Axe of Atonement ――贖いの斧――
薄暗い森は、まるで世界から見捨てられたかのような静寂に包まれていた。
濃い霧が地を這い、湿った土と朽ちた木の匂いが鼻を突く。森の奥へと続く細道は、獣の足跡さえも残されていない。誰も近づかぬ理由は明白だった。
そこは、村の掟で固く禁じられた地――“沼の森”。
だが、その禁を破り、一人の男が足を踏み入れていた。
木こりである。
村はずれの山間に独りで暮らし、生業として薪を刈って日々を過ごしていた。裕福ではない。むしろ、今にも飢えそうな生活だった。干した肉は底をつき、米の残りも心もとない。冬の前にどうしても稼がなければならない金があった。
「……誰にも、見られていない。今日だけ……今日だけだ」
誰にともなく呟きながら、彼は額の汗をぬぐった。手のひらはすでに濡れており、斧の柄が滑りそうになる。緊張で、汗が止まらない。
だが、それでも足を止めることはなかった。森の奥には、人の手が長らく入っていない大木があるという。一本でも倒せば、まとまった金になる。食いつなげる。
欲だった。
生き延びるため、どうしても必要な――欲だった。
重々しい空気を振り払うように、彼は斧を握りしめる。
「……よし」
幹の太さは人間の胴の三倍はあった。どっしりと根を張った老木を相手に、木こりは斧を振り上げる。
――ギィン!
鋭い音が森の静寂を破った。
一度……二度……三度。重い斧を振るたび、刃が木に食い込む。木くずが舞い、息が上がる。
そのときだった。
振りかぶった斧が、ぬめった手から滑り落ちた。
「あっ……!」
宙を舞った斧は、弧を描いて転がり――やがて、暗く淀んだ沼へと落ちていった。
――ボチャンッ。
重苦しい水音が、耳の奥で反響した。沼の表面には波紋が広がり、次第に沈黙が訪れる。
「……しまった……」
木こりは呆然と立ち尽くした。斧は彼にとって、ただの道具ではない。唯一無二の、仕事道具だった。
だが、それよりも――。
――ぶくっ、ぶくぶくぶくっ……
沼の水面から、泡が浮かび上がってきた。
規則性のない不気味な泡。まるで水底で何かが、息を吹き返したかのように――。
「……なんだ、これは……」
胸が締めつけられるような感覚に、木こりは無意識に後ずさる。沼に漂う何かが、こちらを見ている気がした。
次の瞬間。
――ザバァァンッ!!
水面が激しく揺れ、まばゆい光があふれ出した。
木こりの目に、幻想的な光の粒が映る。それらはまるで星屑のように、ふわりふわりと宙を舞い始めた。
息を呑む木こりの前で、光は集まり、人の形をかたどり始める。
そして。
水面に現れたのは――この世のものとは思えぬほど、美しい女の姿だった。
白く透き通る肌、艶やかな黒髪。静かに微笑むその顔は、まさしく神秘の化身。
女は、水面に立ったまま、優しく語りかけた。
「あなたが落としたのは――この金の斧ですか?」
ーーーーー
木こりは、あまりの光景に言葉を失っていた。
水面に立つ女神の姿は、まさしく神秘の具現。ゆらめく霧の中にあっても、その輪郭ははっきりと光を放ち、まるで夢の中にいるような感覚に陥る。
だが、聞き覚えのある言葉に我に返る。
「あなたが落としたのは――この金の斧ですか?」
その手には、まばゆく輝く黄金の斧が握られていた。刃は美しく研がれ、柄には装飾が施されている。どう見ても、木こりが使っていたような粗末なものではない。
「い、いえ……違います……」
木こりは思わず首を振った。こんな豪奢なもの、持ったこともない。嘘をついてはいけない。そう思わせる、何かがあった。
「それでは、こちらの――銀の斧でしょうか?」
女神は柔らかな仕草で、今度は白銀の斧を掲げてみせる。
