♰♰♰ 甘い罠の香りの漂う廊下 ♰♰♰
校舎の廊下の壁に貼られている 『 廊下を走るべからず。 』と書かれているルールは生徒達にとっては破る為に張ってあるようなものだった。
夏の頃は若いエネルギーを教室だけに留めて置く事ができず、張り紙が張られてある廊下をさんざん駆け回った。だが、それも季節は冬になると凍える風の通り道である廊下は誰も通らなくなり、皆が教室に篭るようになった。廊下に張られてある張り紙も誰も通らなくなった廊下では冷たい風が張り紙の後ろを通過するだけで冬の廊下はとても物静かで物寂しげだ。
だが、時期はまだ肌寒い2月でも今日だけは1日限定の早い春が訪れる。
今日は2月14日、バレンタインデーの日だ。
この日だけは肌寒い風が通る廊下も人通りが多くなり、暖かい熱気が漂い、冬なのに学校全体がまるで春のお祭り状態だった。特に一番盛り上がっているのが3年生の教室がある4階だ。まだ学校に登校しに来たばかりの時間にも関わらず、3年生の女子生徒達が廊下を盛んに行き来している。廊下はかつての活気を取り戻していた。なにしろ今日は高校生活最後のバレンタインデーであり、これを過ぎたらもう2度と合えなくなるかもしれない。だからこそ卒業間近の3年生の女の子達には友達や彼氏、片思いの相手やもしくは義理チョコをあげるだけの相手にチョコを渡そうと今日は一段とはりきっていた。ここまで人生が進むと今まで仲良くしてきた友人とも卒業を機に会わなくなるなんてよくある話だとわかってくる。理解しすぎているからこそ生徒達にとっては別れる前が重要なのだ。
朝から女の子たちに占領された廊下を黒川亮は苦労しながら自分の教室へと向かっていた。
黒川の教室は4階まで階段を上がった場所から一番奥の突き当たりのなんとも不憫な所にあってそこまでの遠い道のりで廊下を行き来する女子達に身体をぶつけられたり、チョコを渡したついでにまるで近所のおばちゃんたちのように道をふさいで大声を出して立ち話をしている女子達に通行の邪魔をされたり、数多くの苦難を乗り越えながらも黒川は教室へと向かって行った。
しかし、こんなに大勢の女の子達が廊下に集まっているのにも関わらず誰一人も自分に声をかけてくれる子がいないなんて・・・なんで俺は辛い思いをしてまで学校に来てしまったのだろう?
と黒川は心の中でぶつぶつ愚痴を吐いていたらいきなり同じ3年生でクラスが違う名城和也が黒川の目の前を横切った。黒川は危うく名城とぶつかりそうになる所だった。関わるとろくな目に合わない奴と関わらずにすんで黒川はほっと胸を撫で下ろした。
名城が自分の教室に入ろうとしていた寸前で背後から呼び止められて名城は後ろを振り向くと大人しそうな可愛い下級生の女の子が手にチョコを持って名城に話しかけた。名城はというと教室と廊下の狭間にある扉の前で口の中にあるガムをくちゃくちゃとわざと大げさに音を立てながらチョコを持っている女の子の話を早く終わらないかなと退屈そうに聞いていた。女の子の方はというと自分のドラマの世界にすっかり入り込んで自分がいかに名城の事を思っていたのかを話していたのだが、まるで見返りを期待しているかのようにも聴こえる。名城の耳にはイヤホンをつけたままずっとヴァーヴのビタースウィート・シンフォニーを聴いていた。名城の存在は下級生から他校の生徒にまで知れ渡っていた。非常に悪い意味で。だが、どういうワケなのかかわいい女の子に限って悪いヤツに惚れる。ベッドで一度やったらゴミクズのようにあっさりとやり捨てをする話が絶えないにも関わらず。賢い子や男を知り尽くした成熟した女の子たちは危険だとすぐわかる男なんかに近づこうとはしないのだが、乙女心は複雑怪奇でかっこよくて悪ぶった男になぜか惹かれてしまう。自分は名城に捨てられるような大勢の中の一人じゃない。自分だけは彼の特別なのだとなぜか少女漫画に出てくる救世主聖少女ヒロインにでもなった気で妄想を大いに膨らませていった。そして新たに犠牲者になる女の子が顔を赤く染めて恥ずかしがりながらもチョコを名城和也に渡した。名城はガムをくちゃくちゃと音を立てて噛みながら無言でそのチョコを受け取るとチョコを渡した女の子が見ている目の前で堂々と教室の扉の近くに置いてあるごみ箱にチョコを捨てた。目の前で自分のチョコを捨てられたのを見た女の子はすぐに悲劇のヒロインを演じているかのように泣きだしてしまった。名城和也は振り向く事もなく教室の中へと消えて行った。
