デアイ(1)
それが、いつどこで生まれたのか、誰も知らない。本人ですら、わかっていなかっただろう。
最初、それは深く暗い闇の中にいた。
どこまでも続く漆黒の中を、石のような硬い殻をまとい、ゆっくりとした速度で進んでいた。途中、速いスピードで通り過ぎるものと接触し、外殻は少しずつ削れていった。
どこまでも続く暗闇の中を、それは飛び続けた。遠くで光り輝く星々を無視し、行き先もわからぬままに、ひたすら前へと進んでいく。
永遠とも思えるような長い年月を経て、ひとつの惑星を発見した。他の星とは違い、不思議なものに満ちていた。これまで感じたことのないものばかりだ。
誰に言われるまでもなく、それは悟る。あれこそが、自分の目指すべき場所なのだ。
次の瞬間、惑星の方に進路を取った。途端に、外殻を凄まじい高温が襲う。しかし、それは構わず突き進んでいった。やがて、湖へと落下する──
どのくらいの時が経ったのだろう、
それは、深い水の底で目覚めた。己を覆っていた硬い殻がようやく剥がれ落ち、体が動くようになる。
暗く濁った水の中を、それはノロノロと進んでいった。どうにも動きづらい。目覚めたばかりのためか、体を上手く動かせないのだ。
時間が経つにつれ、どうにか動くことにも慣れてきた。両腕で水をかき、両足で湖底を歩く。他の水棲生物と違い、それは直立し二本の足で進んでいく。
周囲を見渡せば、長い水草が大量に生えている。また、己よりも遥かに大きなものが蠢いているのも見えた。大きな魚たちがゆらゆら泳ぐ様を、それは湖の底から眺めていた。
他の生き物を、怖いとは思わなかった。むしろ、好奇心の方が先に立つ。初めて見るものばかりだ。それは、湖底で見る光景に完全に魅入られていた。
その時、目の前を何かが通り過ぎる。自分よりも小さい生物だ。
考えるより先に、体が動く。反射的に、ぱっと飛びついていた。両手を広げて、しっかりと掴み取る。全て本能の命ずるがままの行動である。
捕らえたものは水の中に棲む昆虫であり、両手で掴めるくらいの大きさである。まだ、ジタバタともがいていた。だが、それの両手を外すには不足であった。
必死で暴れる昆虫に、それは口を開けて食らいついた。本能の命ずるまま、片手で体の一部をちぎり、口の中に放り込む。肉を咀嚼し、体内へと取り込んでいく。これまた、本能の命ずる動きだ。誰に教わるでもなく、体が知っている。
あっという間に、水棲昆虫を食べ終えた。この時、それは生きるために重要なことを知る。
獲物を捕らえて、食らうこと。
直後、水の揺れを感じる。巨大なものが接近しているのだ。
次の瞬間、胴を何かに挟まれた。尖ったものが、腹に食い込む。
それの皮は硬く、傷を負わせることは出来なかった。しかし、嫌な気分になったのは間違いない。
その時、本能が告げる。大きな生き物が、自分を食べようとしているのだ。
それは怒った。手を伸ばし、届く場所を掴む。力を込め、皮と肉を引きちぎった。しかし、胴に食いついたものは離れない。
さらに攻撃を加えた。手の届くところを掴み、引きちぎる。それの力は強い。次々と、肉をちぎっていく。
尖ったものは離れた。しかし、それはなおも攻撃を加える。相手に飛びつき、両手両足でしがみついた。動かなくなるまで、腕を振るい続ける。
相手は、あちこちの皮を剥がされ肉をちぎられた。骨と内臓を剥き出しにしながら、水の中を漂っていく。もはや、ボロボロの死骸と化している。
それは、満足げに死骸を見つめた。自分よりも、遥かに大きな相手だった。しかし、今はもう動かない。完全に死んでいる。死ねば、もう何も出来ない。ただの肉と骨の塊だ。
この時にそれは、また大切なことを学んた。
怒りという感情。そして……襲ってきた敵と戦い、殺すことだ。自分に敵意がなくとも、襲ってくるものがいる。襲われるのは不快だ。
