二話・猫かぶりが疲れる
ルリコが助けられて二日目。
ひっきりなしにくる女性達に囲まれ、ルリコは甲斐甲斐しく世話をされていた。
アタミの配慮があるのか、男性はアタミ以来ない。海の屈強なオッサン達と話せ、と言われても微妙だとルリコは思った。
「もう安心おし」
「大変だったでしょ」
「船の上なら安心だから」
「ウチの息子余ってるから嫁に来る?」
どうやら“暴行を受けて海に逃げ出した異国の娘”と思われているようだった。
当然、嫁の件はやんわりと断った。
そんなんじゃないです嘘付きまくって申し訳のうございます、と平伏したい気持ちを抑え、ルリコは嘘を付き続ける事に決めた。
「次に向かうのはどこですか?」
エウラはナイフでマンゴーに似た果物を切り分けている。眼鏡をかけた女性――ドルシアが地図の中央付近を差した。地図には上下左右に大陸があり、大小様々な島々が載っている。使い古しているのか所々破れていた。
「向かってるのは、ここ。群島商人組合のあるセンタナ島の近くのオリ島よ。明後日の朝には着くわ」
今いるのはオ・ル・マリーヴェスタ群島諸国連合、と言うらしい。地図も群島諸国連合仕様で大陸には国の名前しか書かれていない、らしい。地図を見て、ルリコはやはり文字が読めない事を確認した。
群島諸国連合は四つの国から構成されている。南にある大陸に近い島々がノルヴェスタ国。
この船はノルヴェスタ一大きな港、ノルスヴェータから来たとエウラから聞いている。
同じく北大陸近くのソルヴェスタ国、長方形に似た島のソルスヴェータに麦と木材、樹脂に香木などを買い付けて来た帰りだとドルシアから先程聞いた。
そして東にあるのがウェスヴェラ国。最後に一国だけ、王様がいる西のイスタヴェラ王国。一番大きな島に国の名を冠した港がある様だ。但し、中央のセンタナ島は群島商人組合の私有島なので国には属さない。小規模な私有島は結構あるとも聞いた。金持ちが多いらしい。
「国境わかりにくくないですか?」
ルリコが聞くと、ドルシアはエウラが切り分けたマンゴーに竹串を添えてルリコの前に置いた。
「人が住んでる島なら、港や街に必ずどの国か書いてあるわ。船着き場の人も水先人も言ってくれるしね。私有島は大体警備員がいて、一般には封鎖されてる」
書いてあるなら分かりやすい、が文字が読めないのでルリコはマンゴーを食べながら地図を睨んだ。マンゴーは甘くて美味しい。
マンゴーを咀嚼しつつ、先程から地図の一点が気になっているので思いきって聞いてみた。
「この、点線で囲われた場所は何ですか?」
ルリコはソルスヴェータから左斜め下の赤点線で囲われた部分を指差した。点線にそって小さな文字が書いてあるが、ルリコは勿論読めない。
二人は指差した部分を見て、ぴくりと肩を動かした。観念した様に、エウラが話し始める。
「そこは、“人魚の海域”。ルリコがいた場所だよ。大昔は人魚がいて、財宝を積んだ船が幾つも沈められたんだってさ。勿論、今は人魚なんかいないよ」
エウラはグサグサとマンゴーを竹串で刺し、
「夜は発光クラゲや夜光貝なんかがいて、観光地になってる。だけど、今の時期は海竜の繁殖地になってるから、行くつもりじゃなかった。でもルリコ助けられたから皆納得してる」
と、マンゴーを頬張った。
ルリコは疑問に感じた。わざわざ仕事の帰りに寄る場所ではない。助けて貰って聞くのも奇妙だが。
「何故、わがわざ危険な場所に?」
ルリコが尋ねると、ドルシアは両手を胸の前で組み、エウラは目線を彷徨わせたあと、ゴニョゴニョと呟いた。
「………そりゃ、あの船長が」
「エウラ」
ドルシアに睨まれ、エウラは身を竦ませた。ドルシアは前髪を掻き上げながらルリコに微笑んだ。
「ルリコ、仕事があるからもう行かなきゃ。エウラ、あなたも手伝いがあるでし
ょう?」
ドルシアは立ち上がり、食器を片付け始めた。エウラも慌てて続く。ルリコの皿にはマンゴーがまだ残っていたが、二人は食べ終えていた。
「地図はあげるわ、お古でごめんなさいね」
「アタイがお昼持ってくるから、じゃあねルリコ」
「有り難うございました。エウラさん、ドルシアさん」
ルリコは二人を見送ると、腕を伸ばした。話題を逸らされた事も、あまり気にしていない。
(二人より上の人だもんな。雇い主かも知れんし。文句なんか迂濶には言えねぇか……しかし、海竜とは……どんなんだろ。凶暴なんかね。こえっ!)
