♰♰ ニーチェはかく語りき ♰♰
冬の早朝は日が登るのが遅い。
水色と茜色が混じり澄み切った紫色の雲がまるで印象派の画家たちが描いた空のよう。早朝の新鮮な空気は体を充分に動かして汗を流しきった生徒達の血液の流れを活発にさせた。澄み切った雲の隙間からまばゆい陽光が大地を刺してきた。空が徐々に明るくなり、太陽が高く登るにつれて木々の影も伸びて行くと2つの校舎は太陽の光で黄金の色に照らされていた。朝食にありつけた鳥たちの賛歌があちこちで響きわたり、それに混じって部活のユニフォームから制服に着替え直した朝練を終えたばかりの生徒達が白い息を吐きちらして麗らかにしゃべりながら黄金に輝く2つの校舎の中へと飲み込まれるかのように次々と姿を消して行った。
だが、光がある場所には影も出来る。
平行に二つ並んでいる校舎の隣にある体育館の裏には体育館の影のせいで日がまったく当たらずに深く茂っている暗い森に囲まれたテニスコート場があった。先輩部員達が使った用具をコートにほかりっぱなしにして自分達は早々と校舎へと引き上げて行った後の用具の片付けをしているは1年生の男子テニス部員の【幸次】だ。
幸次は腰をしゃがんでコートに散らばったボールをひとつずつ拾いあげてはボールカゴに入れた。同じ1年生の女子部員達なら用具の片付けは皆で協力しあう事に決めているが、これが男だと下っ端の仕事は下っ端にやらせるのが当然という風潮だ。だから朝練が終えた後で最後にコートに残った負け犬が最後の片付けを行う男子テニス部員の独自のルールを背負わされた今日の負け犬になった幸次が負け犬ルールがおかしいと疑わずに今日の自分はツキがなかったとだけと思いながらしぶしぶと負け犬の務めをしていた。
幸次はコートに置きっぱなしのラケットをつかんで自身の脇に挟むと足元にあるテニスボールに手を伸ばそうとした。指先にボールが触れた途端、ボールは風も吹いていないのに勝手に前へと転がっていった。テニスボールはころころと転がりコートと森を隔てる網状の柵に当たった途端に柵の後ろにある森がざっ・・・と木々のざわめきが響き渡った。まるで森が意思を持って幸次のことを嘲笑っているかのように。幸次は叫び声をあげて逃げ出したくなった。だが早くここから立ち去るにはボールを拾わなければならない。幸次は視線を森に向かわないように目線をボールに集中しながら柵の所で止まったボールを掴もうと手を伸ばした。
ふと、誰かに見られているような気がして思わず柵の向こう側にある森の奥を覗いてしまった。まるで光をすべて飲み込んでいるかのような混じりけのない闇。その闇の中から何者かが自分を見ている。
心臓の鼓動の音がドラムを叩いているかのようにだんだん大きく、そして早く鳴り響いていく。このままだと胸が破裂しそうだ。テニスコートを囲んでいるこの森は長い間まったく手入れがされておらず、木々がほったらかしのままコートを飲み込もとうするかのように枝の触手がコートの中まで伸びてきっている。枯れた落ち葉がテニスコートへと侵食していき、校舎や体育館が光を遮っているせいでテニスコートは常日頃から日当たりが悪く、空気もじめじめしていた。人が通る道がないこの森は学校の生徒から近所の住民でさえ近寄よろうとはしない。まるで幼い頃に聞かされた絵本の中に出てくる魔女の住処のような森だ。幸次は高校に入ったばかりの頃にテニス部の先輩に聴かされたこの学校の近くの田んぼで殺された女性の死体が見つかり、女性を殺した犯人がこの森に潜んでいるという噂があったのをよりによって今ひとりでいる時に限って思いだした。
『 深淵を覗きこむ時、深淵もまたこちらを除きこんでいるのだ。 』
BY.ニーチェ
という言葉が幸次の脳裏によぎった。何かがこの森の中に潜んでいる。今すぐ逃げ出せばいいのに幸次の目はすっかり闇に焼きついて動けなくなってしまった。汗がゆっくりと頬を伝っていく。意を決しテニスボールに指を伸ばしたが幸次の指は震えていた。その時、背後から何者かに背中を激しく押された。バランスをくずして体が前に傾き、幸次の顔はフェンスにぶつかった。
「うわわわわわわわわわわわっっっーーー!!!!!!!」
ぶつかった衝動で頬にフェンスの網の跡がくっきりと残った。