表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

Axe of Atonement ――贖いの斧――

作者: 鳳 翔平

薄暗い森は、まるで世界から見捨てられたかのような静寂に包まれていた。


 濃い霧が地を這い、湿った土と朽ちた木の匂いが鼻を突く。森の奥へと続く細道は、獣の足跡さえも残されていない。誰も近づかぬ理由は明白だった。


 そこは、村の掟で固く禁じられた地――“沼の森”。


 だが、その禁を破り、一人の男が足を踏み入れていた。


 木こりである。


 村はずれの山間に独りで暮らし、生業として薪を刈って日々を過ごしていた。裕福ではない。むしろ、今にも飢えそうな生活だった。干した肉は底をつき、米の残りも心もとない。冬の前にどうしても稼がなければならない金があった。


「……誰にも、見られていない。今日だけ……今日だけだ」


 誰にともなく呟きながら、彼は額の汗をぬぐった。手のひらはすでに濡れており、斧の柄が滑りそうになる。緊張で、汗が止まらない。


 だが、それでも足を止めることはなかった。森の奥には、人の手が長らく入っていない大木があるという。一本でも倒せば、まとまった金になる。食いつなげる。


 欲だった。


 生き延びるため、どうしても必要な――欲だった。


 重々しい空気を振り払うように、彼は斧を握りしめる。


「……よし」


 幹の太さは人間の胴の三倍はあった。どっしりと根を張った老木を相手に、木こりは斧を振り上げる。


 ――ギィン!


 鋭い音が森の静寂を破った。


 一度……二度……三度。重い斧を振るたび、刃が木に食い込む。木くずが舞い、息が上がる。


 そのときだった。


 振りかぶった斧が、ぬめった手から滑り落ちた。


「あっ……!」


 宙を舞った斧は、弧を描いて転がり――やがて、暗く淀んだ沼へと落ちていった。


 ――ボチャンッ。


 重苦しい水音が、耳の奥で反響した。沼の表面には波紋が広がり、次第に沈黙が訪れる。


「……しまった……」


 木こりは呆然と立ち尽くした。斧は彼にとって、ただの道具ではない。唯一無二の、仕事道具だった。


 だが、それよりも――。


 ――ぶくっ、ぶくぶくぶくっ……


 沼の水面から、泡が浮かび上がってきた。


 規則性のない不気味な泡。まるで水底で何かが、息を吹き返したかのように――。


「……なんだ、これは……」


 胸が締めつけられるような感覚に、木こりは無意識に後ずさる。沼に漂う何かが、こちらを見ている気がした。


 次の瞬間。


 ――ザバァァンッ!!


