An Ulterior Motive
私には不思議な力が具わっている。それは物心がついた頃からのものだった。私に具わったその力とは、あるはずのないものが見えることだ。この世に存在するはずのないものを、私にははっきりと見ることができるのだ。
あっ、でもね、幽霊とかオバケとか、そんなものが見えるワケじゃないの。私に見えるもの……それは……
……下心……
どんなふうにって言われると説明がしにくい。人間の頭の上に、それこそ風船でもくっつけてるようにフワフワと浮かんでいて、それは雲がかかっているようにボンヤリとして見える。人によってはシュークリームのようでもあるし、ぼやけたおまんじゅうのようでもある。そんなものが、ほとんどの人の頭上で大きくなったり小さくなったりしているのだ。それがいったい何なのか、幼い私には全然わからなかった。でも大きくなるに連れて、だんだんこういうものだって分かるようになってきた。つまり人の下心の大きさを表すものだってことを。
絶対間違いないって確信したのは、繁華街を歩く酔ったオヤジたちの頭の上に、はちきれんばかりの下心がいつもウネウネしているって気づいた時。それから、街角に立っているニヤけたナンパボーイズとか、評判のエロ教授が女子生徒に話しかける時とか。先輩が合コンのお誘いに来た時など、その頭上を見ると見事なまでの下心がパンパンに膨れ上がっている。
下心って言っても、何も男の人にしかないものじゃない。むしろ女の方が複雑怪奇な下心を膨らませている場合だってある。私の友人のシホリンなんかは、見た目はすっごい奥手で男の前では言いたいことの一割も言えないような仕草を見せているけど、その実びっくりするような下心が嵐を巻き起こす黒雲のように渦巻いていて、その猫のかぶりようは驚きのひと言だ。
普通、男の人の下心はエッチなことが目的だろうけど、女の下心はそれだけじゃないようだ。例えば美味しいものを食べさせて欲しいとか、高価なプレゼントが欲しいとか、人よりもチヤホヤされたいだけっていう単純なモノもある。
化粧なんかも考えてみれば下心の一種かも知れない。確かに女子トイレや化粧室の鏡の前で顔をいじくりまわしている女達の頭上には、キューピッドが好んで狙うハートみたいな下心がフワフワ漂っている。
他に異性目的以外で下心がふくれる場合といえば、例えばセールスマンや店員さんが商品を勧めている時は間違いなく下心は大きくなっているし、国会中継なんか見ていると下心の風船でほとんど議員さんの姿が見えなくなるほどだ。
でも、だいたいにおいて男女とも、異性とすれ違ったり会話したりすると下心が大きく膨れ上がる。それは勿論、年齢差や個人差もあるのだが。特にほとんどの男性は下心を持っている。すごくクールに決めているイケメン君がどんなにカッコつけていても、その頭の上のブワッと膨らんだ下心を見たら、もう可笑しくてたまらない。
と、まあそんな感じで十九年間、私は人の下心を見ながら人生を送ってきたわけだ。だから私は正直言って、今まで心からのめりこめるような恋愛をしたことがまだない。どんなに素敵な男性だと思ってみても、その頭の上を見てしまったとたん興ざめしてしまうからだ。
私も今までに何度か好きな人ができて交際したこともあったけど、そのどれもが長続きはしなかった。そして彼氏のひとりもいないまま、大学二年の春を迎えてしまった。
池内いづみ、それが私の名前だ。
私の能力のことは誰も知らない。幼いころ親に何度も説明したが、まったく取り合ってくれなかった。病院に連れて行かれても、少女の妄想で済まされてしまった。だからそれ以来、人にはいっさい話をしていない。
だいたいどうして神様は私にこんな無意味な力をくださったのだろう。損にも得にもなりゃしないこんな力を。