だから、向かってくるものがあれば戦う。戦いが始まったら、相手が死ぬまで攻撃を加える。死ねば、相手は無害な存在になるのだ。
時が流れ、それは逞しく成長していった。
僅かな期間で、体はどんどん大きくなっていく。もはや、以前とは比べものにならない。湖の中では、もっとも大きく強い生物になっていた。
かつては、昆虫や小エビなどを獲って食べていた。今では、鯉や亀といった大きな生き物を捕らえて食べている。湖底を歩くより、泳ぐ方が速く移動できることも覚えた。泳ぎも上手くなり、魚よりも速く水を移動できる。
単に生きていくだけならば、水中だけでも充分だっただろう。餌は豊富だし、何より天敵になるようなものが存在しない。湖では、思うがままに生きられた。
しかし、それは上の世界に興味を抱いてしまった。
いつも下から見ている、光の射している場所。あそこには、見たこともない様々なものがあるようだ。さらに、これまで聞いたこともない音も聞ける。
裡に秘められた何かが、それの体を刺激し急き立てるようになっていった。あそこに行ってみろ、面白いものがあるぞ……と囁きかけてくるのだ。
やがて、それは湖の外に出てみることにした。
・・・
なんだ、こいつは……。
安藤浩市は、呆然とした表情で立ち尽くしていた。彼の目の前には、異様なものが立っている。
この世の中に、存在しないはずのものだ──
浩市は現在、湖のほとりで貸しボート屋が併設された食堂を経営している。もっとも、客はほとんど来ない。
店のすぐ隣にある光司湖は、巨大な面積を誇る。日本でも、二番目に大きな湖だ。しかし、ただそれだけの場所である。
そう、この光司湖が誇れるのは面積だけだ。他には、何の見所もない。水は濁っており汚く、長い水草が大量に生えており釣りにも不向きだ。景色がいいわけでもないし、珍しい生き物がいるわけでもない。わざわざ、こんなところに来ようなどという物好きはいなかった。
したがって、店の売上などないに等しい状態だ。市から支給されている補助金などで、かろうじて食いつないでいる有様である。
そんな店でも、浩市は毎日のチェックを欠かさない。午後六時に食堂を閉めた後、ボートの点検をする。さらに、湖の状態などを観察するのが彼の日課となっている。
今の浩市には、それくらいしかすることがなかった。今日もまた、いつもと同じように湖の周りを歩いていただけだった。
なのに、目の前には未確認生物が立っているのだ──
始まりは、音だった。
浩市が湖のほとりを歩き、異常がないか確かめていた時だった。突然、バチャバチャという音が聴こえてきたのだ。
ここまで大きな音を立てる生き物はいないはずだ。ひょっとしたら、人間が溺れているのだろうか。いや、こんなところを歩く人間など、自分以外にいないはずだ。
まさか、家族の誰かが湖に落ちたのか……などと思い、音のする方を見てみた。
途端に、愕然となる。湖を、大きな何かが泳いでいるのだ。水しぶきと共に、銀色の皮膚を持つ巨大な何かが泳いでいる……そんな異様な光景が、はっきりと見えていた。しかも、浩市の方へと、どんどん近づいて来ている。
な、なんだこれは!?
ひょっとしたら、外来種の巨大魚か……と思った直後、それは飛んだ。水面から、空高く飛び上がったのだ。その様を、浩市は唖然となりながら見ていた。
一瞬の間を置き、それは浩市の前に着地する。その勢いは凄まじいものだった。地面が揺れたような錯覚すら覚えたほどだ。
浩市は、改めて目の前にいるものを見つめた。どう見ても、外来魚ではない。かといって、人間でもない。では、何なのだろうか。少なくとも、浩市はこんな生物を見たことがないのは確かである。
わかることは、ただひとつ。こいつは危険だということだ。体の大きさや先ほどの跳躍力から判断するに、人間など一撃で撲殺できるだろう。
その小さな目は、浩市を見下ろしていた──