 水面が激しく揺れ、まばゆい光があふれ出した。


 木こりの目に、幻想的な光の粒が映る。それらはまるで星屑のように、ふわりふわりと宙を舞い始めた。


 息を呑む木こりの前で、光は集まり、人の形をかたどり始める。


 そして。


 水面に現れたのは――この世のものとは思えぬほど、美しい女の姿だった。


 白く透き通る肌、艶やかな黒髪。静かに微笑むその顔は、まさしく神秘の化身。


 女は、水面に立ったまま、優しく語りかけた。


「あなたが落としたのは――この金の斧ですか?」


ーーーーー


木こりは、あまりの光景に言葉を失っていた。


 水面に立つ女神の姿は、まさしく神秘の具現。ゆらめく霧の中にあっても、その輪郭ははっきりと光を放ち、まるで夢の中にいるような感覚に陥る。


 だが、聞き覚えのある言葉に我に返る。


「あなたが落としたのは――この金の斧ですか?」


 その手には、まばゆく輝く黄金の斧が握られていた。刃は美しく研がれ、柄には装飾が施されている。どう見ても、木こりが使っていたような粗末なものではない。


「い、いえ……違います……」


 木こりは思わず首を振った。こんな豪奢なもの、持ったこともない。嘘をついてはいけない。そう思わせる、何かがあった。


「それでは、こちらの――銀の斧でしょうか?」


 女神は柔らかな仕草で、今度は白銀の斧を掲げてみせる。


 さきほどの金の斧よりもやや控えめな輝きだが、それでも木こりにとっては十分すぎるほど立派すぎる。


「いいえ……それも違います。私の斧は、そんな上等なものではありません……」


 正直な答えだった。いつも使っていたのは、手入れも行き届かない錆びかけた鉄の斧。決して誇れるものではなかったが、それでも彼にとっては大事な商売道具だった。


 女神は、ふっと微笑んだ。どこか慈愛に満ちた、母のような微笑みだった。


 だが――次の瞬間、その表情が変わる。


 女神はゆっくりと振り返った。背中には、一本の斧が深々と刺さっていた。


「……それでは――お前の斧は、この斧かァ?」


 声色が、変わった。


 透き通るような美声は、地の底から這い出るような濁声へと変化し、微笑みは醜悪な嗤いへと転じる。


 ぐちゅり、と斧の刺さった背中から黒い血が垂れ落ちる。


「え……?」


 木こりの目の前で、女神の身体が歪んだ。


 背中から突き出した斧の柄を軸に、彼女の身体はぐにゃりと折れ曲がる。裂けた背からは、蜘蛛の足のような異形の触手が何本も伸び、ぬらぬらと地を這った。


「まァてェェェ――この斧はァァ――お前のかァァァ!! ヒヒヒヒヒ……!」


 女神は、もはや女神ではなかった。


 それは、欲と嘘に塗れた人間の悪意が作り出した怪異だった。


 木こりは、声も出せずに立ち尽くしていた。


「来い、返しに来てやったァァ! 痛い、痛いぞォ……この背中の斧がァァ!!」


 異形の女神は、ぬるりぬるりと地を這い、木こりに向かって迫ってくる。森の枝が折れ、腐った木が砕ける音が周囲に響く。


 木こりは、ようやく我に返った。


 生きたい――!


 その一心で走り出した。


 足元の地面がぬかるみ、枝が顔を叩く。それでも止まらなかった。後ろから這い寄る“それ”の気配に追われるように、必死に森を駆けた。


「どこだァァァァ……逃がさないぞォ……この斧はァァァ……お前のだろうがァァァ……!」


 木こりは、一本の高い木に飛びついた。


 呼吸が荒く、喉が焼けつく。だが這い上がる。必死に、必死に木を登った。


 やがて女神の声が遠ざかっていく。下をそっと覗くと、異形の女神が木の下を這いずり回っていた。


「どこだァ……どこへ行ったァ……」


 それはまるで、迷子の子どもが母を探すかのようだった。


 しかしその目は、真っ赤に染まり、苦しみに満ちていた。


 やがて、闇に溶けるように、その姿は森の奥へと消えていった。


 ――助かった。


 木こりは、木の上でしばらく震えていた。


 あの沼が、禁じられていた理由――あれが、そういうことなのか。


 けれど、それ以上深く考える余裕はなかった。


 命が助かった。それだけで、もう十分だった。


 慎重に木を降りると、足を引きずりながら、森を抜けて帰路についた。


 家に着く頃には、空はすっかり夜の帳に覆われていた。


ーーーーー


数日が経った。


 あの出来事は、まるで夢だったかのように、木こりの中で薄れていく気がしていた。


 あの怪異も、あの声も――何かの幻覚だったのかもしれない。そう思いたかった。


 だが、夜になると決まって夢を見る。


 金の斧。銀の斧。そして、背中に突き刺さった斧を引きずる、あの異形の女の姿。


 夜が怖くなっていた。薪を焚き、扉に閂をかけ、窓を塞いでも、安堵は得られなかった。


 そして――その夜は、訪れた。


 風が唸りを上げ、雨が屋根を叩きつける嵐の夜だった。


 ガタガタと戸が揺れ、窓が軋む音が、嵐の騒音に紛れて不気味に響く。


 木こりは、暖炉の前で毛布にくるまりながら、怯えるように外を見つめていた。


 そのときだった。


 ――コン……コン……コン……


 ドアを、何かが叩いた。


 木こりは息を飲む。嵐の夜に訪れる客など、いるはずがない。


 ――ドンドンドン!!