明らかに普通の人にはないこんな力を持ったせいで、思春期の頃はけっこう悩んだりもした。でも多かれ少なかれ、人間はみんな下心を持っているものなんだということが分かってきた。だからそんなもの、あって当然、ない方がおかしいと、いつしか思うようになった。そうだ、すべての人が下心を持っている。そう信じていたんだ。
彼に会うまでは……。
彼、島貫雄哉をグラウンドで見たのは、梅雨が明けた夏の初めの夕暮れだった。彼は白いタンクトップと短パンを泥や汗で真っ黒にしながら、ただひたすらにトラックを走っていた。私は彼の名前だけはなんとなく覚えていた。一年の頃は同じ教室で学んでいて、挨拶くらいは交わしたかも知れない。だからお互いにまったく知らない仲ではないはずなのに、ほとんど記憶に残ってないのは彼の印象があまりにも薄いからだった。それほどどこにでもいるような平凡極まりない男子にすぎなかったのだ。
でも私はその時……。帰りがけに立ち寄った学食の自動販売機で買った麦茶を飲みながら、陽炎ゆれるグラウンドに目を向けた時……。そう、その時、私は気づいてしまった。
トラックを走る彼の頭上に下心が見えないことを……。
だいたいスポーツなどに打ち込んでいる場合、下心が極端に小さくなる場合がある。だからと言って、スポーツをしていたらみんな下心が小さくなるわけではない。むしろ逆に膨れ上がっている時もある。
例えば注目されたいと思った時や、異性のコスチュームに目を奪われた時。いや、異性のことばかりではない。敵を頭脳プレイでひっかけてやろうと画策している時や、試合の流れを奪われてしまい、起死回生のチャンスを狙っている時。それから、チームの仲間にまかせて自分は楽をしようと考えている時とか、審判の目をごまかそうとしている時など、数えればたくさんある。だからスポーツ選手でも下心はじゅうぶん膨らむのだ。
それなのに、彼には下心がぜんぜん見えなかった。本当に無心で走っているんだ。私は思わずグラウンドで走る彼の方へと引き寄せられるように近付いて行った。
彼は陸上部の選手だった。距離からして400メートル走。激しい息遣いと流れ出す汗が、近付くにつれてひしひしと伝わって来た。
「48秒56!ダメだ、全然伸びてない!こんなんじゃいくら走っても同じことだっ!」
ストップウォッチを握ったコーチがゴールを駆け抜けて倒れ込んだ彼を怒鳴りつけた。彼はそれに耳を傾けようともせず、地面に寝転んだままでひたすら激しい呼吸を繰り返している。そんな彼のそばに立ったコーチは、両手を腰にあてがいながら彼を見下ろして言う。
「おい、分かってんのか?大会まであとわずかなんだぞ!?このままじゃ予選落ち確実だぞ!?ただでさえ他の大学のレベルは大幅に上がってんだ。もっとやる気を出せよ!喰らいつく気持ちになってみろ!」
彼はただゼイゼイと苦しそうな息を繰り返すだけで、コーチの叱咤が耳に入っているのかどうかも分からない。コーチは腕時計を見て両手を広げた。それから彼を指差して怒鳴った。
「いいか!?もうあれこれ細かなことを言うつもりはない!もうそんな時期は終わったんだ!今まで俺が教えて来たことをもう一度頭の中でよく思い出せ!それを理解しろ!きっちりやって見せるんだ!分かったか!?」
コーチはそれだけ言うと後も振り返らず、校舎の方へ去って行った。グラウンドの真ん中では、彼が地面に仰向けに寝転んだままで、胸と腹を激しく上下させて呼吸を繰り返していた。
どうして彼には下心がないんだろう。私は不思議でならなかった。今、彼は厳しい練習のせいで心が完全に無になっているのだろうか。それでも少しも下心がないなんて考えられなかった。まさか命が危険な状態?そんなことすら考えてしまうくらい、私にとってはすごいことだった。だから思い切って実験してみることにしたのだ。
私は彼が寝転んでいるすぐそばまで静かに歩み寄ると、彼の頭のすぐよこで正面からしゃがみ込み、なるだけ笑顔で話しかけた。