二人の態度から、船長のせいで危険な海域に来たとわかった。しかし、ルリコにとっては恩人なので礼を言っておこうと思う。
しかし、誰か来ないと暇である。部屋にはベッド、テーブル、椅子三脚、オレンジ色の敷物、ベッドと反対の壁に据え付けてある棚しかない。棚には何も置いていない。
(敬語使わなくてイイのは楽だけど。しゃーねぇ、今度は腹筋でもやるか)
ルリコはマンゴーを食べきり水を飲むと、敷物の上に座り、ベッドの下枠に足をかけた。そのまま頭の後ろで腕を組み、ゆっくりと後ろに倒れる。
(ドアの下少し空いてるから、音ダダ漏れなんだよな。声抑えてー)
ルリコは気合いを入れ、腹筋を始めた。
(四十七、四十八、四十九………五十!)
五十回の腹筋を終えると、ルリコは敷物の上に横になり、深呼吸をする。何気なくドアに目を向けると、灰色の薄っぺらい物が見えた。雑巾でも飛ばされて来たか、と思ったが、動いているのに気付く。
灰色の生き物はゆっくりとルリコがいる部屋に侵入した。薄っぺらい体の下に、同色の無数の足が見える。
「……」
ルリコまで後三メートル程だが、ルリコは動かない。
「…………」
後、二メートル。
「…っぎゃあーーーーーー!」
ルリコは喉が潰れる程の大声で叫んだ。灰色の生き物も何かを感じたのか、敷物の直前で固まっている。
「どうしました!?」
慌ただしくドアを開け、アタミが入って来た。寝ていたのか髪は乱れ、上着は青いシャツを羽織っただけ。下はベルトはせず、足元は裸足だった。
叫んだルリコはベッドの上に爪先立ちで乗り、壁にぴったりと張りついていた。
瞬きもせず、ゆっくりと灰色の生き物を差す。アタミは生き物に気付き、テーブルの近くにあった椅子を手に取った。
ヤツを潰す気だ。
「潰さないで下さーーーーい!」
汁がでるからァーーー!