 今度は明確な打撃音。戸板が軋むほどの力で、誰かが叩いている。


 心臓が跳ね上がる。


 まさか……いや、まさか。


 恐る恐る窓から外を覗いた、そのとき。


 そこに――いた。


 雨に濡れた女神の姿。真っ赤な目で、こちらを見つめていた。


「……痛い……」


 唇が、動いた。


「この背中の斧が……痛いのよォォ!」


 次の瞬間、ドアが叩き割られた。


 バキッ!


 女神の腕が、濡れた髪を滴らせながら、ドアを突き破ってきた。爪は黒く尖り、手の甲には浮き出るような血管が脈打っている。


 さらにもう一方の手も突き出され、破られたドアの隙間から、ずぶ濡れの顔が覗く。


「返しに来たのよ……あなたの斧をォォ!」


「うわあああああっ!!」


 木こりは絶叫し、家の奥へ逃げ込む。


 棚が倒れ、椅子が砕け、食器が飛び散る音が後ろから追ってくる。まるで家全体が襲われているような錯覚。


 逃げ込んだ寝室の隅、棚の裏に目をやったとき――彼の目に飛び込んできたのは、一挺のライフルだった。


 祖父の形見だった。


 迷うことなく、それを手に取り、廊下へと飛び出す。


 そこに、女神がいた。


 全身が濡れ、背中からは異形の斧が突き出たまま。こちらを見た女神が、歯を剥いて嗤った。


 引き金を引く。


 轟音と共に、弾丸が放たれ、女神の額に命中した。


「ギャアアアアアッ!!」


 絶叫とともに、女神がよろける。だが、倒れはしない。額から黒い液体が噴き出し、表情がますます異形に歪んでいく。


「女神たるこの私に、斧を突き立てただけでは飽き足らず……そんな鉄の玉まで喰らわせるとは……!」


 女神は吠えた。


「その罪、万死に値するッ!!」


 次の瞬間、家が揺れた。


 屋根が吹き飛び、梁が崩れ、壁が砕けた。家は、破壊され尽くした。


 木こりは瓦礫の下で呻きながら、女神の後ろ姿を見た。


 異形の背に斧を背負ったまま、闇へと溶けていく。


 その向かう先は――村だった。


ーーーーー

村に着いた時には、すでに遅かった。


 あちこちで火の手が上がり、広場では人々が逃げ惑っていた。子どもを抱えて泣く母、怯える老人、農具を手に立ち向かおうとする男たち。


 その中心に――異形の女神がいた。


 背から伸びた触手が地を這い、炎の中を蠢いている。


 木こりは震える手でライフルを構え、何発も撃った。だが、女神の動きは止まらない。


 そのとき、東の空に朝日が昇りはじめた。


 女神が光に目を細めた。金色の斧のように輝く太陽が、まるで彼女を縛る何かのように感じられた。


「……このままでは……終わらせぬぞ……!」


 そう叫びながら、女神は炎の中へ身を翻し、森の奥――沼へと戻っていった。


 沈黙の中、村に残された者たちが声を上げた。


「誰だ……誰が、あの禁忌の沼に近づいたんだ!」


 木こりは、逃げなかった。


 おのれの罪を胸に、前に出て名乗り出た。


「……俺だ。俺が、あの沼で……掟を破った」


 村長が近づいてきた。


「お前……なんてことをしてくれた……。だが、話さねばなるまい。あの沼の本当のことをな」


 村長は、口を開いた。


ーーーーー

「百年ほど前、この村は今よりもっと東にあった。あの沼のすぐそばだ」


 村長の語りは、静かに始まった。


「沼の畔には、立派な社があってな。そこに祀られていたのが、“願いを叶える女神”だった」


 人々はその女神を崇め、社に祈りを捧げていた。豊作、安産、縁結び……祈願は次第に個人的な欲へと変わっていった。


「いつしか、願いは“奪うこと”ばかりになっていた。“他人の金を手に入れたい”“あいつより幸せになりたい”……そんな欲望ばかりが祈られたのだ」


 ある日、女神は“試し”を行った。


 社の傍らの沼から、金の斧と銀の斧を差し出し、人間の心を問うた。


