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東京カクテル  作者: 黒田
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腕時計

 Schnaps-シュナプスと読みます-は東京の東側に立っている小さなビルの2階にあるバーです。無口なマスターが一人で営む、静かで、優し気な雰囲気のお店です。


 このお店にはいろいろなお客さんが通います。自分の咲く場所を探す蒲公英や、正直者の熊、神経質でいつも不安そうな天道虫(てんとうむし)、いつも一緒に通う割りばしと爪楊枝、マスターと同じぐらいの年齢の落ち葉。

 みんな、このお店の顔馴染でした。いつも誰かが、このお店に通って楽しい時間を過ごしていました。





 今日は腕時計が一人で訪れました。お店にはマスターしかいません。腕時計は店に入ると奥から二番目の席に座りました。マスターはそっと、ジントニックを腕時計に差し出します。

 「ありがと」

 お礼を言って、腕時計はグラスを受け取ります。そのまま一口飲むと、頭が軽くなり、すぐに気持ちよくなりました。あまりお酒には強くない腕時計でしたが、ここに来るとみんなに会えるので、よくお店に通っていました。

 ですが、今日はどうやら誰も来そうにありません。少し残念に思いましたが、せっかく来たので遅くまで楽しもうと心に決めました。

 -大丈夫。時間はあるさ-

 この言葉は腕時計の口癖でした。いつも時間通りに来ない、ルーズな性格でしたが、腕時計はそんなこと全く気にしていません。カチコチと音を立てて、有り余る時間を心行くまで楽しもうと思いました。


 マスターはお酒に強くない腕時計のために、生ハムとチーズをクラッカーに乗せて、お皿に並べました。腕時計は差し出されたお皿からクラッカーを1つ手に取り、むしゃむしゃと食べました。生ハムの塩味が、ジンの爽快な、さっぱりとした味によく合います。マスターも自分のためにジントニックを-最後にショウガを入れて-作ります。グラスを手にして、黙って腕時計の方に腕を伸ばします。腕時計もグラスを手にしてマスターのグラスに軽く合わせます。チャン、と心地よい音が響いてお互いに一口だけ飲みました。





 腕時計のお仕事は翻訳家でした。大学で英文学を専攻するぐらいでしたので、いまの仕事をとても気に入っていました。

 毎日、朝、自分の好きな時間に起きて-ルーズなので決められた時間に起きるのは、腕時計には困難なことでした-パソコンに向かいます。一日中ずっと仕事をしている時もあれば、1時間もしないうちに終わってあとはゴロゴロとしている時もありました。


 ちょっと前までは-今でも、時々、たまに、しばしば-仕事の締め切りを過ぎてしまうこともありました。その時にはさすがの腕時計もへこみました。なので、仕事の締め切りだけは何としても守る、というのが腕時計が仕事をするうえで、唯一決めたルールでした。

 が、それ以外は基本、自由に-ラジオを聴いたり、ストレッチをしたり、ご飯を食べながら-仕事をしていました。


 もともと決められた時間までに、決められた場所で、決められたことをする、ことが腕時計は苦手でした。

 大学を卒業するときも、友人の腕時計たちはみんな入社しましたが、腕時計一人は自宅で仕事をすることを決意していました。他の腕時計たちは、信じられない、大丈夫なのか、と口々に腕時計を心配しました。

 元来、腕時計は時間通りに、正確に規則正しく行動する、几帳面で真面目な性格です。ですので、友人たちはみな、有名な企業や国家公務員へと就職していきました。そういった仕事に腕時計の性格は適格でしたから。


 が、この腕時計だけは違いました。子どもの頃から、腕時計は、周囲の人と同じことをするのがとても苦手だったのです。別に悪ぶって恰好をつけていたわけではありません。

 子どもの頃から腕時計は人と会話が上手にできませんでした。お話をしていても相手が何を言いたのか、どんな気持ちなのか、腕時計には想像ができなかったのです。ですので、空気の読めない発言をしばしばしてしまい相手を怒らせたり、悲しませたりすることがありました。

 話すときも自分の好きなことをとにかく喋ります。自分の気になっていることや、面白いと思ったことは話題に関係なくとにかく話しました。気になっていることは口に出したい、それが腕時計の性格でした。なので、周りの人は刺すような目つきで腕時計を見るのでした。





 ジントニックを飲むと気持ちよく酔いが回ります。くらくらとする頭で過去の薄暗い-でも、今となっては馬鹿馬鹿しい程にどうでもいい-記憶を思い出して腕時計は小さく微笑みます。最後のクラッカーを手にして口に入れました。マスターは自分のジントニックを飲み終えたので、またシェーカーを振り出しておかわりを作り始めました。