「こんにちは。練習、大変ね。」
今まで彼は呼吸することで必死だったから、目を閉じたままでいて私のことなど全然気づかなかった。だからいきなり私に声をかけられて、寝転んだままハッとするように私を見た。そう、私のスカートの中を。
きっと私の白い下着が彼の目に映っているはずだ。これで下心がムクムクと膨れ上がるだろう。私はそれを期待した。だが残念なことに、私は見事に裏切られてしまった。彼の下心はまったく膨らまなかったのである。
彼はハアハアと呼吸を続けながらも、私の下着と顔を交互に見て言った。
「パンツ、見えてんぞ!」
期待を裏切られた私の気持ちを、誰が理解してくれるだろう。私は正直、少し腹立たしく思っていた。
「えっち!」
そう言うと、彼は笑うほどもなくフッと笑って私から目をそらした。
「頭おかしーんじゃね?意味わかんね。」
それから彼は、スッと立ち上がるとストレッチを始めた。私も立ち上がると彼のそばで少し彼をにらみ付けるように見ていた。やはり彼に下心は表れない。ただ彼の汗と、焼けるような土の匂いが私を取り巻いているだけだ。こんなに近くで見る彼は、思った以上に身長が高かった。
「お前、腕時計持ってんだろ?」
突然、彼がそう言った。「え?あ、うん。」と、私がうなずくと「もう一度走るからさ。お前タイム計ってくれよ。」などといって来た。
「なんで?」と聞き返した私に対する彼の放った答えがこれだ。
「無理やり汚いパンツ見せたんだから、それぐらい手伝えよ。」
ヒドイっ!
そのあまりに恥知らずなひと言で、私は後も振り返らずさっさとその場を立ち去って行ったのである。なんて無礼な言い方だろう。言うにことかいて、汚いパンツだなんて!これでも下ろしたてのお気に入りを履いてたんだぞ!下着売り場で三時間も悩んでバイト代はたいて買ったイイやつなんだぞ!でなきゃ見せてやるか!
私は込み上げる怒りで顔を真っ赤にしながらトイレに駆け込むと、いそいで下着をチェックした。そしてヤツの目はフシアナだと、心の中で叫んだ。
次の日、セミナーを聞き終えた私は教室を移動している途中、廊下でヤツに出くわした。アイツは男の友人ふたりと窓ぎわで会話をしていた。相変わらず彼の頭の上には下心がなかった。私は昨日のこともあって、知らん顔をしながら彼の前を通り過ぎようとした。すると彼が私を見つけて声をかけて来た。
「池内!」
彼は私の名前を知っていたんだ!
私はその場で立ち止まると、キッとヤツを見据えた。
「やっぱり池内で合ってた?ちょい自信なかったんだ。」
夏を思わせるふうに伸びた髪を揺らせながら、下心のない彼はニコリともせず私を見ている。
「で、何か用?」
「あ、いや、別に用ってほどじゃないけど。昨日、もしかして怒らせちゃったかなって思って。」
へえー。気にしてたんだ。にしたって、もしかしてって……。普通女の子に「汚い」は禁句だろう。しかもパンツだよ、あんた。
「別に……。ヘンなもん見せた私が悪いんだから……。用がないなら行くけど?」
思いっきり嫌味を込めて言ったつもりだが、果たして効果はあったのだろうか?彼の後ろでは、彼の友人たちがニヤニヤしながらこっちを見ている。そのふたりの頭上には、あんなにも立派な下心がドキドキしているっていうのに、なんで彼にだけはそれがないのだろう。やっぱり私は不思議でならなかった。
「ああ、呼び止めて悪かったな。じゃあな。」
そう彼が言うものだから、私はもう少し彼に絡んでみたくなった。
「ねえ、ひとつ聞いていい?」
「なに?」
あいかわらずぶっきらぼうな彼がこっちに振り向く。私は彼の友人たちにも聞えるように聞いてみた。
「あなたって、ゲイ?」
