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チュウコク

 翌朝、浩市は店に入っていった。

 裏口から店内に入ると、さっそく準備を始める。普通の料理屋なら、朝の仕込みなどをするのだろう。

 だが、浩市の準備は違っていた。店の奥に設置されている厨房にて、壁に付けられている鉄棒にぶら下がる。懸垂を始めたのだ。

 店を開けるまでの三十分、浩市はここで筋力トレーニングをする。それが、彼のルーティンであった。自身の肉体をいじめ抜くことにより、直面している問題を忘れることも出来る。




 父の健人は、口より先に手が出るタイプだった。若い頃は、あちこちで喧嘩三昧の日々を過ごした……などと、ことあるごとに吹聴していた。

 その腕力は、当時はもっぱら家族にのみ向けられていた。母の千夏とふたりの息子は、何かある度に殴られていた。

 その体験により、浩市はしゃにむに強さを求めるようになっていった。いつか必ず、親父をぶっ倒す……そのために、幼い頃から体を鍛え始める。

 鍛錬の成果は、たちまち肉体に表れる。浩市は、同じ年頃の子供たちの中では誰にも負けないくらい強くなっていたのだ。

 父は、スポーツなどは一切していなかったらしい。身長は百七十センチに満たなかったが、がっちりした体格で生まれつき腕力が強かった。喧嘩も、かなり強かったらしい。俺は喧嘩では負けたことがない、若い頃はヤクザの事務所に乗り込み十人をぶっ飛ばした……などと、店の常連客に武勇伝を語っていたくらいだ。浩市は、父の肉体の部分を強く受け継いだのかもしれない。


 目標を達成したのは、中学三年生の時だった。

 ある日、学校から帰ると父が母を殴っていた。止めに入ると、たちまち口論になり、やがて殴り合いの喧嘩になる。浩市は父のパンチを顔面に受けながらも、怯まずタックルで組みつき床に押し倒した。父は、あっけなく倒れてしまう。

 浩市は、父の上に乗った。馬乗りの体勢から、父の顔面に拳を振り下ろしていく。

 父は、力任せに浩市をはねのけようとするが、成長し大きくなった浩市の体は動かない。その間にも、容赦なく父の顔を殴りつける。

 父の顔は、血で染まっていった。浩市はなおも殴りつけようとするが、不意に止めに入った者がいる。


「もうやめて! このままだと死んじゃう!」


 叫びながら、浩市の腕を掴んだ者は母だった。その顔は、涙で濡れている。

 浩市は、ゆっくりと視線を落とす。そこには、父の顔があった。鼻と切れた唇から流れた血で赤く染まり、恐怖に歪んだ表情を浮かべている。もうやめてくれ、と怯えた目で懇願しているように見えた。

 あの絶対的強者だったはずの父が、自分を恐れているのだ──


 浩市は、すっと立ち上がり部屋に帰っていく。その日は、父と顔を合わせなかった。

 以来、父は浩市を恐れるようになってしまった。一応は、今までと同じような口調で接してはいたが、怒らせないように気を遣っている……そんな素振りが感じられる。

 一度の敗北をきっかけに、両者の関係は逆転してしまったのだ。それもまた、悲しい話ではあった。

 その後、浩市が父に暴力を振るうことはなかった。もともと真面目な性格であったし、街で見かけるような不良少年たちのことも嫌いだった。ましてや、暴力で他人を支配する気もなかった。


 今になって、思うことがある。父は常日頃より、俺は喧嘩に負けたことはない……と豪語していた。それは、嘘ではないのかもしれない。ただし、真実だとも言い切れない。

 父はしょせん、自分より弱いとわかっている相手としか喧嘩をしてこなかったのではないか。だとしたら、あまりにも情けない男だった。

 今となっては、真相は不明である。もっとも、知りたくもない真相ではあった。




 弟の誠司は、浩市とは違う形で成長した。

 筋肉質の父や浩市とは違い、誠司は華奢な体つきであった。スポーツも得意ではなかったし、腕力も強い方ではなかった。

 しかし、兄よりも喧嘩っ早い性格であった。浩市が父の腕力を受け継いだのだとすれば、誠司は父の凶暴さを受け継いだのかもしれない。

 小学生の頃より、誠司はやんちゃな少年としてクラスでも有名な存在だった。中学生になるとタバコを吸うようになり、父にも反抗するようになっていった。

 父と浩市は、そんな弟を何度も叱りつけた。しかし、誠司は聞く耳を持たなかった。しまいに父と弟が殴り合い、母と兄が止めに入る……そんなことが、何度も起きるようになった。

