サイカイ
奴は、いったい何だったのだろう?
先日、それは初めて上に行ってみた。
初めて見た世界は、不思議な場所だった。何もかもが、水の中とは違っている。地面は固く、体は重く感じられる。何より、上では泳ぐことが出来ない。初めて味わう感覚に、それは気持ちの高ぶりを覚えた。
そして、奴……。
魚や亀や蛙といった普段みている連中と違い、奴は二本足で立っていた。自分と同じだ。
殺そうと思えば、一撃で殺せた。奴は弱く自分は強い、これは一目でわかる。殺して食べれば、美味い御馳走になるかもしれなかった。
だが、それは奴を殺さなかった。食べ物なら、湖に戻ればいくらでもある。魚、亀、蛙、蟹、水鳥などなど……そいつらを食べればいいだけだ。しかも、その時は腹が減っていなかった。
もっとも、腹が減っていなかったから食べなかったというだけではない。奴からは、何か違うものを感じた。初めての感情だ。それが何かはわからないが、ただ食べるよりも価値のあるものを持っている……そんな気がしたのだ。
もう一度、奴を見たい。
・・・
夕暮れ時、浩市は湖の周りを見回っていた。
今日もまた、いつもと変わらない一日であった。昼間と夕方に田山が訪れ、定食を食べていった。旅行者が来なかったかと聞く田山と、来なかったと答える浩市のやり取りは、もはや両者の毎日のルーティンとなっている。
さらに、駐在の中里も顔を出した。あいも変わらず、下らない話をして帰っていくだけだ。あちこち回って、しょうもない世間話をして給料をもらえる……なんとも羨ましい話である。まあ、あいつにはあいつの苦労があるのかも知れないが、それは浩市の知ったことではない。
それから午後六時になり、浩市は店を閉めた。言うまでもなく、田山以外に食事をしていった客はいない。売上など、二千円にも満たない有様である。電気代すら賄えない額だ。
その後はいつものように、乗る客もいないボートを点検し湖の周辺をざっと見て回っている。こんなことをする必要もないのだが、何かしていないとおかしくなりそうな気分だった。
ふと立ち止まり、湖を見てみた。いつもと変わらず、濁りきった水だ。底には、大量のヘドロが溜まってるのかもしれない。見たくもない光景ではある。
あのトカゲのような怪物は、こんな汚い水の中に棲んでいるのだろうか。あれから、姿を見ていない。出来ることなら、もう顔を出さないでもらいたいものだ。村の静かな暮らしを、乱さないでもらいたい。
そう、この村の取り柄といえば静かなことだけなのだから──
ここ北尾村は、人口が二十人ほどしかいない状態だ。ほとんどの村民が、ここから十キロ以上離れた駅の近くに住んでいる。湖の周辺に住んでいるのは、浩市とその家族だけだ。
交通の便も悪い。駅は遠く、車がなければ他の住民に会いに行くことすらできない状態だ。買い物といえば、ほとんどが通販サイトに頼っている。
浩市が幼い頃には、店の近くにバス停があった。そこでバスに乗り、小学校と中学校に通っていたのだ。高校にはバスと電車を乗り継ぎ、片道三時間近くかけて通っていた。もっとも、今ではバスも廃止されてしまった。
高校を卒業すると同時に、浩市は家を出て上京した。北尾村での、そして実家での生活が、つくづく嫌になったのだ。
正直いうなら、浩市は今も北尾村が嫌いである。絶対に帰らない、と誓って上京したのだ。
ところが、何の因果か村に帰って来てしまった。
過去について思いを馳せていた時、水面に異変が起きる。波のようなものが生じたかと思うと、水しぶきが上がる。次いで、巨大な何かがこちらに向かって来たのだ。
浩市が唖然となる中、何かはどんどん近づいて来る。次の瞬間、巨大なものが宙に飛び上がった──
目の前に、あの怪物が再び現れたのだ。
怪物は、じっと浩市を見ている。危害を加える気配はないらしい。
浩市はというと、動くことが出来なかった。改めて間近で見ると、とんでもない大きさである。自分の倍近くあるように思えた。
銀色に光る皮膚は、昆虫のそれを連想させる。水がぽたぽた垂れているが、彼は気にも留めていないようだ。
不意に、ビシャリという音がした。怪物が、尻尾で地面を叩いたのだ。
その音で、浩市はようやく我に返る。怪物に尻尾があることを知ったが、今はそれどころではない。震える足で、ゆっくりと後ずさっていった。両者の距離は、少しずつ開いていった。
