ニチジョウ
翌日の午前九時、浩市は店を開けた。
彼が経営している食堂『光司亭』は、テーブルがふたつにカウンター席が四つという小さな店だ。テーブル席の横にあるガラス窓からは、光司湖が見える。水面は穏やかで、波ひとつない。もっとも、水は相変わらず濁っており綺麗とはいえなかった。
この光司亭は、一応は洋食レストランということになっている。かつて、都内のホテルでコックをしていた父の健人が、先妻の千夏と共にオープンさせた。昔はそれなりに繁盛しており、外に客が並ぶことも珍しくなかった。
それというのも、当時ここから歩いて五分ほどの場所に、大手自動車メーカー直営の工場があったためである。そこに勤める工員たちが、よく食べに来ていたのだ。
工場は連日フル稼働しており、夜でも明かりが消えることはなかった。その光景を、浩市は今も忘れていない。寮も完備されており、男女合わせて百人以上の工員たちが寝泊まりしていたという話だ。
しかし今は、その工場もなくなってしまった。寮も取り壊され、完全な更地となっている。
工場がなくなれば、工員もいなくなる。必然的に、客は途絶えてしまった。
客が来なければ、店の収入はない。売上は常にマイナスの状態であり、赤字などと呼べる状態を通り越している。こんな状態で店を続けているのは、正気の沙汰ではない。
その正気の沙汰ではないことを続けていかねばならないのが、今の浩市の立場であった。
店を開けて、二時間が過ぎた。当然、客はひとりも来ていない。Tシャツにエプロン姿の浩市は、カウンターの内部で椅子に座り、テレビを観つつスマホをいじっていた。
そもそも浩市という男の見た目は、爽やかな好青年とは御世辞にも言えないタイプだ。顔はいかついし無愛想。体の方はゴツい筋肉質である。Tシャツの裾から覗く二の腕は太い。
こんな風貌の浩市が、ひとりで営業しているレストランに入りたがるのは、よほどの変わり者だけだろう。当人も、それはわかっていた。
ふと、湖の方を見てみた。
水面は、いつもと同じく静かなものだ。あの怪物は、湖で何をしているのだろうか。底をうろついているのか。あるいは、泳いでいるのか。念のため光司湖の情報をスマホでチェックしてみたが、あいつの目撃談は見当たらなかった。
いっそのこと、あれがゴジラのような大怪獣ならよかったのだ。店を踏み潰してくれれば、全ては怪物の仕業となる。何もかもなかったことにしてくれるのに……。
そんなことを考えていた時、ドアが開く。客が来たのだ。誰であるかは、いちいち確認するまでもなかった。この店に現れる客は、ふたりしかいない。そのうちのひとりだ。
入って来たのは、田山と名乗っている中年男だった。半年ほど前から、この店に来るようになった変わり者である。
年齢は四十代から五十代だろうが、三十代といっても不自然ではない感じだ。中肉中背の体格で、店には歩いて来るらしい。黒いTシャツとカーゴパンツといういでたちで、時計やアクセサリーの類は付けていない。黒髪は短く刈られており、いつもメガネと白いマスクで顔を覆っている。マスクは食事の時に外すだけだ。まさに不審者の見本のごときスタイルである。
浩市は、この男が何者なのか全く知らない。北尾村のような小さな集落では、村民の氏素性を皆が把握しているのが普通だ。しかし、田山は村民たちを完全に無視しているようだし、村民たちと仲良くする気もないらしい。
ただ、浩市に対しては別だ。この男は店に毎日来て、浩市に話しかけてくる。二言三言で終わる会話ではあるが、必ず言葉を交わすのだ。それが終わると黙って食事をして、食べ終わると代金を払い帰っていく。
そんな田山は店内に入って来ると、奥の席に腰を下ろしと。浩市の方を向き、口を開く。
「ミックスフライ定食」
「はい」
浩市が頷くと、田山はさらに言葉を続ける。
「今日、旅行者は来たか?」
「いいえ、来ていないと思います。見かけたのは、長距離トラックと業者の車だけでした」
そう、この店の前には二種類の道路かある。大型トレーラーなどの通り道になっている国道と、村へと入って行くための道路だ。
店から見る限り、村に入ってきた車は業者のものだけだった。
「そうか」
そう言うと、彼は持っているスマホへと視線を移す。
旅行者が来たかどうかを聞く……これが、田山とのルーティンである。この男は一日に二回、必ず来店する。来店すると、決まって旅行者が来たかどうか聞いていく。いったい何のために、そんなことを聞くのかは不明だ。
もっとも浩市も、そんな事情についていちいち尋ねたりはしない。人には誰にでも知られたくないことのひとつやふたつある。
そう、安藤家にも知られたくない秘密がある──
浩市は厨房に行き、ミックスフライ定食の調理を始める。とはいっても、中身は冷凍食品だ。温めたフライを、それらしく皿に盛り付けるだけである。ご飯はきちんと炊いてあるが、味噌汁はレトルトだ。料理などと呼べるものではない。田山も、そのことは察しているだろう。にもかかわらず、あの男は毎日食べに来る。
田山にとって重要なのは、旅行者が来ているかどうか……だ。この店は、国道沿いに建っている。羽黒市の北尾村に来る者は、必ず店の前を通ることになるのだ。つまり、彼は何らかの事情で身を隠しているのではないか。
だからと言って、そんなことをいちいち詮索したりはしない。それよりも、浩市にはさし迫った問題がある。他人の事情を調べている場合ではないのだ。
