コウリュウ
面白かったな……。
それは、奴と接触した時のことを思い出していた。
体は、とても小さい。二本足で歩き、妙な音を出す。しかも、いろいろ妙なものを身にまとっている。葉っぱとも、皮とも違うものを皮膚の上に付けていた。
触ってみると、さらに妙な印象を受けた。魚とも亀とも蛙とも違う。
殺そうと思えば、一撃で殺せた。食べたら、魚より美味しいかもしれなかった。少なくとも、魚よりは大きいし食べがいがあるだろう。
それは当時、小腹が空いていた。食べようか、とも思った。しかし、なぜか食べる気にはならなかった。あの二本足となら、もっと他のことが出来る気がした。
それに、とても美味しいものをくれた。これまで、食べたことがないもの。あれは美味しかった。
今まで、それは単純な世界で生きてきた。捕らえる、食べる、寝る、それだけだ。しかし、魚は一度食べてしまえば、それで終わりだった。
あいつからは、それ以外のものを感じた。もっと別の何かを知っているような気がする。違う世界を教えてくれレるのではないか。
次は、もっとゆっくり奴を観察したい。そんなことを思っていた時、上から妙な音が聞こえてきた。見れば、何かが水面に浮かんでいる。
いや、浮いているのではない。水面を、ゆっくりと進んでいるのだ。魚や水鳥ではない。もっともっと大きなものだ。見たことのないものが、水面にいる。
それは興味を持った。湖底から、そっと上昇していく。
・・・
その日、浩市は久しぶりにボートを動かしてみた。
放置されていたボートに乗りこむと、オールを漕ぎ湖の上を進んでいく。水面は濁っており、緑色しか見えない。
以前にテレビで『古池の水を全て抜いてみた』という番組が放送していた。タイトル通り、古池の水を抜き底に何があるかを見る番組である。ある日、父の豊はその番組を観ながら、こんなことを言っていた。
「この番組、こっちにも来ねえかな」
さすがのテレビ局でも、光司湖の水を全て抜くのは無理だろう。だが、父の顔は真剣そのものだった。番組にて紹介されれば、確実に売上があがる……そんなことを本気で考えていたらしい。
横で聞いていた浩市は、バカなことを言っているな、としか思わなかった。番組で紹介されたなら、一時的に客は増えるかもしれない。ただ、それは一過性のものだ。今後も続いて来てくれるとは思えない。
そう、こんな場所で店を続ける理由などないのだ。
そんなことを考えながら、ボートを漕いでいた時だった。突然、水面に異変が生じる──
まず、水面がぐらりと揺れた。次いで、ぬっと出てきたものがある。
爬虫類を思わせる形状の頭部だ。水面から頭を出し、こちらをじっと見ている。
ついに、あの怪物が姿を現したのだ。
浩市は、怪物を凝視する。ボートで湖の中央に行けば、あいつが出てくるのではないかと思っていた。
しかし、実際に出てきたとなると、どうすればいいのかわからない。
怪物の方も、じっと浩市を見つめている。何を考えているのかはわからないが、ひとまず危害を加えられる心配はなさそうだ。
両者の間に、なんとも言えない不思議な空気が流れる。浩市は、どうすればいいのかわからなかった。一応、チョコレートバーをポケットに入れてはいる。だが、向こうがそれを望んでいるのだろうか。
不意に、怪物が動いた。反応する間もなく、いきなり接近してくる。
次の瞬間、ボートのへりに手をかけた。途端に、バリバリと砕ける音。怪物の腕力により、へりの部分が一瞬にして粉々になってしまったのだ。
直後、空いた部分から大量に水が入る。ボートは、湖の中に沈んでいく──
「うわあぁ!」
浩市は、思わず声をあげた。彼の体もまた、湖に沈んでいく。必死でもがいたが、上手く泳ぐことが出来ない。なにせ、今の浩市は服を着ている。泳ぐには邪魔なものだ。もとより、泳ぎが得意な方でもない。奮闘も虚しく、浩市はどんどん沈んでいく。
と、浩市の体に何かが巻き付いた。怪物の腕だ。
そのまま、恐ろしい速さで進んでいく。あまりの速さに、浩市は気を失いかけていた。
だが、その苦しみはすぐに終わった。あっという間に岸へと運ばれ、どんと立たされる。言うまでもなく、怪物の手で立たされたのだ。
もっとも、今の浩市ほ立てるような状態ではない。すぐに崩れ落ち、地面に座り込む。その状態で、怪物を見上げた。
怪物は突っ立ったまま、浩市を見下ろしている。何を考えているのかはわからない。しかし、敵意がないのは確かだ。
しかも、今は助けてくれた。
「あ、ありがとう」
浩市の口から、そんな言葉が出ていた。もとより、言葉など通じるとは思っていない。純粋に、命が助かった安堵の気持ちから出たものだった。
すると。怪物はじっと浩市を見下ろす。
少しの間を置き、その口が開いた。出てきたのは、想像もしていなかった音だった。
「ア、ア、ア、ア、ア……」
浩市は、驚愕の表情を浮かべ怪物を見上げる。意味がわからない。今のは、いったい何だったのだろう。
次の瞬間、ひとつの考えが浮かぶ。こいつは、自分の言葉を真似したのではないか?