と、怪物が一歩踏み出す。同時に、巨大な手を伸ばしてきた。
鉤爪の生えた指が、浩市の髪に触れる。嫌な感触だったが、動くことなど出来なかった。全身が硬直しており、力が入らない。
硬いものが、頭を撫でている。そう、怪物の指は異様に硬かった。その硬い指で、浩市の短い髪を撫でている。
前回と同じく、このまま殺されるのかという思いが頭をよぎる。自分が死んだら、あの家はどうなるのだろうか……などとぼんやり考えながら、それでも動くことは出来なかった。
死にたくはない。だが、目の前の怪物と浩市とでは、あまりにも差が有り過ぎた。こと殺傷力では、赤ん坊と特殊部隊隊員くらい違うだろう。
その時、上着のポケットに入っていたもののことを思い出す。チョコレートバーが入っていたのだ。
食堂と併設された貸しボート屋は、タバコや菓子や魚のエサなどといったものも扱っている。そこにあった賞味期限切れのチョコレートバーを、小腹が空いた時に食べようとポケットに入れていたのだ。
同時に、ある考えが浮かぶ。下手なことをしたら、機嫌を損ね殺されるかもしれない。だが、何もしなくても殺されるかもしれないのだ。なら、何かして殺される方がマシだ。
浩市はポケットに手を入れ、チョコレートバーを取り出す。震える手で、どうにかビニール袋を剥いて中身を取り出した。
その間、怪物は彼の行動をじっと眺めている。鉤爪の生えた手は、浩市の頭に乗せたままだ。
少し時間がかかったが、チョコレートバーを袋から取り出した。菓子を怪物に差し出す。
怪物は、何の反応もしない。じっとチョコレートバーを眺めている。目の前に差し出されたものを、食物と認識していないのだろうか。
では、自身で食べてみせるしかない。浩市は、チョコレートバーを自身の口に運んだ。半分を食べると、再び差し出す。
すると、怪物は顔を近づけてきた。目の前で、口を開ける。鋭い歯が並んでいるのが見えた。あの口で噛まれたら、首など簡単にちぎれてしまうだろう。
それだけは、ごめんこうむりたい。開いた口に、浩市はチョコレートバーを投げ込む。
怪物は、ゴクリと飲み込んだ。
直接、浩市の体が浮き上がる。怪物が、彼の体を掴み片手で持ち上げたのだ。
浩市の身長は百七十センチほどだが、体重は八十キロを超えていた。筋肉質のガッチリした体格である。その浩市を、いとも簡単に片手で持ち上げているのだ──
「う、うわあぁ!」
思わず叫ぶ。すると、怪物は浩市を下ろした。またしても、じっと見下ろしている。
浩市の方は、怪物を見上げていた。どうやら、相手に敵意はないらしい。今、自分を持ち上げたのも、怪物なりのスキンシップだったのではないか。
「お前、何者だ?」
そっと聞いてみた。当然、答えは返って来ない。怪物は突っ立ったまま、浩市を見下ろしているだけだ。
ひょっとしたら、先ほどの動きは「チョコレートバー美味しかった」ということを、こちらに伝えていただけなのではないだろうか。
浩市は、思わずくすりと笑った。すると、怪物の表情にも変化が生じる。口が横に広がったのだ。こちらの笑った顔を、真似ようとしているのだろうか。
その時、唸るような音が聞こえてきた。小さな音だが、はっきり聞こえる。音は、どんどん大きくなってきた。
浩市は、反射的に道路の方を向く。長距離を走る大型トレーラーだ。一日に、二台から三台は見かける。
ほぼ同時に、怪物も動いた。何を思ったか、いきなり飛び上がったのだ。宙高く跳躍したかと思うと、ザブンと湖に飛び込む。
あっという間に、視界から消えてしまった。
浩市は、何とも言えない気持ちで湖を見つめていた。
あの怪物は、形は変だし体も大きく腕力も強い。しかし、悪い奴ではなさそうだ。少なくとも、問答無用でいきなり襲ってきたりはしなかった。
怪物とのやり取りを思い出し、浩市はくすりと笑う。そんな中、エンジン音とともに大型トレーラーが通り過ぎていった。浩市のいる場所から道路まで、かなりの距離かある。にもかかわらず、エンジン音は聞こえてきた。
あいつは、エンジン音が嫌いなのか……などと思う間もなく、またしても面倒事が起きる。
「兄貴!」
声と共に、ドタドタ駆け寄って来た者がいる。誠司だ。どこからか、怪物とのやり取りを見ていたらしい。
「兄貴! 大丈夫か!?」
