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水と剣の物語

水と剣の物語 4話「夏休みドサ回りの冒険」

作者: 兵藤晴佳

1、

 昔の給食棟を改造した演劇部の部室は、急にだだっ広くなっていた。

 いつもは座る場所もない。衣装箱だの照明機材だのが、うずたかく積まれているからである。きっちり整理されてもなお、こればかりはどうにもならないのだ。

 ところが、7月末のこの時期は違う。部室を占拠していた舞台装置と音響照明機材その他は、残らず運び出されていた。

 大きなミキサー卓を、ところどころ塗装の剥げた幌付きトラックに積みこむ。古くから付き合いのある地元の土建屋から、顧問が借りてきたトラックである。

 「ちょっと風をいれてやろう」

 部長が部室の窓を大きく広げる。済んだ風が、古い畳の上を吹きぬけた。川のむこうにそそり立つ山肌からが吹き降ろしてくる、7月末の熱い風である。

 昼過ぎになると、土建トラックは渓流沿いの道を流れに逆らって爆走する。その後ろを、顧問の乗用者が一生懸命ついていく。これが、この山間の土地では夏の風物詩となっている「凌霜高校演劇部ドサ回り道中」である。

 本来の名前は、「夏休み子供劇場」。

 合宿を兼ねて地元の校区をいくつか回り、子供相手の芝居をやるのである。ただし、学芸会程度のものをやればよいかというと、そんなに甘いものではない。「子供は最も恐るべき批評家である」という、顧問のポリシーにより、春から厳しい稽古が課されていた。

 榛原玄蔵。演劇部創始者のひとりであり、30年続いたこの行事の発案者である。

 「山河涼やかなる地に、文化の風を……!」

 自らトラックを駆るその目は、渓流の流れ来る彼方よりも遠くを見つめている。


2、

 「山奥の子供たちに本格的な芝居を見せてやろう」という公演である。自然、会場は山奥の小学校になる。その近所に住んでいる部員は、現場待機組となっていた。

 「氷室!こっち!」

 「野瀬!せかさんといて!」

 同じ1年生の野瀬秀が、大きく手を振って差し招く。照明担当の、小柄な可愛らしい少年である。氷室玲瓏は、トラックから降ろした大きなスポットライトを両手に持って駆け出した。

 但馬陽介はというと、小学校の体育館ギャラリーで、ロープを引いて天井の照明を支えていた。当然のことだが、舞台内部を照らすシーリングライトを吊れるような設備は、体育館にはない。天井の鉄骨に難儀して引っ掛けたロープを使うのである。本来は、左右からそれぞれ2~3人で慎重に引き上げるのだが、陽介の場合は1人で足りた。背がひょろ高くて痩せた外見によらず、かなりの怪力を持っているのである。他の仕事はともかく、こういうときは重宝であった。

 「よーし、ゆっくり上げろー!」

 向こうのギャラリーで呼ぶのは、黒いランニング1枚の天美健一部長である。今年3年の、褐色に焼けた肌をした、逞しい青年であった。

 ゆっくりも何も、陽介に迅速な動きは期待できない。照明の上がり具合を確かめながら、じりじりとロープを引く。


3、

 本番1時間前ともなると、楽屋は戦場のような忙しさになる。舞台はすでにスタンバイOKで、音響チェック用の流行歌がテープで流れている。その微かな音が楽屋に聞こえるようになると、本番前の緊張感はいやがおうにも高まるのだった。

 「ね~、そのドーランとって~!」

 「まだ塗ってんだもん!」

 「あ~、まだ着替えてるんだからカーテン開けないで~!」

 女子たちの楽屋の、かしましいこと……。

 メーキャップはスピードが命である。顔料が皮膚に載っている時間は、短い方がいい。従って、衣装その他は、直前に付けることになる。

 これが自前の公演だからいいが、公式大会になると楽屋がひとつである。男女入り混じって着替えることになるが、別段誰も気にしない。それでも、できる限り男女楽屋は分けようという理性は、きちんと働いていた。