いきなりふたりの友人は顔を見合わせて吹き出した。彼は表情をまったく変えず、じっと私を見つめている。私は期待を込めて彼の返答を待った。彼は何て答えようか返事に困っているらしく、空を見上げて頭を掻いたり、腕組みをしたりして返事を延ばした。だってどう考えたっておかしい。こんなに魅力的な(と自分で言ってしまうか!)私を目の前にして全然下心が沸かないなんて、世の中を悟りきった聖人君子でない限りは女に興味がないゲイか、それともこの私に女としての魅力が全然ないかのどちらかだ。もしも後者だったら立ち直れない。そう思っていた彼の名前を、遠くから呼ぶ可愛い声がした。
「雄哉!ごめん、待った!?」
彼の元に駆け寄って来たのはあまり見かけない娘だった。おそらく他所の学部の子だろう。ちょっとハデ目の流行の服を身に着け、明るい色の髪にはアクセをいっぱいぶら下げている。こんなのが好みなのか……。趣味を疑いたくなる。
彼女の方も怪訝な顔で私にガンを飛ばしておいて、彼の腕に思いっきり抱きつくと私から彼を遠ざけるように引っ張って行った。
「ねえ、何よアレ。」
「なにって、ただ話ししてただけ。」
「ホントにぃ?もう、アタシだって大会過ぎるまでデート我慢してんだからね!ヘンな気おこさないでよね。」
「ヘンな気って?何言ってんの?」
「ンもうぅ!分かってるでしょぉー。」
彼の胸に人差し指を押し付けている彼女の下心は、破裂寸前の風船みたいに膨らんでいる。それに比べてあんなに胸のはだけた服の彼女に引っ付かれて甘えられている彼には下心は全然現れない。私はなんだか馬鹿らしくなってその場を後にした。でもなんだか私の心の奥底に、チクチクとした嫌なものが芽生えてしまったような気がした。
二日後、私が学食でお昼を食べていると、あの彼女が現れた。彼女はズカズカと私の前にやって来ると、怖い顔をして私をにらみつけた。
「あんた、ヒトのカレシ誘惑してんじゃないわよ!」
「誘惑?そんなことしてないケド?」
私はあまり相手にしない方がいいと思った。でも彼女はけっこう頭にきているみたいだ。もしかしたら何かあったのかも知れない。私は冷静に受け流すことにした。だが彼女の鼻息は荒かった。
「よくも涼しい顔してそんなこと言えたものね!あんたのせいでアタシたち気まずくなってんだよ!どうしてくれんのサ!」
「私のせい?関係ないでしょ?あなたに魅力がないからじゃないの?」
ああ、やっちゃったって、すぐにそう思った。何もそこまで言わなくてもよかった。でも言っちゃった。だって彼女がいくら胸をすりよせても、彼の下心はちっとも大きくなりゃしなかったんだもの。それは魅力がないってことじゃないのかな。
すると彼女は目の前に置いてあった、私の麦茶が入ったコップを引っつかむなり、中身を私の顔めがけてぶっかけたのだ。私は頭から麦茶を滴らせて学食の注目にさらされた。
「このドロボウネコ!」
彼女は大きな声でそんなオマケまで私に吐き捨て、学食を飛び出して行った。後に残された私は周囲の失笑に耐えながら、ずぶぬれになった髪や衣服、それにメイクをどうするか考えていた。
ああ、これってまるでドラマの一場面じゃないのよ。こんなことって、やっぱ実生活でもあるんだ。始めての経験。別に本当に誘惑したとかでもないのにな。
そのあと私は女子トイレに入ると、濡れた髪を小さなハンカチで拭き、メイクを整えながら思った。あれが麦茶でよかったって。もしコーヒーやミルクだったら悲惨なことになってただろう。麦茶なら乾いてしまえばぜんぜん平気。ちょっと麦茶臭いケドね。
「よう、ミユキが迷惑かけたんだってな。」
その日、私が帰ろうとしていた所に、タンクトップと短パンの彼が駆け寄って来た。ミユキっていうのはたぶん私に麦茶をブッかけたあの子のことだろう。今では私は髪も服も心も乾いていたからどうでもよかった。
「うん、迷惑ってホドでもないけどね。ちょっと言いがかりつけられた。別になんとも思ってないけど。」