「あ、り、が、と、う」
大きな声で、ゆっくりと復唱してみた。
怪物は、じっとこちらを見る。敵意の感じられない瞳だ。心なしか、初めて会った時より優しげにも思える。
ややあって、怪物は再び口を開いた。
「ア、エ、ア、オ、オ」
発音は、先ほどより近づいてきている。浩市は、思わず笑みを浮かべた。やはり、この怪物は自分の真似をしているのだ。生まれたばかりの子供が、大人の声真似をするように……。
だが、そこで我に返る。今いる場所は、湖の岸辺だ。身を隠すもののない草地である。しかも、道路からは百メートルほどしか離れていない。
万一、誰かが通りかかれば丸見えだ。
気づいた瞬間、浩市は動いていた。怪物の手を掴み、引いていく。ここから、少し歩けば森の中だ。早く、この怪物を人目につかない場所に連れて行かなくては……。
怪物はというと、おとなしく従っている。こちらの意図をわかっているのか。それとも、遊んでいるつもりなのだろうか。
森の中に入り、浩市はホッと一息ついた。念のため周囲を見回したが、人の気配はない。
一方、怪物もまた周囲を見回している。その顔からは、何を考えているかは窺えない。ただ、怒っているわけではなさそうだ。ひょっとしたら、ここに来たのは初めてなのかもしれない。
浩市は、ポケットに手を入れる。その時になって、服がびしょ濡れだということを思い出した。
だが、そんなことはどうでもいい。浩市は、ポケットの中にあるものを取り出す。賞味期限切れのチョコレートバーだ。
袋を剥こうとした時、怪物の手が伸びてきた。そっと、チョコレートバーを袋ごと掴む。
浩市は苦笑した。
「待ってろ。今、袋を開けるから──」
言葉の途中で、怪物はチョコレートバーを抜き取っていた。浩市の目の前で、袋を器用に剥いていく。どうやら、袋は食べられないものだとわかっているらしい。
やがてチョコレートバーを取り出すと、口を開けて放り込む。
咀嚼し、ゴクリと飲み込んだ。
「美味いか?」
尋ねる浩市に向かい、怪物は口を開けた。
「ウ、ウアイ、ア」
懸命に、同じことを言おうとしているのはわかった。自分と、コミュニケーションを取ろうとしてくれている、
浩市は、複雑な気分になった。今、この怪物に対する恐怖はない。嫌悪感もない。むしろ、徐々に好きになってきている。
しかし、この怪物を野放しにしておいたら、自分たち家族は危険に晒されるのだ。
では、どうすればいい?
「次は、ここで会おう。わかるか?」
無理だろうと思いつつも、一応は言ってみる。怪物は、少しの間を置き口を開いた。
「ウ、ウイ、ア、オオエアオウ……」
やはり通じていなかった。こちらの真似をするだけだ。
浩市は、どうしたものかと考えた。この怪物に、自分の言わんとするところを理解してもらうのは、非常に難しい。
かと言って、このままにもしておけなかった。浩市は、人差し指で地面を示す。ここで会おうという意思を込め、地面を何度も指し示した。
怪物は、こちらの動きをじっと見ている。わかったのか、わかっていないのか。
しかし、これ以上どうすればいいのか。それに、濡れた服が不快だ。今は、ひとまず家に戻ることにした。
「じゃあ、また来るからな」
そう言うと、浩市は向きを変えて歩き出す。
しばらく歩き、ひょいと後ろを振り返ってみた。途端に、心臓が飛び出そうになる。
怪物が、後ろから付いて来ているのだ。浩市は、思わず大声を出した。
「ちょっと止まれ!」
同時に、両手を前に突き出す。と、怪物は動きを止めた。こちらの意図を察したらしい。
止まってくれたのはいいが、ここからどうすればいいのだろう。俺は帰る、だからお前も湖に帰れ……これを、どう伝えたらいいのだろうか。
浩市は、人差し指で怪物に触れた。次に、湖の方を指差す。
次いで、自分の鼻を指差した。二度、とんとんと鼻をつついて見せる。その後、家の方向を指差した。
怪物は、こちらを見下ろしているだけだ。特に反応もしていない。その姿は、なぜか迷子になった子犬を連想させた。形も大きさも、まるで違うのに……。
ふと、家に連れ帰ったらどうなるだろうか、という考えが頭を掠める。辛抱強くいろいろと教え込めば、人間との共存も出来るかもしれない。
だが、すぐにその考えを打ち消した。こちらは、それどころではないのだ。他にも、片付けねばならない問題がある。
浩市は、少しずつ後ずさっていく。また付いて来たら、どうすればいいのだろうか。
だが、その心配は杞憂に終わる。怪物は、しばらくこっちを見ていたが、不意に湖へと視線を移す。
次の瞬間、いきなり走り出した。そのスピードは速い。
一瞬にして森を抜け、湖へと入っていった。