第六話〜悪魔と蜘蛛〜
飯を食べ終わり、さくらが食べ終わった食器を洗いながら俺にこう言ってきた。
「真ちゃん。そろそろ学校に行く用意をしないと学校に遅れちゃうよ」
俺がさくらに言われ時計を見てみるとそろそろ出ないといけない時間だった。
「あ、それもそうだな」
俺は部屋に向かい用意をしようとしていた。するとバンシーが、
「今は・・・だめ」
妙に真剣な顔つき。あの顔を俺は一度だけ見たことがある。
ソフィーが悪魔と天使のルールを破ったときの顔だ。その顔は幼い容姿など軽く無視して、少女でありながらも凛々しい雰囲気を出している。
俺は少し圧倒されそうになったが地に踏ん張り、その雰囲気に呑まれないようにした。
「な、何でだよ・・」
少し情けない声になってしまったが声を出すことは出来た。
「・・来て」
「あ、おい」
俺はバンシーに手を引かれて階段を昇っていった。
バンシーに連れられてこられたのは俺の部屋だった。
「な、何なんだよ」
「あの子に・・・
あの子に面倒事はかけたくないんでしょ」
「あの子って・・・さくらか?
ま、まあ・・確かにそうだが。でもそれとここに連れて来る理由とどう関係あんだよ?」
何だろうこの不安―――不安。
心臓が鼓動を早める。胃がキリキリ痛む。
こんなことをどこかで体験したことがある気がする。
もうずっと前に。嫌で嫌で記憶から抹消してしまった体験のような記憶。
これ以上ここにはいたくなかった。思い出してしまいそうで。
「―――来る!」
バンシーの声と共に目の前、窓のところに黒い、手で包み込めるぐらいの穴が開いた。
ガラスが割れたわけでもない。―――開いた。
そこから、にゅっと過剰なほどぬるぬると透明な粘液が付着している蜘蛛の足のようなものが出てきた。
その大きさは通常の蜘蛛よりも10倍、いや、へたをしたらもっとかもしれないがそのくらい通常ではありえない蜘蛛が出てきた。
しかもただの蜘蛛ではなく背中には大きな黒い羽と振り下ろせばなんでも切り落とせそうな鎌のような足が2本ほど蜘蛛の足と化していた。
『・・ケケケ。ナンダココハ
ズイブントマア、セマッチイヘヤダネエ』
蜘蛛の口から人間の言葉が発せられた。
少しキーの高いその声は変声機を使ったかのような不気味な声。
俺は言葉を発する蜘蛛に対し、恐怖しか感じられなかった。
な、何だ・・・こいつは・・
お、俺は・・・し、死ぬの・・・か?
俺はここから逃げ出したい。一目散に逃げ出したい。
「あ、・・ああ・・」
俺の口から発せられる声は乾いた言葉だけ。
俺は叫び声を上げることさえ出来ない。
「落ち着きなさい。私がいるわ。だから・・・ね」
バンシーの手が俺の頭の上に乗る。
腰をから力がへなへなと抜けて、俺はその場に座り込んでしまった。
恐怖から力が抜けたのか―――安心して力が抜けたのか。
俺は後者だと思う。俺はバンシーに手を置かれて安心した。
「真はここにいて。私はあの蜘蛛をどうにかするから」
俺はバンシーの言葉に頷く。
バンシーは俺から手を離すと蜘蛛の方へと近づいていった。
そして蜘蛛に対しまず一言。
「その変な喋り方やめなさい」
『・・・・つまんないですねえ。まあいいです。貴女がバンシーさんですか?』
蜘蛛の喋り方はどこか紳士っぽい。
「そうって言ったら?
どうせあいつでしょ?」
あいつ? あいつって・・・誰だ?
『分かっているのなら話は早いです。どうか許可を』
蜘蛛の姿をした何かとバンシーは話を続けている。
俺は何か不思議な感覚だった。いい感覚じゃない。嫌な・・・そう。嫌な感覚だった。
不思議な疎外感。仲間はずれとかそんな感じじゃない。でも疎外感が強い。
何も俺には関係ないのかもしれない。でも嫌だった。
「私はあいつが嫌いなの。そう、嫌い。
だから嫌。そんなことくらいわかりなさいよ」
『ですが、私としても手ぶらでは帰れないのです。なんとしても貴女に来ていただきたい。
たとえ―――』
蜘蛛の瞳が俺を捉えた。俺は蜘蛛に睨まれ動けなくなってしまった。まるで蛇に睨まれた蛙だ。
俺は蛙を笑っていたが本当に怖いと睨まれるだけで動けなくなるものだな。
『貴女から大切なものを奪ってでも!!』
蜘蛛はその身を俺の方に投げ出すように飛び掛ってきた。そしてその鎌のような足を振り上げ、俺を切りつけようとする。
「待った」
蜘蛛の前にすっと伸びる黒い影。
影の正体はバンシーの伸ばした手に持たれていた夏の日によくお世話になるもの。殺虫剤だった。
「ま、聞きたくないよ。あんたごときが私から大切なものを奪うなんて・・さ。
でもね、奪うって言ったんなら私はあんたを許すわけにはいかない。だってそうでしょ?
大切なものってのは・・大切だから。失いたくない、生きるためのものだから」
『そんなもの私には効きませんよ?
私は悪魔だから。虫の姿をしていても・・ね』
バンシーが殺虫剤のスイッチを入れた。殺虫剤は霧のように薬品を蜘蛛めがけて放出する。
霧の中から蜘蛛の鎌の足が一閃、二閃。
その霧を振り払うように鎌が振るわれた。霧はその鎌に拒絶されるかのようにどんどんと晴れていった。
『ね。言ったでしょ
私にはそんなもの効きはしませんよ』
「そうね。
でも遅かったわね。もうおしまい。
無より有を・・」
蜘蛛を覆うように黒い物体が蜘蛛を取り囲む。俺はその黒い物体を知っている。
ソフィーとの時に見たゼリーのような物体によく似ている。
『・・・・何の真似ですか?
貴女のしたいことがよくわかりませんが?
この物体は魔界の黒曜魔石を利用してもののようですが、そんなもの魔界の生き物である悪魔にとっては何のこともありません」
蜘蛛はバンシーを嘲笑し、鎌を振るう。
一閃。
二閃。
三閃。
『―――!!
ど、どういうことです。私の鎌が効かない!!』
蜘蛛は何度も鎌を振るう。
一閃。
二閃。
三閃―――
蜘蛛を包み込んでいる黒い物体は蜘蛛の鎌の衝撃を吸収し、緩和している。
「あんたには罪はないし、あんたはまだ子供。
だからあんたをもう一度魂にもどしてあげる。あんたは運が悪かっただけ、きっと・・・きっと次は・・大丈夫だから」
蜘蛛を覆っている物体にバンシーのたおやかなその指が触れた。
触れた指先から黒い光が黒い物体を包み込んでいく。その光景は不謹慎かもしれない。でも・・・綺麗だった。
何だろう黒い光の中には点々と白い光が見え、冬空に輝く星のようだった。
黒い闇は蜘蛛を包み込んでいる。そして―――
シュンと、闇は消えた。
蜘蛛を包み込んだまま消えていった。まるで手品のように。
あっという間に。まさにタネも仕掛けもなく、消えていった。