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カンケイ

 浩市の目の前で、怪物は湖の中へと消えていった。どうやら、こちらの意思を理解してくれたらしい。

 ホッとしたが、その時になって急に寒さを感じた。湖に落ちてから、どのくらいの時間が経ったのかはわからないが、ずっと濡れた服を着たままだった。頭もびしょびしょである。

 一刻も早く帰らなくては、風邪を引いてしまう。浩市は、急いで家に帰った。




「ちょっと、どうしたの!? びしょ濡れじゃない!?」


 帰ってきた浩市を見るなり、理恵子は目を丸くして尋ねる。


「久しぶりにボート漕いでみたら、湖に落ちちまったんだよ。バカなことをした」


 言った途端、理恵子は溜息を吐いた。


「もう、何やってんの……子供じゃあるまいし。お風呂わいてるから、早く脱いじゃいなさい」


「えっ? あ、ああ」 


 答える浩市は、彼女の態度に戸惑っていた。

 しかし、理恵子の方はお構いなしだ。近づいて来るや、いきなり浩市の頭をペチンと叩く。


「何ボーッとしてんの。早く脱いじゃって」


「えっ、いや、あの……誠司はどうしてる?」


 うろたえつつ聞いた。こんなところを弟に見られたら、確実にまずいことになる。


「出かけたよ。行き先は聞いてない」


 理恵子の返事は素っ気ない。聞いた浩市の方は、思わず顔をしかめていた。いったい、どこに行ったのだろう。


「出かけた? どこに?」


「知らないよ。そのまま、帰って来なきゃいいのに……それより、さっさと脱いじゃって」


 母親が子供に対するような態度である。まあ、実際に彼女は義理の母なのだが……その有無を言わさぬ口調に、浩市は逆らえず言われた通りに動いていた。

 その時、浩市の背中に何かが触れる。


「どうして、こんなことになっちゃったんだろうね」


 呟く理恵子。その手のひらは、浩市の背中に触れていた。彼女の言葉が何を指しているのかは、確かめるまでもなかった。

 浩市の裡に、ある感情が湧き上がる。抑えることの出来ない感情──


「仕方ないだろ」


 答えた後、浩市は振り向いた。

 理恵子を抱き締め、唇を合わせようとする。だが、彼女は顔を背けた。


「ちょっと、湖に落ちたんでしょ? だったら、洗ってからにしようよ」


「待てねえよ」


「そんなにがっつかないの。中学生じゃないんだから」


 言いながら、彼女は微笑む。


 ・・・


 浩市がここに戻ってきたのは、二年前のことだった。


 高校卒業と同時に、北尾村を離れ東京で就職した浩市。都会の暮らしはキツかったが、それでも実家にいるよりはマシだった。ようやく自由になれたのだ。

 二度と戻るまい、そう誓ったはずだった。しかし、父の健人が脳梗塞で倒れたとの知らせを聞く。幸いにも一命は取り留めたが、左半身に麻痺が残っていた。日常生活もままならない状態である。

 次男の誠司は、まだ刑務所にいた。こうなると、残るは長男の浩市しかいない。

 浩市は悩んだ。はっきり言って、戻りたくはない。しかし、家族を見捨てることも出来なかった。浩市は仕事を辞め、実家へと戻った。

 待っていたのは、杖をついた父と、後妻の理恵子だった。父が再婚したことは知っていたが、直接会うのはその時が初めてである。




 理恵子と初めて会った時は、幸薄そうな女だなな……くらいにしか思っていなかった。風貌は地味で、化粧っ気もない。特に美人というわけではないし、パッと目を惹く特徴があるわけでもない。父から奴隷のごとく扱われているためか、常に疲れた表情を浮かべている。

 ただ、寂しそうな瞳は印象に残っていた。全てを諦めきってしまったかのような表情で遠くを眺めていた姿も、時おり見かけていた。

 もっとも、それ以上の気持ちはなかった。歳は十も離れているし、何より彼女は父の後妻なのだ。女性として見たことなどない、はずだった。

 それが、なぜこんなことになってしまったのだろう。


 きっかけは、度重なる夫婦喧嘩だった。いや、一方的な虐待といった方が正確だろう。

 父は事あるごとに、理恵子を口汚く罵っていた。時には、拳を振り上げ叩くことさえあった。しかし、理恵子は言い返すことはしなかった。ただ、黙って耐えていた。叩かれても、抵抗ひとつしなかった。

 見かねた浩市は、手が出るような喧嘩になる度に彼女を庇うようになっていたのだ。


 その日、父は特に機嫌が悪かった。何が気に入らなかったのか、理恵子に罵詈雑言を浴びせかける。しまいには、杖を振り回し始めたのだ。こんなものが当たれば、確実に怪我をする。