喚きながら、浩市のそばで立ち止まり湖を睨む。その顔は勇ましいが、実際は怪物が湖に飛び込んだのを確認しているのだろう。仮に浩市が怪物に襲われたとしたら、こいつは真っ先に逃げ出す。
いや、それ以前に……まずは、この男を黙らせなくてはならない。
「い、今の、何だよ!?」
震える声で聞いてきた誠司。今の、とは怪物のことだろう。
浩市は、弟をじろりと睨む。そんなこと、知るわけがない。
「知らねえよ」
「あれ何だ? 怪獣か? あんな生き物、見たことねえぞ! ネットで調べてみるか!?」
なおも聞いてくる誠司に、浩市はチッと舌打ちした。こいつは本当にバカだ。己の置かれた立場も忘れ、SNSで騒ぎかねない。
しかも口からは、タバコの匂いがモワッと漂ってきた。どうやら、外で紙巻きタバコを吸っていたらしい。浩市は顔をしかめつつ答える。
「だから、知らないって言ってるだろう。とにかく、このことは黙ってろ。誰にも言うなよ。ネットにも書き込むな。お前は、何も見なかったんだ」
「えっ? 何でだよ? 他の人が襲われたらマズいだろ」
この一言は、浩市の堪忍袋の緒を切り裂いた。我が弟は、何を考えているのだろうか。他の人間のことを心配できる立場ではないのだ。
怒りのまま、誠司の襟首を掴む。
「いいか、あんな生き物がここにいると世間に知られたら、あっという間にマスコミが押し寄せてくるぞ。挙げ句、俺たちが取材を受けたらどうなる?」
低い声で、ゆっくりと尋ねた。すると、誠司の表情が一変する。
「それは……」
「そしたら、親父がいないことがバレちまうんだよ。現在、身体障害者のはずの親父が行方不明。なのに、警察には捜索願いが出てない。これは、どう考えても怪しいだろうが。お前は、そんなこともわからねえバカなのか?」
凄む浩市に、誠司はうつむいた。
昔なら、ここから取っ組み合いの兄弟喧嘩になっていたかもしれない。実際、幼い頃の浩市と誠司は、何度も殴り合っていたのだ。
それは兄弟だけのことではない。かつての誠司は、父親の健人とも、よく殴り合っていた。健人は外面がいい分、家族のことは奴隷か何かとしか思っておらず、言うことに逆らえば殴られた。母も彼も弟も、よく殴られていたのだ。
幼い頃の浩市は父からの暴力を我慢し、やり過ごすしかなかった。だが、中学生になると立場は逆転する。体格は父を上回り、腕力でも上回る。殴り合いでも負けない自信が出てきた。
やがて決定的な事件が起き、父は浩市に対し暴力を振るうことをやめる。もともと真面目な浩市は周囲からのウケもよく、父の機嫌を損ねることも少なかった。
だが、弟は違っていた。成長するにつれ、手のつけられない不良となる。あちこちで喧嘩を繰り返し、警察沙汰も頻繁であった。誠司の暴力的な性格は、父の血を色濃く受け継いでいた証なのかもしれない。
そんな弟と父は、ことあるごとに衝突していた。殴り合いなど日常茶飯事である。浩市には暴力を振るわなくなった父も、誠司に対しては別だった。当然、弟も黙ってやられているわけではない。殴られたら殴り返す。放っておけば、血を見るような喧嘩が始まるのだ。
ふたりの喧嘩を止めるのが、浩市と母の役割である。やがて、誠司が家を出た。さらに母が亡くなり、浩市も家を出る。もう二度と、帰らないつもりだった。
その後、父から連絡がくる。理恵子という女と再婚した、という知らせだ。しかし、浩市はおざなりの祝いの言葉を送っただけで済ませた。
それなのに、何の因果か兄弟は戻って来てしまった。挙げ句に、とんでもないことが起きてしまう。彼らはもう、普通の家族には戻れないのだ。
「いいか、警察に家を調べられたら終わりなんだ。それとも、今から自首するか? 自首すりゃ、刑は軽くなるだろう。そのへんは、お前の方が詳しいだろうが。どうすんだ? 今から自首すんのか? だったら、俺は止めないよ」
詰め寄る浩市に、誠司は気弱な表情でかぶりを振る。
「い、嫌だよ」
答えた後、体を震わせながら浩市を見つめる。助けてくれ、と弟の目は訴えていた。あの時と、全く同じ目をしている。
もし、あの日……弟の訴えを無視して警察を呼んでいれば、こんな面倒なことにはならなかったはずだ。
「だったら、余計なことはするな。おとなしくしてろ」
この時、浩市も誠司も気づいていなかった。
湖のほとりに生えている大木の陰から、ひとりの男が彼らのことを見ていたのだ。それだけでなく、怪物の姿を見ていたし、ふたりの会話も聞いていたのだ。