 「着替えおせーんだよ!」

 「下も履き替えてるんだ!」

 「こら、まだ脱いでるんだからカーテン開けんな!」

 ……品のないことおびただしい。男の楽屋なんかこんなもんである。


4、

 野瀬が最後の照明振りを終えると、メイクと衣装の準備が終わったキャストが入ってくる。円陣を組んで座る。正座。目を閉じて、調息。これから、かれらは別人になるのだ。

 ひとりがパン、と手を叩くと、全員の目が見開かれる。そこに、日常の光はない。人工の光に満たされた異空間を見据えるまなざしである。

 するりと90度横を向いて、目の前にある仲間の背中を叩く。パン、と言う音がプロセニアム(舞台内の空間)に響き、魂が入る。


 袖幕をちらりと開けて、氷室玲瓏は会場内を覗いた。

最前列に陣取った子供たちが、足をばたばたやりながら開演を待っている。小さな子供を抱いた母親たちは、ずっと後ろのほうに集まっている。中を取り持つ腕白たちは、立ったり座ったり走り回ったり忙しい。

 「出番?」

 くるりと振り向くと、副部長の式部ゆかりが、親指を立てた。体にぴったり身についた黒の長袖とジーンズをまとう、2年生の少女である。


5、

 「よいこのみなさ~ん!元気かな~!」

 田舎の子供たちはシャイである。なかなか返事が来ない。もういっぺん、デパート屋上の戦隊ショーよろしく、オーバーアクションで声を張り上げる。数名のやんちゃ坊主どもが歓声をあげて応えた。もういっちょ~!とやると、今度は会場いっぱいに甲高い声が上がる。ノリがよくなったところで、お子様向けの「お約束」が始まる。

  1、おしゃべりをしない

  2、おかしをたべたり、ジュースをのんだりしない

  3、「おと」・「ひかり」とかいたカーテンには、はいらない

 すべての演劇鑑賞に通用する、常識的マナーである。

 子供たちがお行儀よく座ったところで、氷室は手をかざして舞台袖を見やる。

 子供たちがつられて見る先へ、主役の孫悟空がやってくる。


6、

 「そこ、17番・23番入れて……フェードイン……」

 部長の囁きに従って、陽介は操作卓のフェーダーを上げる。舞台の色が変わり、一瞬でそこは別世界となる。

 「氷室、スモーク……!」

 ゆかりが耳元で囁くと、ポリバケツを改造したスモークマシン(?)が、ドライアイスの煙を吐く。

 ポリバケツの中にはドライアイスが湯に浸かっている。ポンプを押すと、この煙が洗濯機の排水パイプを利用した排気口から噴き出すわけである。

 ここは牛魔王の城。鉄扇公主と紅孩児が、孫悟空を待ち構えている。

 10番台のカラーフィルターをふんだんに使い、炎のエフェクトまでかけた見るからに熱い光景である。地を這う煙は、火炎山の岩盤が熱せられて噴く湯気である。

 襲いかかる鉄扇公主と紅孩児を軽くあしらい、牛魔王の大刀を如意棒ではっしと受け止める孫悟空。

 子供たちの歓声があがる。


7、

 火炎山の熱風は、芭蕉扇の風で鎮められた。三蔵法師一行は、一路天竺へ……

 幕が降りて再び上がると、キャスト一同が勢ぞろいしてカーテンコールを受ける。再び幕が降りれば、客席の明かりが灯って、夢は終わるのである。

芝居をするものにとって、こんなに切ない時間はない。出口へ向かって列を成す人々を、観客として再び迎えるのはいつか……そんなことを、誰もが考えてしまうのである。

 感傷に浸りながら、スタッフ一同は撤収に入る。ギャラリーに上がって暗幕を開けた氷室は、外がすっかり暗くなっていることに気づいた。ドサ回り最初の夜なのである。このあと待っているのは、遅い食事とOBの小言。そして、公民館での雑魚寝であった。男女構わず、布団と枕を手にしたものからその場に昏倒するのが、この部の習慣である。

 だが、反対側のギャラリーでは、陽介が疲れを全く見せない無表情で、黙々とスポットライトを分解していた。


8、姫君のお見送り


 観客の見送りは、キャストの仕事である。衣装とメーキャップは、つけたままである。

子供たちは父母や年上の兄弟に手を引かれながら、手を振ってゆく。舞台から抜け出してきた孫悟空と握手し、牛魔王をわざとらしく怖がってみせる。キャストたちも、笑顔で手を振り、握手し、怪物らしく吼えてみせるのだった。