「そっか。まさかそんなことするって思ってなかったからな。悪ィな。」
あんまり誠意の感じられない謝罪だった。まあ彼もそれほど悪いことしたとは思ってないだろうし。
「でもサ、私が誘惑したなんて言わないでくれる?なんかヤらしいみたいじゃん。」
「え?だって誘惑しただろ?」
「してない!」
すると彼は腕組みをしながら私を見下ろした。
「世間一般の基準じゃ、女の方からパンツを見せてくるのを誘惑って言うと思うんだが?」
なので私は即座に言い返した。
「たまたま見えてラッキーっていう発想はないんだ。キミには。」
「アレがたまたまねえ……。ま、別にいいけどな。そういうことにしといてやるさ。」
彼はそう言ってその場を立ち去ろうとした。私はなんだか引っかかるものを感じて彼を引き止めた。
「ねえ、島貫クン。」
「ん?」
「その……、私のせいで彼女とケンカしちゃったの?」
すると彼は鼻で軽く笑った。
「フッ!違う違う!お前の話が出た時はもうかなりヤバくなってたよ。お前のコトはついでみたいなモンさ。」
そのついでで私は麦茶をかぶったのか……。なんかむかつく。
「ねえ。彼女っていつもああなの?もうちょっとしっかり付き合ってあげたら?」
余計なお世話かも知れないけど、なんかひとこと言っておきたかった。でも彼は困ったような顔をした。
「あいつさ、勝手に告ってきて無理やり彼女になっちまったんだよな。オレはそんな気なかったんだけどさ。」
「何それ?キミっていい加減すぎやしない?」
「そうか?なんか俺ってさ、あんまそういうのに疎いっていうか……。女に興味ないのかなあ……。」
「やっぱゲイなんだ!」
「ちがうって!……たぶん。だいたい男になんか興味ねえし……。」
なんかヘンなやつ……。
「そんなんじゃ可愛そうじゃん?もっと彼女と真剣に付き合ってあげたら?」
「いや、実はもう別れたんだ、昨日ケンカした時に。いいかげんハッキリさせないといけないと思ってさ。」
なんだか彼は人事のようにそう言った。
「なんでケンカしたの?」
「うん?それは、ほら……。手ェ出してくれないって泣かれちゃってさ。」
「ふーん、何もしなかったんだ。」
「だってその気になれないんだからしょうがねえだろ?」
「もったいない!いいじゃん、少しくらい。減るもんじゃなし!」
「お前が言うようなことじゃねえだろ!」
私達は顔を見合わせて笑った。でもすぐに彼の笑顔は曇った。
「オレ、少なくとも大会までは他のこと考えたくねえんだ。」
そうか。彼は今、それに賭けているのか。
「大会っていつ?」
「今度の日曜。」
「そんなに大事なの?大会って。」
私のその問いに、彼は晴れ渡った空を見上げながら言った。
「ああ……。絶対に決勝に出なきゃならないんだ。できれば決勝で三位以内に入りたい!そうじゃなきゃオレは……。今まで走ってきた意味をなくしちまう……。」
「なんか重たいよ。」
彼は少し間を置いた。
「重たいさ……。毎日毎日、息ができなくなるくらい走った。何度もこんなことして何になるって自分に問いかけて来た。その問いかけに対する答えを、俺自身に見つけてやらなきゃいけない。」
彼はそう言って、ゆっくりグラウンドに向かって歩き出した。私はそんな彼の背中を見送った。
「ねえ!応援に行ってもいい?今度の日曜!」
遠くに行った彼にそう叫ぶと、彼はこっちに振り向いてくれた。
「いいけど……、日に焼けるぞ!」
『400メートル走とは、400メートルを走る速さを競う陸上競技である。陸上トラックを一周するが、一般的に短距離走に分類される。レースには瞬発力だけでなく、フィニッシュまでできる限りスピードを落とさずに走りきる持久力も必要である。この400メートルという距離は、医学的に「人間がスプリントで走りきれる限界の距離」とされており、そのために大変過酷なレースとされている。』
