Remote.02 永遠の芸術殺人事件 6/9
「はぁー……」
水希との通話を終えた智は、ぐったりとベッドに横になった。こちらの映像は切っていたとはいえ、やはり緊張する。電話越しのリモートとはいえ、殺人事件の捜査なのだ。緊張して当たり前なのだが……。
そのまま何をするでもなく、まんじりとベッドに横になっていた智の手の中で、握ったままのスマートフォンが鳴った。
「……千奈っちゃん」
発信者ごとに個別設定している着信音で、智は電話をかけてきた相手を知った。智が着信に応答すると、
『智ちゃん』
親友の声が、スピーカー越しに聞こえた。
「千奈っちゃん……」
『さっきは、ごめんね。やっぱり、家に行く前に電話したほうがよかったよね?』
「う、ううん、き、気にしないで。そ、それより、どうしたの?」
『さっきの智ちゃん、随分と元気がないように見えたから……。気になって』
「千奈っちゃん……」智の表情が自然とほころぶ。「……あ、ありがとう」
『……智ちゃん、泣いてるの?』
「え? ち、違うよ」
智は答えながら目をぬぐった。
「ちょ、ちょっと寝起きだから。こ、声がおかしいだけ」
『そうなんだ』
「そう、そう。ほら、変でしょ」
智はわざと声をしわがらせて答えた。
『それは明らかに作ってるでしょ』
「ばれたか」
『はは。智ちゃん、変なの』
千奈都の声が和らいだことが分かった。
『ね、ねえ……』
「なに?」
『さっき渡したネーム、よ、読んでくれた?』
「あ……」
千奈都が置いていったノートは、一度も開かれることなく、智の机の上に載せられたままだった。
「ご、ごめん。まだ……」
『そう……あ、そうか、今まで寝てたんだもんね』
「そ、そうなんだよ」
『夜更かしでもしてるの?』
「じ、実は、そう……」
『もしかして、漫画描いてるとか?』
「……い、いやぁ。そ、それがさ、机に向かいはするんだけど、何を描いていいかわかんなくて、結局全然進んでないんだ……」
『そっか……それって、スランプだよ』
「そ、そうなのかな?」
『そうだよ。でも、安心していいと思うよ』
「どうして?」
『スランプって、才能のある人しかならないって、私聞いたことある』
「そ、そうなの?」
『スランプって、描きたいものの理想が高すぎるから、今の自分の実力とのギャップで悩んで起きる現象なわけでしょ。それって、つまり、高い理想を持てて、自分の力でそこに辿り着けるって思ってるからこその悩みってことで、それって、まだ眠っている才能がある証拠だよ。だって、自分には無理だ、って最初から諦めてるなら、そもそも悩んだりしないはずだもん』
「はは、そ、そうなのかな?」
『絶対そうだよ。だって、智ちゃんの漫画、私すごく面白いって思ってるよ』
「あ、ありがと……」
『「忍者探偵ハッとしてトリっくん」なんて、最高だよ。私、あれ読んだとき、大声出して笑って、家族におかしな目で見られたもん』
「あ――あの漫画はなかったことにしてくれるか? あ、あれは私の、く、黒歴史……完全な若気の至りで……」
『何言ってるの智ちゃん。今だって若いじゃない』
電話越しに千奈都は、けらけらと笑った。
『でも、私が今日渡したネームも、智ちゃんの「ハッとしてトリっくん」には負けるかもだけど、結構自信作なんだ。絶対に感想聞かせてね』
「う、うん――あ」
『どうしたの? 智ちゃん』
「ご、ごめん、千奈っちゃん、着信が……」
通話中の智のスマートフォンに、新たな着信が入った。水希からのものだろうと、智は察した。
『あ、ごめんね、長々と』
「ううん」
『じゃあ、また電話かけ直すね』
「う、うん」
『またね』
その言葉を最後に、千奈都との通話は切れた。すぐに智は、新しく入ってきた着信に応答する。
『智ちゃん。今、電話いい?』
発信者は水希だった。
「は、はい、どうぞ」
智が答えると、水希は小さなため息を漏らしてから、
『たった今、画商の青村さんを聴取したんだけど……』
「ど、どうでしたか?」
『正直、収穫はなかったわ。何を訊いても、知らぬ存ぜぬの一点張り。アトリエのドアの鍵のことも、それとなく訊いてみたんだけど、「自分はアトリエに入ったことは一度もないので、あの部屋のことは何も分からない」と、それを通すばっかりで、こちらにとっても、向こうにとっても、有利な話も不利な話も何も引き出せなくて……暖簾に腕押し、っていうのは、あのことよ』
スマートフォン越しに、また水希のため息が聞こえた。
「そ、そうですか……せ、せめて、家宅捜索でも出来れば、ぬ、盗み出した絵画を発見できるかもしれないんですけどね。ま、まあ、現状だと、そんな令状が降りるはずないですけど……」
『智ちゃん、そのことなんだけど……』
「ど、どのことですか?」
『関沼逸司の新作のことよ』
「そ、それが、何か?」
『智ちゃん、関沼さんの新作なんて、本当にあったと思う?』
「な――ど、どういうことですか? 水希さん……」
『うん、今さら何言ってんだって言いたいのは分かる。でもね……』
