一つ目の試練〜大魔猪〜
「初めまして。叡智神の神官をしております、ブレイズと申します。以後、お見知り置きを」
緑髪の神官は物静かな印象を与える青年だった。色白の頬に散った雀斑、モスグリーンの瞳は油断なく私を観察していた。
丁寧な口振りと、神官式の片手を胸に当てて会釈する挨拶に私も慌てて頭を下げる。
「……あたしはアリア。言っとくけど、人間と仲良くするつもりはないから」
視線をこちらに向けず、腕を組んで眉間に皺を寄せるエルフの女性。尖った耳と色白の肌、妖精のように整った顔立ちと細い手足。銀髪を彩るように、ミスリルの髪細工を装着している。魔道具の一種だ。
閉鎖的と知られるエルフ種らしい、人間への嫌悪を隠さない振る舞いだ。
無理に仲良くしようとしても、反発や悪感情を招くだけだというのはもう学んだ。ここは下手に刺激せず、ダンジョンからの脱出を最優先で考えよう。パーティーに正式に加入するかどうかは、脱出の後で決めればいい。
「みなさん、初めまして。湯浅奏と申します」
自己紹介を続けようとしたところを、アリアが遮る。
「名前なんかどうでもいい。それよりも、あんたに何ができるの?」
勇者一行に居た時にも、よくぶつけられた質問だ。
『役立たずのお前に、一体なにができるんだよ?』
その時の私は、何もできないと答えた。
一点特化型の勇者たちに比べたら、凡人の私にできる事なんてありふれていたから。
「……魔物を調理して、安全に、美味しく仕上げられます。それが、今の私にできること。他の誰にもできないことです。きっと、あなたにも」
アリアの表情が、嫌悪に歪む。
この世界で生まれ育った人間よりも、エルフは魔物に対する嫌悪感が強い。もはや忌避ともいえる。魔物を食する事は、魔物の穢れを内に取り入れる事。犯してはならない禁忌そのもの。
蒼い目に宿るのは、理解不能なものを見たという本能的な拒否感。
「は? あんた、魔物を食べるって、正気なわけ? そんなヤツ、荷物以下よ」
「なら、どうしますか?」
私は黙って見つめた。
魔物を料理した事は初めてだが、魔物を料理しようと思ったのは初めてじゃない。これまで、いくつもの魔物を食べられるか考えた事はあった。
そして、私にとって、魔物の調理以外に他者に秀でたところはないと確信を持って言えた。勇者一行に見限られた私が、唯一無二の活路として見出したこれだけは、どんなに異端だと笑われようと譲る気はなかった。
アリアと私の間に緊張が走る。
他から見れば、あまりに些細な、しかし私たちにとって見れば決して妥協できない問題。
意外なところから、助け舟が出された。
「────なるほど、その主張は確かに理にかなっていますね」
発言者はブレイズ。
「魔物の肉体は、穢れさえ除けば、保存性が高く、魔力を豊富に含み、栄養価に優れている。叡智神の残した逸話によれば、免疫に劣った幼い子どもさえ魔物の肉を食らうことで魔物を狩る強靭な体を手に入れた。叡智神の教えにあります────『無知を克服せよ、未知への恐れを捨て、失敗を恐れず実験を積み重ねよ、さすれば真実へ到達する道が出来上がる』と」
面白がるわけでもなく、双方の主張を理解した上で私の主張を支持したのが、知り合ったばかりのブレイズだった。
「ちょっと、ブレイズ!?」
困惑した表情で、アリアがブレイズを振り返る。
恐らく、これまでさほどアリアの意見に反発しなかったであろうブレイズが、いきなりアリアと真っ向の意見を支持したのだ。
なにせ、私も驚いている。
神官は魔物を滅するべきという強い信念を抱いて、信仰を始めるものが多いからだ。
「なるほど、たしかにブレイズの発言にも一理ある。魔物の穢れと、魔物の持つ魔力……どちらが冒険者にとって有益かは、個々人の判断に委ねられるだろうが、力に飢えた人間の発想は独創的で興味深い」
くつくつと、喉の奥でエルドラが笑う。
パーティー内でいがみあうこの状況が、面白くて仕方ないと楽しんでいる。
「良いだろう。貴様の料理、とくと見せてもらおうか。アリア────その目で見ているが良い。認めるか否かは貴様が決めろ。問題を持ち出したのは貴様だ、ならば決着をつけるのも貴様以外に適任者はあるまい?」
挑発的な金の瞳が、アリアだけでなく私にも向けられる。またとないチャンス、これを逃すわけにはいかない。
「納得できないのは分かります。飢える前の私がそうでした。ですから、証明します。あなたが望むまで、御心のままに」
アリアの蒼い目が私を真っ直ぐに見据える。
射抜くような、鋭い目線。決して欺瞞や誤魔化しを許さない、強い眼差し。