 そんな矢先、母が病で亡くなってしまう──

 

 生前の母は、浩市に言っていた。お前は長男だ。だから、しっかりしなさい……と、事あるごとに言っていた。

 幼い頃、母は弟の方を可愛がっていた気がする。バカな子ほど可愛い、という言葉がある。それが全ての親に当てはまるわけではないだろうが、少なくとも母には当てはまっていたのは間違いない。

 生前、母は浩市に対し、こうも言っていた。


「お願いだから、誠司を見捨てないであげて。お前は長男だから、あの子を助けてあげて……」


 その言葉が、誠司を見捨てることが出来ない一因だった。

 だが、今の状況は誠司を助けていることになるのだろうか。




 昼になり、ふらっと現れたのは田山だ。いつもと同じく、メガネにマスクそしてジャージという格好である。

 カウンター席に座ると同時に、声をひそめて聞いてきた。


「旅行客は来たか?」


「いいえ、来てません」


 浩市は答える。ここまでは、いつもと同じだ。しかし、ここから先はいつもと違っていた。


「なあ、死体はどうなった?」


 声をひそめ聞いてきた田山に、浩市は思わず顔をしかめる。


「は、はい?」


 聞き返した浩市を、田山はじろりと睨む。メガネ越しではあるが、射るような強い視線を感じた。


「はい、じゃねえよ。親父の死体は始末したのか?』


「まだです」


 答えた途端、ハァという溜息の音が聞こえた。言うまでもなく、田山のものである。


「お前、何を考えてるんだ? 弟の奴、昨日ふらふら出歩いてたぞ。しかも呑気に、タバコすぱすぱ吸いながら歩いてたんだ。だからよ、てっきり死体を始末したのかと思ってたんだよ。あいつ、不用心すぎるだろ」


「すみません。言っておきます」


 言いながら、浩市は頭を下げる。

 昔からそうだった。誠司が外で何かしでかして、母が頭を下げる。母がいなくなると、今度は浩市が頭を下げることになった。

 弟が家にいる限り、これはずっと続くのだろうか。


 そんなことを思う浩市に向かい、田山は喋り続ける。


「お前も、つくづくお人好しな男だな。このままだと、お前も死体遺棄でパクられるんだぞ。わかってんのか?」


「わかりました。近々、必ず弟に始末させますから」


「頼んだぜ。俺もな、もう少しここにいたいんだよ。ここは、隠れるにはちょうどいい場所だからな」


「はい」


「それと……アレはどうなった?」


「アレ、ですか?」


 怪訝な表情を浮かべる浩市を見て、田山は表情が険しくなった。


「アレだよアレ」


 そう言うと、田山は湖の方をちらりと見る。

 すぐに察した。あの怪物のことだ。浩市も湖を見てみたが、今のところ水面に変化はない。底でおとなしくしているのだろうか。


「あいつは、まだ湖にいるようです」


「そうか。あいつは、昔からいたのか? なんか、伝説みたいなの残ってたりするのか?」


「そういえば、むかしむかし湖に巨大な竜が住んでいました……みたいな昔話があったのは、聞いたことがあります。でも、あれは違う気がします」


「違うって、どういう意味だ?」


「俺は、高校出るまでここに住んでいたんです。けど、あんな怪物の話なんか聞いたことなかったですよ。たぶん、あいつはここ数年の間に住み着いたんだと思います」


 そう、浩市は十八歳まで北尾村に住んでいた。しかし、あんなものの噂など聞いていない。


「なんだそりゃあ。じゃあ、あいつは今になっていきなり出てきたってえのか?」


「ええ。冬眠から目覚めたか、ひょっとしたら卵から孵ったのかも知れないですね」


「タイミングの悪い奴だな。まあ、仕方ねえ。あいつが人前に現れないよう、餌付けでもしておとなしくさせといてくれ」


 その言葉に、浩市は苦笑しつつ頷いた。本当にタイミングの悪い奴である。こんな状況でなければ、もっと仲良くなれたかもしれない。

 ひょっとしたら、自分たち家族のペットのような存在になっていたかもしれない……。


「わかりました」


 答えた浩市の前に、紙切れがヌッと突き出された。


「あとな、これは俺の連絡先だ。電話番号とメールアドレスが書いてある。もし、おかしな旅行者が現れたら、すぐに連絡してくれ。あと、俺のことは誰にも言うなよ。お互い、持ちつ持たれつだ」


 浩市は、仕方なく紙切れを受け取った。この得体の知れない男と、どんどん関係が深まっていっている。

 果たして、それは吉なのか凶なのか……。





 


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