Remote.01 小さな恋の殺人事件 10/12
津吹彰は、ハンドルを握りながら助手席を見やった。シートの上では、稲口美佳が、その体をさらに小さくして、うずくまるように腰を下ろしている。
彼女を保健室から連れ出して車に乗せるのは困難な作業だと思っていたが、拍子抜けするほど簡単だった。ひとりで保健室を訪れた際、養護教諭に怪しまれた様子もなかった。「稲口美佳と少し話をしたい」と言うと、簡単に了承した。稲口美佳の担任教師であり、普段から気さくに話せ、生徒に人気のある教師像を演じていたのが功を奏したようだ。
それに加えて、この稲口美佳が自分の言うことに素直に従ったことも大きい。あのとき、校長、高薮教諭とともに刑事連中に聴取を受けていた、あのとき、まさか、稲口美佳が窓の外に潜んでいたとは……。であれば、“あのこと”も聞かれていたに違いない。自分が渡浦礼衣子を殺したのが、実際は零時を回った時刻だったということも。これにより稲口美佳は、自分が渡浦殺しの犯人として逮捕されたのなら、十四歳になった時点での犯行となるため、刑罰を受ける対象となることも理解しただろうに。あの場でパニックを起こしてわめき散らしたり、自分との関係を暴露したりしなかったことは褒めてやりたい。自分が見込んだとおり、この稲口美佳というのは素直で大人しい少女なのだ。それに引き換え……。
ふう、と津吹はため息を漏らした。あの渡浦礼衣子に手を出したのは、完全に失敗だった。まさか、あんなに気の強い女だったとは。津吹は、稲口美佳のことは“少女”と形容して間違いないと思ったが、渡浦礼衣子は中学生とはいえ、すでに立派な“女”だった。まさか、本気で自分との結婚を考えていたとは……。深夜に突然「会って話がしたい」と連絡をもらったときは、心中穏やかではなかった。場所として、街中のビルとビルとの間を指定されたときは、これは、と覚悟をした。あんな人気のないところで何を話し合おうというのか……。目的はひとつしかないと確信した。渡浦礼衣子は、自分を殺すつもりなのだと。
津吹が、教育委員会の重鎮の娘と、すでに婚約の段取りが進んでいることを、渡浦礼衣子は、どこぞから聞きつけてきたに違いない。そして、自分が遊ばれているだけだということも理解したのだろう。
結果的に、その推察は当たっていた。渡浦礼衣子は津吹を殺すつもりだったのだ。その証拠に、渡浦礼衣子は包丁を所持していた。だが、正当防衛は通用するまい。なぜなら、先に手を出したのは津吹のほうだったからだ。自分をなじる渡浦礼衣子の口ぶりに激高して、思わず突き飛ばしてしまったのだ。包丁は動かなくなった彼女の懐から発見した。津吹はそれを持ち帰らざるを得なかった。なぜなら、その包丁は自分のものだったからだ。中学生の身で刃物を購入することは目立つし、自宅のものを持ち出せばすぐにばれてしまうだろう。渡浦礼衣子は、渡されていた合鍵を使って津吹のアパートから凶器を調達したのだ。津吹に対する当てつけの意味も含まれていたのかもしれない。深夜にも関わらず、制服姿で現れたこともだ。“お前は未成年の、しかも、中学生に手を出している”それを強く印象づけて、負い目を被せるのが目的だったのかもしれない。
だが……すべては終わったことだ。……いや。津吹は、また助手席に目をやった。最後の仕事が残っている。渡浦礼衣子との繋がりから、稲口美佳にも手を出したことは、結果的に正解だったといえるだろう。渡浦礼衣子が喋ったのか、それとも、少女特有の鋭い勘が働いたのか、津吹と渡浦礼衣子との関係には早い段階で気づいていたようだったが。
大人しくて従順な稲口美佳。彼女には最後の仕事が残っている。津吹は後部座席を振り返った。そこに無造作に置かれている鞄の中には、太く丈夫なロープが入っている。これから向かう山で、稲口美佳は、“渡浦礼衣子殺しの罪を悔いて自殺する”。そのために用意したロープだった。
正面に視線を戻した津吹彰は、バックミラーに映る車影を見た。どこかで見覚えのある車。確か、今日、学校の駐車場で……。