 喚き散らす健人の前に、浩市が立った。ふたりを引き離すと、彼女の手を引いて外に出た。

 他意はなく、あくまでも仲裁のためだった。とりあえずは両者の距離を離し、父の頭を冷やさせる。その上で、話し合わせる……そのために、浩市は彼女を連れ出したのだ。

 外に出た理恵子は、しばらくは無言で歩いていた。浩市も、その隣を歩く。

 不意に、彼女の目から涙が溢れる。


「なんで……なんで、お父さんて、ああなのかな。昔は、あんなじゃなかったのに……」


 絞り出すような声で訴えながら、その場に崩れ落ちる。理恵子のこんな姿を見たのは、初めてだった。

 憐れな話だ。この女は、父・健人の外面の良さや見せかけだけの頼もしさに、すっかり騙されていたようである。


「親父は、昔からあんなです。あれが本性なんですよ。たぶん、一生直らないでしょうね」


 浩市は、あえて冷たい口調で言った。

 実際の話、父は理恵子がどう頑張っても変わらないだろう。病気ですら、彼を変えることは出来なかった。

 いや、病気により父のひどい部分がさらに強く表れるようになってしまった。あの男を変えるのは、洗脳でもしない限り不可能なのではないか。

 父は身長はさほど高くないが腕力が強く、喧嘩っ早い性格だった。店の常連客の前では、聞かれもしないのに自身の武勇伝を語っていた姿を今も覚えている。

 他人に誇れるもののない父にとって、自分の店を持っていることと、年の割に腕力があり喧嘩が強いこと、このふたつだけが心の拠り所であった。

 しかし、病気の後遺症により、そのひとつが奪われてしまった。それゆえ、以前より卑屈な性格になっている。

 今の父が強く出られるのは、妻の理恵子だけなのだ。


 理恵子は、そっとこちらを見上げる。彼女の目は真っ赤だった。顔は、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっている。あまりにも惨めで、悲しい姿だった。

 日頃より、父は理恵子をバカだのグズだのと言っていた。しかし、浩市の彼女に対する評価は違うものだ。手先は器用だし、話してみれば頭の回転も早い。いろんなことに気がつくし、かなり有能な女性だと思っている。

 そんな女が、父のような男に一生懸命に尽くしているのは見ていて不思議だった。理不尽な要求にも、何とか応えようとしていた。

 にもかかわらず、父からの感謝の言葉はない。出来て当たり前、出来なければ罵詈雑言である。挙げ句に、殴る蹴るの暴行だ。その全てに、理恵子は黙って耐えてきた──


「つらかったら、別れてもいいんですよ。あとは、俺が何とかしますから。あなたは、何も悪くない。あんなクソ親父なんかほっといて、実家に帰ってください」


 見かねて、そんな言葉を口にしていた。すると、彼女はかぶりを振る。


「あたしには、実家なんて無いんだよ」


「はい? どういうことです?」


「だから、実家がないんだよ。両親はもう死んじゃったし、兄弟もいない。親戚からは、縁を切られてる。天涯孤独って感じかな」


 そう言って、理恵子は笑った。

 哀しい笑顔だった。目は虚ろで、嘆きを通り越して笑うしかない……そんな感情が、見ているこちらにも伝わってきた。


 同情だったのか。

 あるいは、浩市の方も何かしらのぬくもりを求めていたのかもしれない。

 いずれにせよ、その会話をきっかけに両者の関係は急速に深まっていく。男女の仲になるまでには、さして時間はかからなかった。




 そんな折、誠司が父を殺してしまった──


 本来なら、誠司を警察に連れて行き自首させるべきであっただろう。自首すれば罪は軽くなる。弟の話を鵜呑みにするなら、事故に近い状況であったそうなのだ。

 事実、浩市は誠司を自首させるつもりだった。しかし、弟はそれを拒絶したのだ。


「お願いだよ兄貴! 見逃してくれ!」


 土下座し、泣きながら請い願う弟。その姿を目の当たりにした浩市は、断ることが出来なかった。父の死体を店の大型冷凍庫に入れ、そのまま放置していた。

 その後の計画などない。死体を目に付かない場所に置いただけだ。ただただ、問題を先送りにしただけだった。




 なぜ、誠司を警察に突き出さなかったのだろう。

 理恵子と男女の仲になってから、浩市は密かに父の死を願っていた。何かの拍子に死んでくれないかな、と心の奥底で考えていた。それが、現実になってしまったのだ。

 もちろん、誠司に父を殺すよう(そそのか)したわけではない。そんな話をしたこともないし、実行に移すとも思えない。

 にもかかわらず、浩市は父の死に責任を感じている。罪悪感も抱いている。誠司を見放すことが出来ない理由の一因になっていた。


 

 






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