 その双方が、最後まで気づかなかったことがある。

萌黄色の単衣をまとった少女が、子供たちとじゃれて遊んでいるのである。どう見ても通りすがりではない。かといって、上演作品は「西遊記」である。衣装担当も、ここまで歴史的文化的考証を間違えたりはしないだろう。

 だが、誰一人、不自然に思うものはなかった。それどころか、あるものは微笑を浮かべ、またあるものは遊びの輪に混じったりもしたのである。

 こうして、演劇部恒例「夏休みドサ回り公演」は始まった。


9、

 最後の公演が終わった夜。

 榛原玄蔵はひとり、公民館の一室で祝杯を上げていた。わりと大きな2階建ての公民館である。生徒たちは、隣の大部屋で、例によって雑魚寝である。

昼間は卓球などに開放されている1階には、鍋釜や衣装などがまとめて置いてある。明日の朝は、もう峠の向こうの城下町へと帰還するのだ。

 こんな夜を、もう何十年過ごしてきただろう。

 戦後の波乱に満ちた、高校時代に興した部である。教員として戻ってからも、郷土に文化の風をもたらそうと守ってきた部である。山河に抱かれた凌霜高校で、生徒たちは健やかに育ってきた。

 全て世はこともなし。

 榛原玄蔵は、莞爾と微笑んで、ウイスキーのボトルを、窓の外の満月に掲げた。


 うとうとして、ふいと気づくと、窓の外にはもう月がない。ずいぶんと居眠りをしていたものである。夜風に吹かれようとベランダに出た。峠に向かう街道を見下ろすと、街灯がぽつんぽつんと粗末なアスファルトを照らしているばかりである。杉の木々のすがすがしい匂いが、風に乗って流れてくる。ベランダから階段を降りて、宿舎の周りを散歩してみようと思った。

 宿舎の裏手は、ススキの原になっていて、その向こうには、谷川が流れている。せせらぎの音は、時折、夜風になびくススキのざわめきによってかき消されていた。大きく西に傾いた月を見ながら、しばし何も考えず、ただ、風の音に心を委ねる。まだ、酔いは醒めない。


 風の音のなかに、そうでない物の気配を感じて辺りを見渡した。

 なにもない。誰も居ない。ただ、背後に迫るものがある。

 酔っているだけに、考えるより体が動く方が早い。過去の経験がものをいい、とっさに、彼の体が独楽のように回転し、裏拳が弧を描いた。何かがススキの原の中に消え、再び風とせせらぎの音が戻ってくる。

 確かに手応えがあったが、彼はそれを深く追求しようとは思わなかった。何十年と繰り返してきた夜のうち、こんな夜が1度くらいあってもいい。酔っているせいもあるが、彼はそういう酔狂を好む男である。そのまま部屋に戻って寝てしまえば、全ては夢とうつつの狭間に漂う幻となる。


10、

 陽介が夜中にこっそり起き出すのはいつものことである。氷室はそれに気づいて、するりと毛布を抜け出した。

下は畳なので、音がしないように気をつける。小柄だがグラマーなので人気のある式部ゆかりが悩ましい声をあげて唸った。白いTシャツにジャージという格好で寝ているが、それでも暑そうである。

 男はともかく、女子部員はみな似たようなものであった。

 「気をつけろ」

 開け放した窓から外へ抜け出そうとする陽介が、振り向きもしないでつぶやいた。また口を開くと何を言われるか分からないので、黙ってついてゆく。

 窓を越えてから、毛布にしがみつく少女たちの寝姿を、氷室は未練がましく振りかえった。どうせ、朝方しか戻ってこられないのである。

 「嫌なら来るな」

 氷室の内心を見透かしたように言い捨てて、陽介はベランダから飛び降りる。翼を持つかのように、ふわりと着地した。氷室はそろそろと階段を降りるしかない。

 宿舎から、暗い街道沿いに歩き出す。宿舎裏のススキの原で何かが動いているのを、氷室も感じ取っていた。それらの気配は、街道端の稲田の中に移っている。

 一定の間隔を置いた街灯の明かりを頼りに、氷室は行く先を見やった。街道は、闇にも青く茂る稲の中へと消えてゆく。その先には、月明かりにぼんやりと浮かんだ山々の稜線がある。時折、稲と土の匂いを運んでくる夜風の音に混じって、微かな声が聞こえてくる。