あ、これはインターネットのウィキペディアに書いてあったこと。実は私は400メートル走のことなんか全然しらないのだ。だから私はスタートからゴールまで、彼がどこをどんな風にどんな表情で走っていても、それが何を意味するのかなんて全然わからない。ただ少しでも早く、ひとりでも先へ走ってほしい。そんな気持ちで応援することにした。
なんでも人に聞いた話だと、短距離走っていうのはスタートからゴールまで息をしないんだそうだ。全力疾走だから息をしている暇なんてないらしい。その短距離走の中でも最も長い距離を走るのが400メートル走になるため、人間の限界に挑む競技なんだそうな。うん、勉強になった(笑)
さて、長い長い陸上競技大会のうちで、彼が力を出せるのはほんの一分たらず。その出番の時が刻一刻と近付いて来ている。男子400メートル予選B組。彼の名前はその名簿の中にあった。
観客席に照りつける日差しは真夏のように厳しくて、私の肌はあふれ出る汗と容赦ない紫外線の放射にパニックをおこしそうだ。つばの広い帽子を風に飛ばされないように片手で抑えながら、あざやかなオレンジ色のトラックを見守る私の視界に、やっと彼が姿を現した。たった一分弱しかない戦いに臨むために。私の心臓は、なぜか自分のことのように高鳴った。
400メートル走のスタートは、トラックのカーブの位置から始まる。ゴールまで必ず自分のレーンを走らなくてはいけないため、トラックの内側から外側にかけてスタート位置が少しずつずれている。彼は第三レーンだ。軽いストレッチをしながら自分のスターティングブロックに歩み寄った彼の頭上には、相変わらず下心はかけらも見えなかった。その隣のレーンにいる人なんて、あきれるほど大きな下心を漂わせているというのに。
スターターからの指示で、八人の走者はスターティングブロックに足を置いてクラウチングスタートの姿勢を取った。この中から上位四人だけが決勝に駒を進めることができる。彼はただ地面についた両手のちょうど中間を見つめている。いや、目を閉じているのかもしれない。時おり流れる風だけが、彼の髪の毛をなでつけていた。
スターターがピストルを高く掲げた。選手たちは一斉にお尻を持ち上げた。パーンという音が会場にこだまする。と同時に八人の選手はその場を勢いよく飛び出す。でも彼は……。
出遅れた!完全にダメだ!これでお終いだ!
そう思った私はがっくりと椅子に座り込もうとした。でもなぜか駆け出した他の選手たちも走ることをやめてスタート地点に戻りはじめた。
さっきの下心パンパンの人だ!アイツがフライングをしたんだ。あの下心はそういうコトだったのか。
そう、やっぱり彼も下心を持たなきゃいけない。あんなに無になって走るから、敵を蹴落としてでも前に進みたいって気持ちのライバルたちに負けるんだ。彼にないものはそんな競争心なんだ。私はその場で立ち上がると、声が張り裂けんばかりに彼を応援した。
「がんばれーっ!しまぬきーっ!」
二度目のピストルが火を吹いた。今度はみんな一斉に飛び出した。スタート地点がずれているので、私にはすぐに順位は分からなかった。ただ気づいたら私は、その場で飛び跳ねながらキャーキャー叫んでいたようだ。最初の直線コースで徐々に優劣がついてくる。そしてカーブ。ほとんど横一列に並んでいるようだ。その中からひとり抜け、ふたり抜け、最後の直線コースに差し掛かった時には彼は五位にいた。四位との差はほんのわずか。体半分だ。ここで失速するか、維持するか。ゴールまではもう僅かしかない。私は思わず両手を合わせて目を閉じた。その間に彼はゴールを駆け抜けていた。私は目を開けて彼を探した。彼は立ったままで膝に手をつき、激しい呼吸を繰り返している。スコアボードに目をやるが、結果はまだ出てない。私の心臓はあまりにも激しい鼓動の連続で、破裂してしまいそうだ。