 腕時計にはどうしても忘れられない思い出がありました。

 高校3年生の冬のことでした。腕時計の通う私立高校は大学進学を目ざす学生が多く、いわゆる進学校でした。腕時計もやはり大学に-でも、みんなと違って好きな英語をもっと勉強したくて-通うことを目ざしていました。腕時計のすごいところは、教科書を一度、じっくりと読めば、もうだいたいの内容を理解できることでした。子どもの頃から物覚えが良かったのです。ですので、塾に通うことなく、放課後はだいたい教室に残って勉強を-主に好きな英語でしたがーしていました。


 人付き合いが苦手な腕時計でしたから、教室では一人で過ごしていました。同じクラスには何人か残って勉強をしたり、携帯電話をいじったり、楽し気に笑いあったりしていました。ですが、腕時計は英語の教科書に載っている長文を黙々と、楽し気に読んでいました。

 

 時計の針が5時を回りました。窓の外に広がる東京の空は真っ黒です。教室からも一人、また一人と帰宅していきます。腕時計は、しかし、時間を気にせずに教科書を読み続けました。大丈夫、時間はあるさ、と心で呟いて。


 「ねえ」

 声をかけられて腕時計は顔を上げます。一人の女の子が机の前に立っていました。深い紺色をした短いスカートにグレーのカーディガンがよく似合う、髪の短い女の子です。

 「何?」

 不愛想に腕時計は答えます。せっかく楽しく読んでいたのに、邪魔されて少しご機嫌斜めになります。

 「英語、得意?」

 女の子は腕時計が怒ったと思い、少しびっくりしたようでした。が、思い切って話を続けます。

 「得意かは分からないけど、好きだよ」

 腕時計はいいます。

 「この問題を教えてほしいんだ」

 女の子は手に持っていた問題集を腕時計に差し出します。ページが赤色のマーカ-でびっしりと彩られていて、今度は腕時計は驚きました。女の子の指が、赤い丸で囲まれた問題を指します。

 腕時計は問題を読むとすぐに答えました。関係副詞とか関係代名詞とか、難しい言葉を使って淡々と説明しました。女の子は腕時計の説明に難しい顔をして聞いていました。腕時計は気にせずにべらべらと説明を続けます。

 「分かった?」

 説明を終えると腕時計は女の子に言います。


 女の子は少し笑っていましたが、困ったように首を傾げていました。

 「もう少し説明をして」

 女の子は腕時計にお願いします。今度は腕時計が困りました。説明しようにも、いま全てを説明したからです。それに自分は早く教科書の続きを読みたかったのです。腕時計は黒板を使って説明を始めました。女の子をほっといて、また読書の邪魔をされるのが嫌だから、仕方なく説明します。

 女の子は腕時計が黒板に書く英文や日本語、矢印やアルファベットをノートに丁寧に書き写します。真剣な表情で、腕時計の説明に、一回一回頷いて、手を動かしました。

 だいたいの説明が終わり腕時計は手についたチョークの粉を払いました。さっきよりも分かりやすく-と、自分では思っていました-説明をしたつもりでした。

 女の子はしばらく、まとめたノートをじっと見つめていました。ああ、と一回大きく何かに納得した声を出すと、嬉しそうに笑顔をして腕時計に顔を上げます。

 「分かった!ありがとう」

 女の子は目を細くして、微笑みます。ほっぺが少し丸く盛り上がった顔は可愛げのある顔だ、と腕時計は思い少し照れました。


 それから放課後になると、腕時計はたびたび女の子に英語を教えました。いつも女の子が腕時計にお願いしてきました。腕時計は教科書から顔を上げて赤い丸で囲まれた問題を、分かりやすく-と自分では思っていました-説明しました。

 教えてもらった後に、女の子は必ず笑顔で腕時計にお礼を言います。時には全く分からずじまいだったこともありましたが、それでも笑顔で、小さな丸く盛り上がったほっぺを作って、ありがと、と言いました。

 腕時計もお礼を言われて嫌な気持ちはしません。読みたい文章が進まないことは、ちょっと残念でしたが。それでも彼女と過ごした時間は、とても居心地のいいものでした。


 年が新しくなり、受験も本番を迎えます。1月、2月と月日はあっという間に駆け足で過ぎていきました。腕時計は志望していた大学に難なく合格しました。が、女の子の方は苦戦をしていました。もともと頭があまり良くない子でしたから。