さきほどの金の斧よりもやや控えめな輝きだが、それでも木こりにとっては十分すぎるほど立派すぎる。
「いいえ……それも違います。私の斧は、そんな上等なものではありません……」
正直な答えだった。いつも使っていたのは、手入れも行き届かない錆びかけた鉄の斧。決して誇れるものではなかったが、それでも彼にとっては大事な商売道具だった。
女神は、ふっと微笑んだ。どこか慈愛に満ちた、母のような微笑みだった。
だが――次の瞬間、その表情が変わる。
女神はゆっくりと振り返った。背中には、一本の斧が深々と刺さっていた。
「……それでは――お前の斧は、この斧かァ?」
声色が、変わった。
透き通るような美声は、地の底から這い出るような濁声へと変化し、微笑みは醜悪な嗤いへと転じる。
ぐちゅり、と斧の刺さった背中から黒い血が垂れ落ちる。
「え……?」
木こりの目の前で、女神の身体が歪んだ。
背中から突き出した斧の柄を軸に、彼女の身体はぐにゃりと折れ曲がる。裂けた背からは、蜘蛛の足のような異形の触手が何本も伸び、ぬらぬらと地を這った。
「まァてェェェ――この斧はァァ――お前のかァァァ!! ヒヒヒヒヒ……!」
女神は、もはや女神ではなかった。
それは、欲と嘘に塗れた人間の悪意が作り出した怪異だった。
木こりは、声も出せずに立ち尽くしていた。
「来い、返しに来てやったァァ! 痛い、痛いぞォ……この背中の斧がァァ!!」
異形の女神は、ぬるりぬるりと地を這い、木こりに向かって迫ってくる。森の枝が折れ、腐った木が砕ける音が周囲に響く。
木こりは、ようやく我に返った。
生きたい――!
その一心で走り出した。
足元の地面がぬかるみ、枝が顔を叩く。それでも止まらなかった。後ろから這い寄る“それ”の気配に追われるように、必死に森を駆けた。
「どこだァァァァ……逃がさないぞォ……この斧はァァァ……お前のだろうがァァァ……!」
木こりは、一本の高い木に飛びついた。
呼吸が荒く、喉が焼けつく。だが這い上がる。必死に、必死に木を登った。
やがて女神の声が遠ざかっていく。下をそっと覗くと、異形の女神が木の下を這いずり回っていた。
「どこだァ……どこへ行ったァ……」
それはまるで、迷子の子どもが母を探すかのようだった。
しかしその目は、真っ赤に染まり、苦しみに満ちていた。
やがて、闇に溶けるように、その姿は森の奥へと消えていった。
――助かった。
木こりは、木の上でしばらく震えていた。
あの沼が、禁じられていた理由――あれが、そういうことなのか。
けれど、それ以上深く考える余裕はなかった。
命が助かった。それだけで、もう十分だった。
慎重に木を降りると、足を引きずりながら、森を抜けて帰路についた。
家に着く頃には、空はすっかり夜の帳に覆われていた。
ーーーーー
数日が経った。
あの出来事は、まるで夢だったかのように、木こりの中で薄れていく気がしていた。
あの怪異も、あの声も――何かの幻覚だったのかもしれない。そう思いたかった。
だが、夜になると決まって夢を見る。
金の斧。銀の斧。そして、背中に突き刺さった斧を引きずる、あの異形の女の姿。
夜が怖くなっていた。薪を焚き、扉に閂をかけ、窓を塞いでも、安堵は得られなかった。
そして――その夜は、訪れた。
風が唸りを上げ、雨が屋根を叩きつける嵐の夜だった。
ガタガタと戸が揺れ、窓が軋む音が、嵐の騒音に紛れて不気味に響く。
木こりは、暖炉の前で毛布にくるまりながら、怯えるように外を見つめていた。
そのときだった。
――コン……コン……コン……
ドアを、何かが叩いた。
木こりは息を飲む。嵐の夜に訪れる客など、いるはずがない。
――ドンドンドン!!