出された料理を、田山は黙々と食べる。その表情に変化はなく、機械的に食物を口に運んでいる……そんな雰囲気だ。時おり、鋭い目で道路を見ている。
食べ終えた田山が席を立ち、レジで金を支払った。いつもなら、何も言わず帰っていくはずだった。
しかし、今日は違っていた。不意に、そっと顔を近づけてきた。
「ここだけの話だが、ゆうべ湖でデカい魚みたいなのが泳いでるのを見かけた。お前も見たか?」
声を潜めつつ、そんなことを聞いてきたのだ。
浩市はギクリとなった。湖で泳ぐデカい魚といえば、アレしか考えられない。昨日見た、あの怪物だろう。
しかし、あんなものを見たというわけにはいかない。
「えっ? ほ、本当ですか? いや、見てないです。だ、誰かが変な外来魚でも放したんですかね」
そんなことを言って笑ったが、田山はニコリともしていない。何やら思案するような表情で、じっと浩市の顔を見つめている。全てを射抜くような、鋭い視線だ。浩市は、思わず目を逸らした。
少しの間を置き、田山は頷いた。
「なるほど、わかった」
そう言うと、店を出ていった。浩市はホッとして、湖に視線を移す。何がわかったのかは不明だが、引き上げてくれたのならどうでもいい。
もっとも、あの男は夕方にもう一度顔を出す。そう、昼食と夕食をこの店で食べるのが、田山の習慣なのだ。
しばらくして、またひとり来店する。紺色の制服を着て、腰には警棒をぶら下げていた。
この格好を見れば、彼が何者であるかは考えるまでもない。そう、この中里は警官である。この店に毎日現れる、もうひとりの客だ。
中里は入って来ると、にっこりと微笑んだ。
「やあ、景気はどうだい?」
親しげに話しかけてくる。この男、身長は低い。おそらく、百六十センチあるかないかだろう。体つきも華奢で、素手の闘いなら浩市が相手でも負けそうだ。
顔も童顔であり、十代と言われても違和感はない。実際の年齢は二十九歳であり、浩市より年上なのだが、率直に言って頼りない。
「見ての通りですよ。よくないですね。何せ、客が来ないもんですから」
浩市は、ぶっきらぼうな口調で答えた。正直、この警官に来られても、得することはない。中里は何も注文せず、話をするだけで帰っていくからだ。
「そうか。まあ、そのうちいいことあるよ」
そう言うと、周りを見回した。誰もいないことを確認すると、顔を近づける。
「ところでさ、弟さんは今どこにいるの?」
声を潜め、そっと聞いてきた。途端に、浩市は不快そうな顔を向ける。
「今は、家にいますよ。それが何か?」
「いや、いるならいいんだ」
その答えに、浩市は我慢できなくなった。中里を睨む。
「駐在さん、誠司はもう罪を償ったんですよ。なのに、まだ犯罪者扱いするんですか?」
「そういうわけじゃない。本当に、そういうわけじゃないんだよ。ただね、何してんのかなって思っただけだから。そんなに怒らないでよ」
言いながら、中里はヘラヘラ笑う。嫌な笑顔だった。警官らしさなど、微塵も感じさせない。
浩市は、険しい表情で言葉を続ける。
「あいつには、家事を手伝ってもらっています。なにせ、家には病人がいますからね」
「ああ、そうだよね。でもさ、店は大丈夫なの? ひとりじゃ大変じゃない?」
「こんな暇な店、俺ひとりで充分ですよ。それに誠司のやったことは、村のみんなに知られてるんでしょう。そんな奴に、接客業をやらせるわけにはいかないですね」
静かに語っているが、浩市の声には怒気が含まれていた。
「い、いや、そんなことはないよ。じゃ、じゃあね。何か困ったことがあったら連絡して」
そう言うと、中里は慌てて去っていった。
誠司には、前科がある。
手のつけられない不良だった弟は、中学校を卒業すると同時に実家を飛び出した。その後は友人たちの家に寝泊まりしながら、あちこちで悪さをしていたらしい。
十八歳の時、警察に逮捕された。民家に侵入し、住人に暴行し軽傷を負わせ、金品を奪った事件である。強盗傷害罪で、懲役六年の刑を言い渡された。それから五年という歳月を、少年刑務所で過ごす。
そして半年前に仮出所し、自宅に帰って来た。両親の下で生活する、というのが仮釈放の条件である。浩市、父の健人、その後妻である理恵子らと共に生活を始める。
先ほど浩市は、弟は罪を償った……と言った。だが、正確にはまだ償っていない状態だ。彼の刑期は、あと半年ほど残っている。その半年間を無事に終わらせないと、また刑務所に逆戻りである。
浩市もまた、二年前まで実家を離れていた。
高校を卒業後、ボストンバッグひとつで東京に行く。物流系の会社に就職し、ひとり暮らしをしていた。正直いえば、実家に戻るつもりなど全くなかった。
事情が変わったのは、父が脳梗塞で倒れたからだ。父と、義理の母である理恵子に懇願され、浩市は仕方なく実家に戻り店の経営を手伝う。後遺症により障害の残る父、その父に虐待され続けている義母、さらには仮出所してきた前科者の弟と共に、どうにか食堂を続けていた。こんな店、潰れちまえばいいんだと思いながら、それでも家族のために働いていた。
しかし、事態は悪くなる一方だった。挙げ句、恐ろしいことが起きてしまった──
浩市を取り巻く現在の状況は、あまりにも厄介なものである。もはや、どうすればいいかわからず放置している状態だ。湖に怪物が住み着いたことなど、どうでも良かったのだ。