ルリコは擦れた声で叫んだ。二言目は言葉にならなかったが、アタミは理解したらしい。椅子を置いてから少し迷った後、ズボンのサイドから柄の長いナイフを取り出した。ナイフを投げて刺さった事を確認し、部屋の隅にあった塵取りに載せて部屋を出ていった。
時間経過がわからないまま、ルリコは爪先立ちでベッドの上にいた。普段から鍛えていたので足先が震えたりはしない。
アタミが濡れた塵取りを持ち戻って来た。上着のシャツのボタンは閉まっていたが、ルリコはその事には気付けなかった。ベッドの上で未だ固まっているルリコを見て苦笑した。
「オオイワフナムシ。海中を泳げるから、たまに甲板に上がってくるんだ。毒は持ってないから安心して」
名前なんて聞きたくねぇよ。
ルリコはそう思いつつも体は動かせなかった。全く動かないルリコにアタミは近寄り、壁に付いた両腕を取った。
「…大丈夫?」
アタミは囁くと、ルリコの両腕をゆっくりと下ろしてゆく。下ろされるに連れ、力が抜けてゆき、ずるずるとベッドの上に座り込んだ。アタミの水色の目を見て、落ちついてきたルリコは目を閉じ深呼吸をした。まばたきも忘れていたらしく、薄く涙が滲んだ。
「お休み中、申し訳ありませんでした……」
「いや、起きようと思ってた所だから気にしないで」
アタミが笑うと、軽快な足音が聞こえ、勢い良くドアが開かれた。
「飲みも――」
右手に水差しと籠を抱えたエウラが二人を見て固まった。
ベッドの上に座り込んだルリコの両腕を、立て膝のアタミが掴んでいる。距離は結構、近い。誤解されるには充分な程。
「アタイお邪魔?」
エウラが少し悩んだ後、率直に二人に聞いた。アタミは慌てて立ち上がった。
「な、何を言う!何もない!言い触らすなよ!」
「んー、つまんない」
むきになって言い返すアタミに、ルリコは冷静に(クールかつ簡潔に言わないと逆効果ですぜ)と思っていたが、エウラの足元を見てアタミのシャツを握った。
「る、ルリコ!?」
アタミは更に慌てるが、エウラはニヤニヤしながらテーブルに水差しと籠を置いた。
エウラが近付いて来たので、ルリコは恐る恐る足元を確認する。焦げ茶色のストラップのサンダル、床に面している部分が暗くなっている。灰色の糸に似たものも何本か靴底に付けていた。
ルリコは、素早くアタミの腰に抱き付いた。震えて力が入らないので、サバ折りにはしていない、筈。
抱き付かれたアタミは顔を赤くして盛大に慌て、エウラは「おおっ!」と嬉しそうに声を上げた。
深呼吸を繰り返したルリコは、唇を噛んでから声を絞り出す。
「エウラ……足、付いてる……」
ルリコの声にエウラはサンダルを見て、
「ああ、通路にフナムシいたから全部踏み潰してきた。たまに跳ねてくっつくから腹立つんだよね。甲板なんかうじゃうじゃいるかも」
とあっさり言った。
うじゃうじゃ、という言葉にルリコは意識を飛ばしそうになったが、アタミにキツく抱き付く事により何とか意識を止めるのに成功した。普段通りだったら、完璧にサバ折りにしていた。
「……エウラ、靴を綺麗に洗って来い。廊下も片付けろよ。後、ルリコの前でフナムシの話はするな」
ルリコにしがみ付かれたままアタミが言うと、エウラはびっくりした様に言った。
「えっ、ゴメン!苦手だったんだ!ほんとにゴメン!すぐ洗ってくるから」
エウラは慌てつつも、ゆっくりと出ていった。靴底に付いた足を落とさないように気を使ったのだろう。エウラが出ていったのと同時に、ルリコはアタミの腰から腕を離し、素早く土下座をした。
「重ね重ね、申し訳ありません……」
アタミは堅固な土下座の構えをしたルリコの肩を持ち、顔を上げさせた。申し訳なさ過ぎて目も合わせられない。
「気にしなくていい。私も得意な方じゃないから」
アタミは微笑んだ後、部屋を出ていこうとした。未だにフナムシショックを引きずっていたルリコは慌てて声をかける。
「あの、アタミさん!わたしがいた場所に茶色の革鞄と、白い円筒型の鞄ありませんでしたか!?」
鞄の中には携帯、教科書、ノートは当然の事、予備の下着や使用済みの水着が入っている。どっかのオッサンに拾われて着られたりしたら嫌すぎる、とルリコは顔を青ざめさせた。
「あったよ。ルリコのだったんだ。乾燥室にあるから後で届けさせるよ」
どこからか「副船長ー」と声が聞こえたので、アタミは足早に部屋を出る。エウラが歩いた、少し変色した部分を器用に避けながら。
やはり、裸足は色々ときつい。
「またね、ルリコ」
ドアを閉める前にアタミはそう言うと、足早に通路を歩いていった様だ。
ルリコは取り敢えず、ベッドから降り部屋の隅にあった箒を取って、床を掃き始めた。
エウラの足跡を踏まない様にしながら、鞄を持ってきてもらったら何とかして隙間を塞いでやろう、と固く誓った。