今度は明確な打撃音。戸板が軋むほどの力で、誰かが叩いている。
心臓が跳ね上がる。
まさか……いや、まさか。
恐る恐る窓から外を覗いた、そのとき。
そこに――いた。
雨に濡れた女神の姿。真っ赤な目で、こちらを見つめていた。
「……痛い……」
唇が、動いた。
「この背中の斧が……痛いのよォォ!」
次の瞬間、ドアが叩き割られた。
バキッ!
女神の腕が、濡れた髪を滴らせながら、ドアを突き破ってきた。爪は黒く尖り、手の甲には浮き出るような血管が脈打っている。
さらにもう一方の手も突き出され、破られたドアの隙間から、ずぶ濡れの顔が覗く。
「返しに来たのよ……あなたの斧をォォ!」
「うわあああああっ!!」
木こりは絶叫し、家の奥へ逃げ込む。
棚が倒れ、椅子が砕け、食器が飛び散る音が後ろから追ってくる。まるで家全体が襲われているような錯覚。
逃げ込んだ寝室の隅、棚の裏に目をやったとき――彼の目に飛び込んできたのは、一挺のライフルだった。
祖父の形見だった。
迷うことなく、それを手に取り、廊下へと飛び出す。
そこに、女神がいた。
全身が濡れ、背中からは異形の斧が突き出たまま。こちらを見た女神が、歯を剥いて嗤った。
引き金を引く。
轟音と共に、弾丸が放たれ、女神の額に命中した。
「ギャアアアアアッ!!」
絶叫とともに、女神がよろける。だが、倒れはしない。額から黒い液体が噴き出し、表情がますます異形に歪んでいく。
「女神たるこの私に、斧を突き立てただけでは飽き足らず……そんな鉄の玉まで喰らわせるとは……!」
女神は吠えた。
「その罪、万死に値するッ!!」
次の瞬間、家が揺れた。
屋根が吹き飛び、梁が崩れ、壁が砕けた。家は、破壊され尽くした。
木こりは瓦礫の下で呻きながら、女神の後ろ姿を見た。
異形の背に斧を背負ったまま、闇へと溶けていく。
その向かう先は――村だった。
ーーーーー
村に着いた時には、すでに遅かった。
あちこちで火の手が上がり、広場では人々が逃げ惑っていた。子どもを抱えて泣く母、怯える老人、農具を手に立ち向かおうとする男たち。
その中心に――異形の女神がいた。
背から伸びた触手が地を這い、炎の中を蠢いている。
木こりは震える手でライフルを構え、何発も撃った。だが、女神の動きは止まらない。
そのとき、東の空に朝日が昇りはじめた。
女神が光に目を細めた。金色の斧のように輝く太陽が、まるで彼女を縛る何かのように感じられた。
「……このままでは……終わらせぬぞ……!」
そう叫びながら、女神は炎の中へ身を翻し、森の奥――沼へと戻っていった。
沈黙の中、村に残された者たちが声を上げた。
「誰だ……誰が、あの禁忌の沼に近づいたんだ!」
木こりは、逃げなかった。
おのれの罪を胸に、前に出て名乗り出た。
「……俺だ。俺が、あの沼で……掟を破った」
村長が近づいてきた。
「お前……なんてことをしてくれた……。だが、話さねばなるまい。あの沼の本当のことをな」
村長は、口を開いた。
ーーーーー
「百年ほど前、この村は今よりもっと東にあった。あの沼のすぐそばだ」
村長の語りは、静かに始まった。
「沼の畔には、立派な社があってな。そこに祀られていたのが、“願いを叶える女神”だった」
人々はその女神を崇め、社に祈りを捧げていた。豊作、安産、縁結び……祈願は次第に個人的な欲へと変わっていった。
「いつしか、願いは“奪うこと”ばかりになっていた。“他人の金を手に入れたい”“あいつより幸せになりたい”……そんな欲望ばかりが祈られたのだ」
ある日、女神は“試し”を行った。