 「もう帰れないぞ。覚悟を決めろ」

 月明かりの中に、陽介の声がずんと響く。

 黒い影がどこからともなくふわりふわりと現れた。風を巻いて、その一つが迫る。あっという間に間合いを詰めたそれは、陽介の目の前で粉砕されて消えた。

 「手におえる相手じゃない。動くな」

 陽介の声はそれっきり途切れ、代わりに何やらつぶやくのが聞こえ始めた。


11、

 氷室と陽介を円く囲んで、影と影とが食らいあっていた。

 どうやら一方は人の姿をしており、もう一方は四足獣や爬虫類に近い。月明かりにもぼんやりとして分かりづらいのだが、どうやら襲いかかってきたのは前者らしい。稲田の中から、猿のようにかがみこんで跳躍してくるそれらは、次第に数を増している。陽介の呪文めいた文句の詠唱は、氷室の肌にぴりぴりと触れるほどの鬼気に満ちていた。氷室は茫然と、そこにしゃがみこんでいるより他はない。

 「陽介!」

 考えるより先に体が反応した。抜かした腰を脚が押し上げ、氷室の体が宙に舞う。陽介が出るなと制した円から飛び出して、目の前の人影に蹴りを見舞った。

 食らいあう影と影とをものともせず、瞬きする間に現れた人影である。こいつは直に陽介を襲ってくる、と氷室は直感したのだった。不意を突かれたその影は、地面を蹴って、ふわりと後方に降り立つ。即座に間合いを詰めて、回し蹴りを続けざまに放った。それらは上下左右を問わず、紙一重の差でかわされる。

 突如として繰り出されてきた刃を頭上にやりすごす。低い姿勢から腕を絡め取り、肋骨に膝蹴りを打つ……と、ふわりと体が宙に浮き、粗末な舗装のアスファルトに叩きつけられた。仰向けに見たものは、逆手に握られた刀である。

 「終わりだ」

 凛としたテノールの声が月影の夜を震わせる。

 刃が降ってくることはなかった。 青白い月の光を浴びる陽介が、人影を羽交い締めにしていた。その背後では、獣達が影たちを貪り食っている。

 「このまま抱き潰す」

 ぎりぎりと骨のきしむ音が、氷室の耳にも聞こえた。

 人影は答えず、持ち替えた刀を自らと陽介に向けて振るった。西瓜大のものがごろりと落ちて、獣たちにさらわれていった。やがて、どこからか、がつがつという音が聞こえてくる。

 それがもとあったところから、陽介の無表情な顔が覗いていた。


12、

 氷室は、公民館の毛布の中にいる自分を発見した。冷え冷えとした光が、ぼんやりと、雑魚寝の部員たちを包んでいる。

 ふと傍らを見ると、陽介が、真四角に敷かれた毛布の下で、体をまっすぐ伸ばして眠っている。いつのもことだが、起きているのか寝ているのか、下手をすると生死さえ定かでない。

 背中が痛い。

 普段、太極拳で鍛えているからそうそう筋肉痛など起こる筈はない。そんなきつい合宿だったかと考えて、そういえば悪夢を見たようだと気づいた。寝違えでもしたのだろうと納得して、ころりと寝返りを打った。起きて套路をひととおりやるのが、彼の日課である。

 起き上がろうとして、ふと目の前で眠る少女を見ると、式部センパイである。毛布から覗く寝顔に思わず見とれていると、その目がぱちりと開いた。ころりと寝返りを打って、眠そうな目をぱちぱちやりながら、氷室をじっと見つめる。頬杖をついて、不意に微笑んだ。

 「おはよう、氷室君……」

 おはようございます、の一言が出なくて慌てる氷室に、くすくす笑い出す。


 榛原玄蔵は、ベランダにでて、霧の深い稲田を見渡した。その中を、羽化したばかりのトンボがふらふらと飛び回っている。

 この公演が終わると、部員たちは短い残暑を、宿題に追われて過ごすことになる。

 それもまた、よし。

 厨房で、がやがやという声が聞こえ始めた。朝食当番の生徒たちである。真下の街道を走りだしたのは、男子部員たちである。朝飯までには戻れと声をかけて、峠の彼方の空を眺めた。

 冷たいくらいに澄んだ青空であった。


(完)

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