やがてスコアボードが動いた。そこに表示された結果は、彼が四位だったことを証明してくれた。私は思わず飛び上がって喜んだ。全然知らない人に抱きついたりしてしまった。彼はただスコアボードをじっと見つめていた。そしてできるだけ筋肉を使わないような歩き方で、選手控え室に戻って行った。
私はすぐにその場を離れると、選手控え室を探した。その空間は大勢の関係者でごった返しており、汗と体育用具の異様な匂いが渦巻いていた。私はやっとの思いで彼の姿を見つけ、慎重に近寄った。彼はシューズを脱いで、冷却スプレーをふくらはぎや腿にかけている。
「おめでとう。なんとか第一関門突破?」
私がそう声をかけると、彼は始めて私に気づいて驚いた。でもすぐに視線を宙に戻して黙りこくった。私は次に続く言葉が浮かんでこなかった。彼の戦いは一分弱なんかじゃないんだ。彼は今でも闘っているんだ。自分自身と。体じゅうから吹き出し、流れ落ちる汗に包まれて、彼の孤独な闘いは今もなお続いているんだ。私はただ彼の闘いを、そっと見つめてあげるしかないんだ。
それから決勝までの時間はものすごく長く、長く、長く感じられた。さっき、選手控え室を立ち去る前に、私は彼にこう言った。
「キミって下心がぜんぜん見えないよ。もっとがんばらなきゃ!」
彼は私を見上げると、ただ黙って私を見つめていた。そして少し口元をゆるめながら、そっとうなずいた。だから彼はきっと頑張ってくれる。私はそう信じてる。厳しい直射日光が照りつける観客席の中に座って、私はただ祈り続けるのだった。
ついに決勝に勝ち残った選手たちがトラックに姿を現した。彼らはそれぞれのレーンに着き、スターティングブロックの足を置く位置と角度を調整している。それぞれの選手の名前がアナウンスされ、観客席の各所から歓声が巻き起こっている。彼は相変わらず手足を軽くゆすぶってストレッチを繰り返している。それが終われば、クラウチングスタートのタイミングを計る動作を繰り返す。他の選手の頭にはあんなに下心があるのに、やはり彼にはそれは見当たらなかった。
やがてスターターがピストルを持って位置に立つ。選手はみな、それぞれのスタート位置に準備をする。いよいよ始まる決勝。『出来れば三位以内に入りたい!』彼はそう言っていた。でもそれはきっとすごく難しいことだろう。予選ギリギリの彼にとって、三位の壁はあまりにも厚い。だからと言って、あきらめてしまってはいけない。今こうしてチャンスを得られたんだから。それこそが彼の走る意義なんじゃないかと思う。だから私もおもいっきり声援を送る。声が張り裂けるほどに。
「がんばれーっ!がんばれ!がんばれ!しまぬきーっ!」
すると彼がふと、私のいる観客席に目をやったような気がした。スターターが用意の合図と共にピストルを差し上げた。その時、彼はスターターにタイムを要求した。張り詰めていた時間が若干ほぐれた。彼は立ち上がるとスターティングブロックの足を置く位置や角度に不満があるように、何度も調整を繰り返している。私は彼のその姿を見て、心臓が張り裂けそうなくらいに驚いていた。
彼の頭の上に、下心が見える!
ほんのわずかながらにポッと現れた彼の下心は、私の母性本能をくすぐるに余りある可愛さだった。私は思った。もしかしたら彼は、自分自身との闘いから抜け出したのかも知れない。ようやく他の競技者との戦いに目覚めたのかもしれない。少しあきらめていた彼の夢への実現に、私はほんのちょっとだけの期待を持ってみようと思った。
ようやく彼の足の位置が決まった。彼の頭上の下心は、さらに少し大きくなっているような気がする。仕切り直しとなった選手たちは、みなクラウチングスタートの姿勢をとる。そしてスターターがピストルを上空に掲げ、一瞬にして張り詰めた時間を凍てつかせた。
パーン!