 月日が経つにつれて女の子は腕時計のもとに問題を聞きに来ることが少なくなりました。腕時計はどうして来なくなったのか、不思議に思いました。


 卒業式が近づく2月の終わりごろ、腕時計は教室で図書館から借りた小説を読んでいました。全部、英語で書かれたお話でしたが、腕時計はすらすらと読み、楽しんでいます。

 「ねえ」

 聞いたことのある声でした。顔を上げると、あの女の子が机の前に立っています。が、今日はいつもの元気な様子は消えて、どこか悲しそうな顔をしています。もっとも、腕時計には女の子の表情からそこまで考えられませんでしたが。

 「久しぶりだね」

 小説を持ったまま、顔を上げて腕時計は言います。

 「うん。久しぶり」

 女の子も答えます。腕時計に目をちょっとだけ合わせて、でもすぐ、また下を向きました。

 「実はね、第一志望の大学にね、落ちちゃったんだ」

 下を向きながら、女の子は明るい声で、笑顔を作って言います。

 「ふーん。そうだったんだ」

 腕時計は無表情で言いました。女の子の顔は下を向いていて、腕時計からはよく見えませんでした。

 「うん。そうだったの」

 女の子は、声を小さくして言います。

 それから二人は黙っていました。女の子は机に腰を下ろして、下を向いています。腕時計はまた小説に目を戻して続きを読みました。


 「でさ、今日はどの問題が分からないの?」

 切りのいいところまで読み終えた腕時計は本にふせんを挟み、目の前の女の子に言いました。

 「え!?」

 下を向いていた顔が驚いた声と同時上がり、丸い瞳が腕時計を見つめます。女の子の顔は口が少し開いていて、腕時計は素直に、かわいい、と感じました。

 女の子は驚いた顔をしてました。が、何かに納得したように優しく微笑みます。ほっぺが丸く小さくなった顔は、しかし目だけは残念そうに、悲しく腕時計を見てます。


 それから腕時計と女の子はお話をしました。女の子は部活動で担当していたトランペットをこれからも続けたいこと、一人暮らしで楽しむことと不安なこと、他の友達と離ればなれになることを。腕時計は、相変わらず、英語のことや、今読んでいる小説の表現が面白いこと、大学ではもっともっと英語を学びたいことなど、好きなことを話しました。

 話が一息ついた時、女の子は腕時計を見て言いました。

 「また、問題を聞きに来てもいいかな?」

 女の子は、不安そうに、でも目は悲しそうに、腕時計に聞きます。

 「いつでもいいよ。分からない問題があったら」

 腕時計は淡々と答えました。

 「ありがとう」

 例の可愛らしいほっぺを作り、女の子は腕時計にお礼を言いました。

 これが女の子と腕時計がした最後の会話でした。


 卒業式を終えた腕時計はすぐに玄関に向かいました。写真を撮り合ったり、携帯電話の番号を交換したり、卒業アルバムを交換して何かを書いてたり、思い思いの言葉を涙を流しながら話す同級生たちで教室の中は騒がしい雰囲気でした。が、友達のいない腕時計には関係のないことです。さっさと道具をまとめて教室の入り口に向かいます。チラっと女の子が腕時計の目に入りました。が、女の子は他の女子や男子に囲まれて写真を撮っており、教室から出ていこうとする腕時計には気づきませんでした。小さく丸いほっぺをしながら、とびっきりの笑顔で女の子は笑っていました。腕時計は女の子の笑った顔をちらりと見ましたが、すぐに教室から出て玄関に向かいました。





 それ以来、腕時計は女の子に会いませんでした。時々、今みたいにお酒を飲んで気持ちよくなっている時に思い出すことはありました。が、だからといって会いに行くとか、探すとか、行動に移すようなことは考えませんでした。

 大学生になってから、腕時計は自分の病気を知りました。人とお話が上手にできなかったことも、人と同じことをするのが苦手だったことも、決められたことを決められた時間でするのが苦手だったことも、この病気が原因だと分かったのです。

 ですが、腕時計は別に気にしませんでした。病気だからといって、命に関わるものではありませんでしたし、いまの自分が腕時計は好きです。病気もそのうち治るだろうと思っていました。大丈夫、まだ、たっぷりと時間はあるのだから、と考えて。


 ただ、とジントニックを頑張って飲み干して腕時計は考えます。ただ、あの時に女の子に違うことを言っていれば、どうなっていただろう、と気持ちよくなりウトウトと眠くなった頭で腕時計は考えます。

 が、睡魔に負けて腕時計は机に体をもたれ、頭を落とします。それからスースーと寝息をたてました。


 マスターは、いつものことだったので、腕時計を揺り起こしたりはしません。ゆっくりと、閉店ぎりぎりまで休ませてあげようと思いました。


 腕時計は小さく丸くほっぺを盛り上げて、幸せそうに夢の中を楽しんでいるようでした。

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