【報復の晩餐】(アリア視点)
口にステーキ肉を含んだ瞬間、過去の出来事が昨日のことのように蘇る。それは、あまりにも忌まわしい【報復の晩餐】に纏わるトラウマだった。
世界樹を中心に囲んだ霧の森。
それが、あたし……アリアが生まれ育った場所だった。
夏は生命力に満ちた緑が生い茂り、秋には木々の紅葉が美しく、冬の厳しさに耐える樹木の力強さを肌で感じ、春には芽吹く命の尊さに頬を緩ませる。
自然の厳しさに飢える事もあったけど、集落のみんなで助け合えば、どんな困難だって乗り越えられた。
世間を知らない幼いあたしにとって、森はどこまでも美しかった。
あたしが現実を知ったのは、成人の儀式が迫った日のことだった。
魔大猪に集落の端に住んでいた親子の家が襲われた。
もちろん、その知らせを聞いたあたしは怒り狂った。
あたしたちエルフの家は、世界樹の根から作られている。毎日、祈りと水やりを通して、明日も住まわせてもらえるようにお願いする。
何よりも大事な、大事な場所を、穢れた魔物が踏み躙った。
大切な家族を殺した。
許せるはずがなかった。
危ないと静止する大人たちを無視して、あたしは一人で森に飛び込んだ。森の中は、あたしの遊び場。どこに何があって、どこに行けばいいのか、森の子であるエルフなら耳で分かる。生まれ持った祝福だ。
魔物は愚かだった。
血の痕跡も、足跡も、まるで隠そうとしていなかった。
幼い頃から何万回と練習してきた弓を構える。
森の木は、魔物を殺せと囁いていた。
魔大猪が弓弦の弾く音に気づくよりも早く、矢が標的の頭蓋を貫く。
家族の仇を取った高揚感のままに、あたしは獲物に近づいた。
森が囁いていた。
『糧とせよ、血肉を喰らえ』と。
木の葉の擦れる音さえも、その時のあたしにとって背中を押す偉大なる意志の現れだった。踏み止まる事を、考えすらしなかった。
大人たちが駆けつけた頃には、あたしは魔大猪の血肉を貪っていた。
酷い味だった。顎の疲労感は増すばかりで、肉と血で膨らんだ胃は酷く苦しかった。それなのに、森の囁きを耳が捉えると、恍惚とした高揚感に急かされて臓物を口に運んでしまう。
その時、魔大猪の胃が傷口から溢れ出した。
不自然にぼこぼことした形が、地面の鋭利な岩に触れると弾けるように破れた。
魔大猪に襲われた親子だった。
原型も留めないほどに、無惨な姿に変わり果てていた。
同胞を食らった魔物の血肉を、あたしは食べていた。
込み上げる吐き気を、森の囁きが押し殺す。
『喰らえ、喰らえ、我らの子よ。その血肉を取り込んで、強い命となれ。私を守る無慈悲な狩人となれ。心を棄てよ、喰らう獣となれ』
自然の恵みをありがたがる存在を、森は愛さない。
永い時を生きるあたしたちエルフを森が受け入れたのは、自然の秩序を守る番人が欲しかったから。自然を愛する心なんて、初めから求められていなかった。
森の祝福なんてなかった、きっとあたしが生まれるよりも前から。
それを、住む場所惜しさに目を逸らして、みんなで誤魔化し続けた。
森の意思に触れて恐れ慄いたあたしを、森と家族は許さなかった。
居場所を失ったあたしは、森と家族を捨てて逃げ出した。
各地をアテもなく彷徨って、唯一の取り柄の弓で冒険者になって……霧の森から来たと知られたら、掌返して馬鹿にされて……
そして、あたしが馬鹿みたいな過去に拘ったせいで、また魔大猪の肉を食べる羽目になった。
だって、あたしよりも短い年月しか生きていない人間が、知った風な口を利いて魔物を食べられるように料理できるって言ったのが許せなかった。そんなわけがないと否定しないと、あたしの心が弱かったから居場所を失ったという理由を奪われてしまう。
認めたくなかった。不味くあって欲しかった。
でも、あの人間が作った料理は、確かに美味しかった。