運命の鉄槌が凍った時間を砕いた。たった0コンマ1秒という時間を奪い合うように、八人のスプリンターは聞き足の太腿に全力を注ぎこんで地面を蹴った。それは自分以外に存在するたったひとつの物体だ。それをより強く、より早く蹴り進むことこそが、勝者になるための条件なのだ。
直線コースに移った一団は、ほとんどスタート位置にいた時の間隔と変わらずに突き進んでいる。彼の走りはいつになく激しく、躍動的になっているように見えた。その頭上に浮かぶ下心も、しっかりと彼から離れずに着いて来ている。
カーブに差し掛かった頃には、ひとり、ふたりと失速する選手が出始めた。だが彼はしっかりと速度をキープしている。現在の順位は三位。だが四位、五位ともほとんど横一列になっている。一位の選手は大きくリードしており、これに追いつくことは不可能だろう。二位の選手もすでに三位以下を引き離している。あとは三位の奪い合いだ。私はもう声がかれるかと思うくらい、彼の名を叫び続けていた。そして目をそらさずに、彼の走りを見つめた。彼が走る意味を……。
直線に差しかかろうとした時、彼の隣を走っている選手が大きくレーンの端に寄って来た。そして彼と肩が当たりそうになった。彼は一瞬、その選手を見た。その選手の頭上に浮かぶ下心は異様にふくらんでいる。私はハッとした。もしかしてアイツ、彼を狙っている!?
三人はすでに直線コースへとなだれ込んでいた。目指すは100メートル先のゴールだ。私は必死で祈った。走って!走って!走って!
三人並んだ三着争いのうちのひとりが徐々に後ろに下がり始めた。彼と、隣のライバルはしのぎを削って突き進んでいる。それはほとんど同列に並んでいる。優劣がつけ難い状態だ。そしてふたりの下心も、すでに同じくらいに膨れ上がっている。いま一位の走者がゴールを切り、すぐにその後ろから二位の走者が決まった。三位と四位になるべきふたりが、ほぼ同時にゴールになだれ込んだ。そのままふたりは勢いを止められず、遠くまで流れて行って地面に転がった。
彼は仰向けに寝そべって激しく呼吸を続けた。まるで長い間、空気と離れ離れになっていて、ようやくめぐり合えたかのように彼は空気を吸いまくった。私は彼のその姿を見ているうちに、涙がポロポロとあふれ出した。だからスコアボードが霞んで見えなくなってしまい、どっちが三位になったのかは分からなかった。
でも私はそれでよかった。結果なんかどうでもいい。ただ私は彼を褒めてあげたかった。彼は間違いなく必死で頑張ってくれた。私が信じたとおりに……。そして私は気がついた。彼に恋している自分に……。
彼はもうすっかり着替えて控え室前の廊下に立っていた。むこうを向き、笑顔のコーチに肩を叩かれている。彼は何度もコーチの言葉にうなずいている。その頭の上には、やっぱり下心は見えなかった。私はそんな純粋な彼の背中にそっと近付いて行った。
彼は私に気づき、そして振り返る。なんだか素敵な笑顔がそこにあった。そして彼の頭の上に、突然ちいさな下心がともった。もしかして、その下心は私に対してのもの?私は思わず、彼の可愛いそれを見つめた。
「コーチが言ってたぜ。」
たったいま他の選手のもとへ言ってしまったコーチをチラッと見た彼が言った。
「なんて?」
「今度はお前をコーチにしろってさ。」
私は少しは彼に貢献できたみたいで嬉しかった。
「厳しいよ?」
「まさか!」
彼はそう言って、汗だくの体で私を抱き寄せ、キスをした。
そんな……夏の始まり……。
終