「そう、なら私が仕留めた魔大猪がすぐそこにあるわ。それを調理して見せて。最も、獣肉よりも苦味の強い魔物の肉を調理できるとは思わないけど。あのゴブリンのスープとやらも、味覚を狂わせる魔法薬でも使ったんでしょ」
嘲るようにアリアが笑う。
本来なら怒るべき場面なのだろう。死中に見出した唯一の活路を侮辱する言葉と、嘲りの表情。
それに対して、私が抱いた感情はごくシンプルなものだった。
────このひとは、私に何かを求めている。
それは、空腹に限りなく似た何か。決して自分では満たせないもの。
どこまでもどうしようもないと本人が承知の上で、満たされない思いの何かを、出会ったばかりの私に求めている。
それが何かは、まだ分からない。
それでも、出会ったばかりのアリアというひとを、私は不思議と嫌いにはなれなかった。
◇◆◇◆
すぐに魔大猪は見つかった。
危険度は中程度、駆け出しの冒険者はまず逃亡が推奨される相手だ。獰猛で好戦的かつ縄張り意識と一度狙った獲物への執着も強い魔物。ビッグボア。
人間の三倍はある、四メートル級の怪物だ。
眉間に突き刺さった矢。
脳幹を貫き、その奥に秘匿された魔石を砕いた一撃は、悠々と戦果を誇るように血に濡れている。
「この矢は、アリアさんが?」
私の問いかけにブレイズが頷く。
魔物を仕留めた矢は、見たものにため息を吐かせるほどに、静かな一撃だった。余計な力を入れた訳でも、ましてや相手を侮ったわけでもない。殺す為に、最低限の力を使った過不足のない一撃。
まさに、冒険者が目指すべき、最高峰。
調理する為とはいえ、矢を引き抜くのに少しの勇気が必要だった。まるで、英雄譚を汚したような気分になる。
そういえば、的を射た矢は縁起の良い破邪矢として重宝されるんだったか。聖なる気を持つとして、オカルトに明るいクラスメイトが弓道部に好成績を残した矢を強請っていたのを思い出す。
「アリアさんには弓の才能があるんですね。この矢は一撃で魔物を仕留めている……決して、簡単に出来ることじゃないと思います」
アリアが僅かに息を呑んだ。
視線を向けるとすぐに逸らされたが、僅かに驚きの表情を浮かべていた。
「魔大猪なんて、霧の森でも偶に狩ってたわ。食用にもならない、酷い味だったけど────」
アリアが口を噤む。
思いがけず喋ってしまったとでも匂わせるような、青ざめた顔ですぐに視線を逸らせた。
東の森の奥、霧の森にて。
エルフに伝わる、忌まわしき古の慣習。
それに纏わる、恐ろしい伝承が、脳裏を過ぎる。
好奇心が擽られたが、すぐに魔物へと意識を戻す。
魔物の肉体は腐敗が遅いと言われるが、それはあくまで魔石ありきでの話。アリアの矢で魔石を砕かれているなら、条件は変わってくる。
既に腐敗が始まっていた。
予想よりも早く、ゴブリンよりも進行が早い。
これでは、食材として調理するどころではないだろう。────私だけなら。
「え? なんで、僕の方を見ているんですか?」
幸いにも、ここには穢れを祓う神官がいる。
エルドラとの出会いも、魔大猪の調理という試練も、なんだか必然に導かれたような気がするんだ。
「ブレイズさん、一つ頼みがあるんです」
雀斑の頬に、一筋の汗が伝い落ちていく。
それは緊張か、あるいは過ぎた好奇心への罪悪感か。いずれにせよ、彼の瞳は揺れていた。
「ま、待ってください。まさか、その腐敗した肉の浄化を、神の下僕であるこの私に頼む気ではありませんか。それは穢れに価値を見出す行為であり、魔物を調理する以上に冒涜的な振る舞いかつ、ひいては穢れへの肯定に他ならない訳で、いやしかし、未知への恐怖から真実を知る機会を遠ざけるのも叡智神を信奉する神官としてはあるまじき行為なわけで────!」
ブレイズが言葉を並べる。
それでも、視線がちらちらと魔大猪へと向けられている。あの眼差しは、腐敗したところの深部を診断するものであり、叡智神を信奉する神官は己の力量を正確に客観視している。他のどの神よりも。
「────腐敗した肉の浄化を、頼めませんか」
古今東西、どこを探しても、神官にこんな頼みをしたのは恐らく私だけだろう。そんな確信を胸に抱きながら、私は出会ったばかりのブレイズに頭を下げた。
「騒いでいるのも構わんが、魔物除けの結界に時間制限があるのを忘れるなよ。そこな神官の結界は、三十分持てば良い方だろうな。アリアの試練程度で折れてくれるなよ、ユアサ。貴様にはかなり期待しているんだ」
エルドラの言葉が私を急かす。
そもそも、ダンジョン内で調理をする時間はさほどない。しかし、エルフの風習を思い出した私にとって、三十分あれば『あの料理』を作るのに十分だった。