社の傍らの沼から、金の斧と銀の斧を差し出し、人間の心を問うた。
しかし、人々はみな嘘をついた。
「“それが私の斧です”と、皆が金の斧を指さしたのだ。誠実を試した女神は、失望し、自ら沼に姿を消した」
だが、それで終わらなかった。
ある晩、村の男たちが若い女性を殺した。
「何があったのかは、今となってはわからん。ただ、社の前に祀られていた女神像が返り血に染まり、女性の亡骸は沼へ投げ込まれていたという」
女神の失望と怒り、そして女性の無念が、沼の底で混ざり合った。
やがて、化け物が生まれた。
「それが……あの女神の成れの果てだったのだ」
村人たちは社を壊し、村を移した。以来、誰一人として、沼に近づかなくなった。
「それを、目覚めさせてしまったのがお前だ」
木こりは、黙って話を聞いていた。
そのすべてを、自分は知らなかった。知ろうともしていなかった。
「……でも、あのときの“女神”は、美しかった。静かに微笑んで、俺に問いかけてきたんだ」
木こりは、沼の方を見やった。
あのとき、自分が嘘をついていたら、どうなっていただろう。
あの女神が、本当に欲しかったのは――。
ーーーーー
木こりは、斧とライフルを手に、再び沼へと向かった。
朝焼けが森の隙間から差し込み、霧の中に女神の姿が浮かび上がった。
相変わらず、背には黒ずんだ斧が突き刺さっている。
女神は、彼を見つめた。
「なぜ……誰も、この痛みを取ってくれないの……?」
木こりは、女神に近づき、そっと手を伸ばした。
「ごめん……あの時、俺は……謝るのが怖くて……」
その手は、斧に触れた。
けれど、それは――びくともしなかった。
「……抜けない……?」
「当たり前よ。その斧は、あなただけの罪じゃない。あの村の、あの土地の、人間たちが積み重ねた悪意の塊。だから、人間には抜けないの」
女神の声は、悲しみに沈んでいた。
「でも……俺には、それでも……この痛みを、知ることしかできない」
木こりは、もう一度斧に手をかけた。
抜けなくてもいい。ただ、その痛みを忘れないように。
女神は、黙ってそれを見つめ――やがて、自ら斧を引き抜いた。
そして、それを木こりに差し出した。
「ならば、お前に託そう。この斧は、お前たちが背負うべきものだ」
斧を受け取った瞬間、女神の姿がふわりと霧に溶けていった。
静かに、優しく、まるで最初に現れた時のように。
ーーーーー
木こりは、その後、沼のそばに社を建てた。
中には、自ら削った女神の像を祀った。
かつて出会った、あの美しい姿を形にしたものだ。
それは、祈りの対象ではない。
罪を忘れぬための、記憶の象徴。
木こりは、日々その社を訪れ、掃き清め、わずかな供え物を捧げた。
森の木を少しずつ間引き、陽を通す。
木を切ることは、ただ金を稼ぐためではない。森を育て、守るためだ。
それを、木こりはやっと思い出した。
やがて彼は、愛する者と出会い、家庭を持ち、子をもうけた。
だが、あの社に通うことはやめなかった。
それは、贖罪のためだけではない。
語り継ぐためだ。罪の記憶を、風化させないために。
ある日、子が泣き出した。
妻が微笑みながら言った。
「そろそろミルクの時間かしらね」
木こりも、微笑み返そうとした。
だが、そのとき。
「……イ……タ……イ……」
――確かに、そう聞こえた。
子の口が、そう動いた気がした。
まさか……いや、気のせいだ。
そう自分に言い聞かせ、木こりは顔を上げる。
だが、そこにいたのは――。
ほんの一瞬、女神のような笑みを浮かべる、我が子の顔だった。