心を解きほぐすような優しい声で背中の切子に言った。
「俺はもう切子ちゃんの友達だよ。これからだって、ずっとだよ……」
切子の目から再び涙が溢れた。しかし、その涙はもう悲しみの涙ではなく、幸せの涙に変わっていた。切子は小さな幸せなどではなく、大きな幸せを胸いっぱいに感じていた。
「あっちから声が聞こえたぞ!」
「今度こそ殺してやる!」
悪霊に支配されたおじいさんとおばあさんたちの声が、鏡太朗と切子に少しずつ近づいてきた。
「まずい! さっきの声を聞かれたんだ!」
鏡太朗は切子をおぶったまま、森の奥へ全力で駆け出した。
「こっちから声が聞こえた! 誰かいるぞ!」
「殺せ! 殺せ! 殺せえええええええええええええっ!」
鏡太朗の進行方向からも、人間とは思えない悍ましい声が聞こえ、声は段々近づいてきた。
「前からも来た! きっと他の村の人たちだ! この声、十人以上いるみたいだ。こっちに行こう!」
鏡太朗は切子を背負ったまま、左側に向かって走った。
「はぁ、はぁ、はぁ」
鏡太朗は切子を背負ったまま全力で走り続け、息を切らしていた。
「はぁ、はぁ、悪霊に支配された村の人の声は遠くなったけど……、はぁ、はぁ、ここはどこだろう? はぁ、はぁ、どんなに走っても森を抜けられない……。どっちに行けばいいんだ?」
鏡太朗は走りながら周囲を見渡したが、どの方向に目を向けても、どこまでも
続く森とその奥の暗闇しか見えなかった。
「鏡太朗さん、この音!」
鏡太朗の背中で、切子が上を見上げて言った。鏡太朗も上に目を向けると、ヘリコプターがプロペラ音を響かせながら飛んでいる様子が、黒い桜の木々の隙間に見えていた。
「ヘリコプターだ! きっと、霊園の隣のグラウンドに着陸するんだ! ヘリコプターを追えば、森から出られるよ!」
鏡太朗の表情が喜びで輝き、ヘリコプターが進む方向へ元気いっぱいに駆け出した。そんな鏡太朗の嬉しそうな声を聞きながら、切子は幸せな表情を浮かべて鏡太朗の背中に頬を擦り寄せていた。