一部始終を目撃してしまった黒川は俺だったらあんなひどい真似はしない!チョコを貰った事がないけど・・・・と思いながらも心のどこかでは名城の事を羨ましくもあった。
黒川は勿論、バレンタインデーになるといつも負け組にいる側だ。
彼女いない暦は年齢と同じ。容姿は普通、成績は中の中、スポーツは走るのは早いが辛いのを我慢するほどの根性はない。友達は広くて多いが、けしてクラスの人気者というわけではない。
ようするに平凡で何一つ取り柄はないが没個性がまさにこの学校の模範になる囚人の生徒だった。
「ねぇ、ちょっと待って!」
後ろからいきなり女の子の甘ったるい声がしたから黒川はもしかして俺の事を呼んだ!?と期待を込めて後ろを振り向いた。
「はぁ~い!アキラくぅ~ん!これ私からのチョコをあげる!」
背後から声をかけてきた女の子の矢田さんはちょうど黒川の隣にいた彼氏の大曽根にチョコを渡そうとしただけであった。大曽根は彼女からのチョコを受け取ろうとしていた。
黒川はふん、どうせこうなるだろうと思っていたさ。と自らを自虐的にあざ笑う事で自分を慰めていた。
だが心の奥では泣いていた。バレンタインデーを迎えるたびに今まで母親以外の異性の女の子からチョコを貰えなかったという虚しい勲章だけが増えていく。
今年もどうせ義理チョコでさえもらえないだろうな。と憂鬱な気分でバレンタインデーの日の朝を迎えた。
学校に行けばチョコを貰える勝ち組と貰えなかった負け組の自分を比較してしまい惨めな思いをするだけなのに嫌な思いをしてまで学校に行くのはなんだか自分で自分を拷問しているようだ。
だが、それでも心の底ではもしかして今年こそは!という密かな期待を捨てきれなくて黒川は結局、今年のバレンタインデーの日も学校に来てしまった。
その選択が果たして吉とでるのか凶とでるのか・・・。
「ちょと、邪魔だからそこどいて。」
その声がした瞬間、大曽根の視界から矢田さんとこの手に受け取っているはずの矢田さんのチョコが消えた。矢田さんが横から何者かにいきなり吹き飛ばされた。今頃、彼女からのチョコを受け取っていたはずの大曽根の手には替わりに別のチョコを持たされていた。
「大曽根く~ん!はいっ!これみきからのチョコね!」
彼女を突き飛ばした犯人である中村みきは矢田さんよりも先に大曽根にチョコを渡した。
「このチョコはけっっっしてスーパーで売れ残り半額セールの物じゃないから安心して!」
大曽根が手元にあるチョコの包装紙を見ると割引シールらしきものを剥がした後がちゃんと残っている。
「正真正銘のみきの手作りチョコだから!大曽根くんもみきからのチョコを欲しかったでしょ!そうでしょ!喜んでいるに決まっているよね~顔にはちゃ~んと書いてあるもん!」
大曽根の顔は誰がどう見てもどん引きしている顔をしていた。
「ホワイトデーは絶対に忘れないでね!もちろん3倍返しよ。そのくらいしても当然よね。だってみきからチョコを貰えたのだもんっ!」
「って、おい!君とはクラスも学年も違うし、僕は君の名前すら知らないし、第一、今まで君と話した事なんてあったっけ?」
「話した事がなくてもかっこいい男の子はみ~んな、みきからのチョコを欲しがっている事くらいみきはわかっている!」
「はいっ???」
大曽根は初めて宇宙人を見たかのように中村みきの事を見ていた。
「ねぇ!ちょっと!!ここに彼女がいる事忘れてない!???」
矢田さんは痛そうに腰をさすりながら中村みきのスカートの裾をひっぱった。
「あら、まだいたの?」
「まだいたの?って!」
中村みきに彼女もちの男の子にチョコを渡してはいけないというルールは通用しない。
「あ、八事くぅ~ん!みきから八事くんにチョコをあげるぅぅぅ~!けっっっっしてスーパーで売れ残り半額セールの物じゃないから~」
中村みきは次なるチョコを渡すターゲットを見つけると大曽根の事なんてすでにどうでもいいみたいに放置してすぐさま次のターゲットへと移った。
中村みきが去った後の大曽根はまるでばい菌だらけの物を持つように中村みきから貰ったチョコを摘み、ちょうど近くにいた同級生の男子生徒にチョコを押し付けたが、同級生は露骨に嫌そうな顔をして手を振って断った。