「な、何ですか? 関沼さんの新作の存在を疑う、こ、根拠でも出てきたっていうことですか?」
『実は、そうなの。というのもね、家政婦の堀さんから新しい証言が出てきたのよ』
「新しい、しょ、証言?」
『そう。堀さんの仕事には、食事や日用品なんかの買い出しもあったんだけれど、その中に、関沼さんが仕事で使う画材の購入も含まれていたのね』
「そ、そんな専門的な道具も、か、家政婦さんに買いに行かせてたんですか?」
『何でも、堀さんも美大の出で、そういった画材の専門的な知識もひととおり身につけているんだって。それが、関沼さんが堀さんを雇った一番の理由だったらしいんだけど、とにかく、その堀さんが言うにはね、最近、画材の購入量が明らかに減っていたそうなのよ』
「画材って、つまり、絵の具とかですか」
『そう。だから、もしかしたら関沼さんは、ここしばらくの間、創作に手を付けていなかった可能性もあると。画材の購入量のことだけじゃなくてね、堀さんは、関沼さんの衣類の洗濯もしているんだけど、そこでもおかしなことがあったと』
「な、何ですか?」
『出される服に、絵の具による汚れがなくなっていたそうなの』
「そ、それって……」
『そうなの。関沼さんは毎日アトリエに籠もりはするけれど、絵の具を使うことはなかったんじゃないか、って、堀さんはそう思っているみたい。それは、つまり、関沼さんは、アトリエで絵を描いてはいない。だから、絵の具が減らなくて、購入量も減ってきていたし、絵の具を使わないから、服に汚れが付くこともなくなっていたんじゃないかって』
「そ、それは、た、確かなんですか?」
『分からないわ。堀さんは、アトリエへの出入りを禁じられていたから、必然、アトリエの中での関沼さんの様子も、一切知らなかったわけだからね』
「……」
『さっきのリモート捜査のときにも言ったけれど、実際、アトリエにある作品は、すべてこれまでに描いたものばかりで、手を付けた途中の作品も含めて、新作と呼べるものはひとつもなかったわ』
「で、でも、インタビューで、新作の完成が間近だって、こ、答えていたとか」
『うん。でも、本当は新作なんて全然描けていなくって、対外的にそう言って取り繕っていただけだったという可能性もあるわ』
「描けない……それって、つまり、スランプ……」
『だったのかもしれないわね』
「で、でもですよ、み、水希さん、それじゃあ、堀さんが聞いたっていう、犯人の、あの言葉は、ど、どうなるんですか?」
『そこなのよね……』水希は、三度ため息を吐いて、『「さすがに大きいな」ね。それは、犯人が関沼さんの新作を運び出すのに四苦八苦して、思わず漏らした言葉だとばかり思ってたけど、もしかしたら、全然違った意味で言ったものだったのかも……。それとも、これまで、犯人の目的は新作を盗み出すことで、関沼さんを殺したのはあくまでアクシデントだと考えていたけれど、本当は関沼さんの殺害そのものが犯人の目的で、例の言葉は、それに関連して吐かれたものだったという可能性も……』
「『さすがに大きいな』……せ、関沼さんは、体重が百キロ近くあったから、お、大きな体をしていたんでしたよね」
『関沼さんのことを差して言った言葉だった? あ、堀さんの進入を防ぐために、関沼さんの死体を押して動かしたときに言った言葉だったとか?』
「い、いえ、それだと、『大きい』じゃなくて『重い』って言うんじゃないかと……」
『そうよね。その場合、問題になるのは関沼さんの体の大きさじゃなくて、重量になるわけだもんね。それに、堀さんがその言葉を聞いたのは、犯人がアトリエに侵入していることに堀さんが気づいた直後のことよ。犯人が死体を押してドアのストッパーにしたのは、それよりもあとのことだわ』
「……も、もし、ですよ。犯人の目的が、関沼さんの殺害だけで、し、新作を盗み出したりなんてしていなかったのだとしたら、30号からのカンバスの運搬手段なんて、は、犯人特定の意味を成さなくなりますね」
『確かに』
「さ、さらに、そうなると、動機面でも、さ、再考の余地が出てきますよね。だって、画商の青村さんと、友人の八巻さんは、お金目的で関沼さんの新作を盗もうとしたことが犯行動機って考えられているから、関沼さんを殺したって、その二人にとって、な、何の得にもならないんですから」
『そうね。あの三人のうち、関沼さん自身に恨みを持っているのは、自作品の盗作を指摘された、弟子の満崎さんだけということになるわね。確かに、“新作絵画を盗む”という点に絞ってみれば、満崎さんの動機はもっとも薄いと言わざるを得ないわね。とにかく、私たちのほうでも、もう一度、関沼さんをはじめ、容疑者たちの身辺を洗ってみるわ。新しい情報が出たら連絡するから、智ちゃんのほうでも、何か推理できたら、いつでも連絡ちょうだい』
「わ、分かりました……」
通話の切れたスマートフォンを握ったまま、智はベッドの上で「うーむ……」と唸った。