 しかし、人々はみな嘘をついた。


「“それが私の斧です”と、皆が金の斧を指さしたのだ。誠実を試した女神は、失望し、自ら沼に姿を消した」


 だが、それで終わらなかった。


 ある晩、村の男たちが若い女性を殺した。


「何があったのかは、今となってはわからん。ただ、社の前に祀られていた女神像が返り血に染まり、女性の亡骸は沼へ投げ込まれていたという」


 女神の失望と怒り、そして女性の無念が、沼の底で混ざり合った。


 やがて、化け物が生まれた。


「それが……あの女神の成れの果てだったのだ」


 村人たちは社を壊し、村を移した。以来、誰一人として、沼に近づかなくなった。


「それを、目覚めさせてしまったのがお前だ」


 木こりは、黙って話を聞いていた。


 そのすべてを、自分は知らなかった。知ろうともしていなかった。


「……でも、あのときの“女神”は、美しかった。静かに微笑んで、俺に問いかけてきたんだ」


 木こりは、沼の方を見やった。


 あのとき、自分が嘘をついていたら、どうなっていただろう。


 あの女神が、本当に欲しかったのは――。


ーーーーー


木こりは、斧とライフルを手に、再び沼へと向かった。


 朝焼けが森の隙間から差し込み、霧の中に女神の姿が浮かび上がった。


 相変わらず、背には黒ずんだ斧が突き刺さっている。


 女神は、彼を見つめた。


「なぜ……誰も、この痛みを取ってくれないの……?」


 木こりは、女神に近づき、そっと手を伸ばした。


「ごめん……あの時、俺は……謝るのが怖くて……」


 その手は、斧に触れた。


 けれど、それは――びくともしなかった。


「……抜けない……?」


「当たり前よ。その斧は、あなただけの罪じゃない。あの村の、あの土地の、人間たちが積み重ねた悪意の塊。だから、人間には抜けないの」


 女神の声は、悲しみに沈んでいた。


「でも……俺には、それでも……この痛みを、知ることしかできない」


 木こりは、もう一度斧に手をかけた。


 抜けなくてもいい。ただ、その痛みを忘れないように。


 女神は、黙ってそれを見つめ――やがて、自ら斧を引き抜いた。


 そして、それを木こりに差し出した。


「ならば、お前に託そう。この斧は、お前たちが背負うべきものだ」


 斧を受け取った瞬間、女神の姿がふわりと霧に溶けていった。


 静かに、優しく、まるで最初に現れた時のように。


ーーーーー


木こりは、その後、沼のそばに社を建てた。


 中には、自ら削った女神の像を祀った。


 かつて出会った、あの美しい姿を形にしたものだ。


 それは、祈りの対象ではない。


 罪を忘れぬための、記憶の象徴。


 木こりは、日々その社を訪れ、掃き清め、わずかな供え物を捧げた。


 森の木を少しずつ間引き、陽を通す。


 木を切ることは、ただ金を稼ぐためではない。森を育て、守るためだ。


 それを、木こりはやっと思い出した。


 やがて彼は、愛する者と出会い、家庭を持ち、子をもうけた。


 だが、あの社に通うことはやめなかった。


 それは、贖罪のためだけではない。


 語り継ぐためだ。罪の記憶を、風化させないために。


 ある日、子が泣き出した。


 妻が微笑みながら言った。


「そろそろミルクの時間かしらね」


 木こりも、微笑み返そうとした。


 だが、そのとき。


「……イ……タ……イ……」


 ――確かに、そう聞こえた。


 子の口が、そう動いた気がした。


 まさか……いや、気のせいだ。


 そう自分に言い聞かせ、木こりは顔を上げる。


 だが、そこにいたのは――。


 ほんの一瞬、女神のような笑みを浮かべる、我が子の顔だった。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