魔大猪の血肉の味と森の声を忘れてしまうほどに、本当に美味しい。
森を捨ててからも聞こえていた、あの声が。
魔物の死体を見るたびに込み上げていた吐き気と、異様に溢れる唾液が。
まるで森の求める心なき狩人に近づくようで恐ろしかった、衝動に襲われて跳ねる心臓が。
獲物を吟味してしまう、獣の双眸が。
あれは、幻聴や思い込みじゃない。
森がこうあれと、契約を交わしたその時から注ぎ込んだ呪い。
でも、ステーキを食べた瞬間に全てが変わった。
香ばしい肉の味が口に広がると、それまで耳に囁いていた森の声がザッと掻き消された。
あまりの静かさに、耳を澄ます。
もう声は聞こえない。
吐き気もしない、衝動を感じない。
今は、何もない。何も。
ただ静かに、目の前の肉を穏やかに食べられる。
久しぶりの感覚だった。
長らく忘れていた、真っ当な営みだった。
求めていたものが、ようやく手に入った。
「アリアさん」
不安そうな人間の声に、ハッと意識が現実に戻る。
頬が濡れている事に気づいて、慌てて触れてみた。
ポロポロと落ちる涙が悔しくて、手の甲でごしごし擦る。
「これ、良かったら使ってください」
向かいに座る人間が差し出したのは、ボロボロのハンカチ。
ユアサ カナデ。
目の下の隈は酷いし、肌なんてガサガサ。
頬は痩せこけていて、目はゴブリンみたいにギラギラしている。服なんて血や泥の汚れで元の布地が何色かも分からないし、腰から下げた古めかしい片手剣は鞘がないし、おまけに刃こぼれが凄い。
今すぐ野盗になりますと言われても納得できる格好だ。
「……ありがと。借りるわ、洗って返す」
「あ、いえ、お構いなく……汚れててすみません」
冷静に振る舞ってる癖に、あたしがハンカチを受け取ると、ほっと安心した表情をした。きっと断られたらどうしようとか、あたしがどう思うかとかを、あたしが泣き出してからずっと考えていたんだろう。
ぎこちなく笑う顔が、すごく下手だった。
あたしを気遣う余裕なんかない癖に、この人間は霧の森の伝承を知っているのに、態度を変えないなんて馬鹿なんじゃないのコイツ。ハイエルフのクソ野郎なんて『狂犬にも涙腺があったんだな』なんて無礼な事を言ってるのに、なんで『茶化すのはやめてください』なんて言えるのよ。
ひとりぼっちでダンジョンに捨てられたあんたにとって、ハイエルフのクソ野郎が初めに救いの手を差し伸ばしたのよ。そいつに嫌われたくないと思うのが普通じゃない。なのに、なんで喧嘩をふっかけたあたしにこんな態度を取るのよ。
……答えなんて、分かりきってた。
ユアサ・カナデという人間は、どこまでも優しい性格の持ち主だ。
あたしが森に捨ててきた、スライムみたいな柔い心を、ずっと捨てられずに過ごしてきた子どもなんだ。
その事に気がついて、すとんと胸につっかえていたものが落ちた。
「ハア、もういいわ。認めるわよ、ユアサ。あんたの発想、たしかにハイエルフのクソ野郎が気に入るのも納得だわ」
魔大猪のステーキをもう一口。
これほど美味しいなら、いくらでも食べられそう。
思わず溢した独り言をユアサはニコニコしながら聞いていた。
もしかしたら、森の祝福と報復の晩餐を、この子なら分かってくれるかもしれない。あたしでさえ、向き合い方の分からない、この呪いを。この子といれば、いつか答えが見つかる気がする。そんな予感がする。
思わず神とやらに感謝してしまいたくなるぐらい、ユアサとの出会いが尊いと思えた。
「歓迎するわ、ユアサ。ちょうど女がもう一人欲しいと思ってたところなの。これからよろしくね」
あたしが微笑みかければ、ユアサは嬉しそうに頷いた。
「はい、よろしくお願いします!」
……この素直さ、あたしたちのパーティーに不足してる所ね。無礼なハイエルフのクソ野郎と無愛想な神官にユアサの爪の垢を煎じて飲ませようかしら。