第四話 覚悟の先に
畑仕事を終えて室内に戻ってくれば、部屋が酷く暗く感じた。
まるで自分の心のようだ、と考えてから、なんて沈んだ考えだろうかと自分で落胆する。
リビングの自分の席に腰かけると、低く重い音がギィと響いた。ただの椅子にそんな能力があるはずもないのに、自分の心を読まれたのかと少しドキッとする。何も無い風を装って軽く座りなおしてからぼんやりと窓の外を眺めた。
畑仕事の後片付けをしていて思い出したのだが、自分はリンと似た人物を知っている。
自分、と言っても、青木礼の方の自分である。
当然、自分の女性の知り合いというのはそう多くない。小学校までは男女問わず話していた──とはいえ、そもそもあまり人と話さない子供だった──が、中学校にもなると、ただでさえ人付き合いが苦手な自分は、少しの壁さえも乗り越えることが出来ず、なるべく性質の近い人とだけ話すようになってしまった。そして学業を修めた後は男が多い職に就いたものだから、いよいよ話しかける機会というものすらなくなってしまった。
そういうわけで、その知り合い、というのは小学生の頃の友人の話である。
名前は白妙凛。
彼女と出会ったのは小学校入学式の日。五十音が離れているから席は遠かった。勿論その日に話をした記憶もない。ただ、何かのペア学習で一緒になったとかで話すようになり、それから少しずつ、少しずつ、彼女の方から歩み寄って来てくれたのだ。
彼女は淡く掠れたようなセピア色の髪を肩につくくらい伸ばし、髪よりいくらか薄い色の瞳をくりくりとさせていた。名前の通り白く透き通ったような肌をよく覚えている。
顔がリンに似ていたかどうかは正直なところ曖昧だ。なにせ20年ほども昔の記憶だから顔の詳細は曖昧で、似ていた、と言われればそうかもしれないし、似ていなかったと言われても納得してしまう。
ならば何が似ていたのかと問われれば、その性格と雰囲気だ。
自分がどんなに後ろ向きなことを言っても前に向き直らせ、手を引っ張ってあちこちに振り回し、何かあれば相手など気にすることなく立ち向かうその性格。発する言葉通り明るく快活で、笑顔が太陽のようで、眼差しが優しくて……。
考えれば考えるほど似ているように感じてしまうのは、自分が女性と接した経験が少ないからだろうか。
しかし、自分とレイ・アインス、それぞれの数少ない女性の知り合いの中で名前が一致しているというのは、偶然で片付けていいようには思えない。
もしもこの世界に自分を送り込んだ神のような存在がいるのなら──そういうファンタジー的思考が許されるなら、そういった違和感にも何かしら特別な意味がありそうなものだ。
例えばそう、実は2つの世界にはそっくりな魂を持つ人間がいる、というような。
だから自分は、そのそっくりな魂を持っていたレイ・アインスの体に送り込まれた、というような。
つまりリン・アインスの体には白妙凛そっくりの魂が──
そこまで考えて、ぶんぶんと強く頭を振った。
考えてどうする。そうだったとして、もうどちらに会うこともできない。悲しみを一層深めるだけだ。
「はあ……。」
ため息をついた勢いのまま、テーブルに肘をつき、その手に顎を乗せて体重をかける。気が重たい。
余談だが、白妙凛は小学3年生の終わりに転校してしまった。
引っ越してしまうなら、と勇気を出して連絡手段を求めたはいいものの、もらえたのは彼女の親の携帯電話の番号。人見知り且つ電話も得意でなかった自分にはあまりにもハードルが高く、自分からは連絡が出来なかった。彼女からの連絡は度々あったものの、彼女も生活が忙しくなったのか連絡の頻度が減り、ある時を境にぱたりと連絡が来なくなってしまった。
そのうち彼女がいない学校生活にも慣れてしまって、ついぞ自分から連絡をしないまま小学校を卒業した。
こうして振り返ると、青木礼というのは全く情けない人間である。
自分から友人を作ったことがなく、運良く仲良くなれた友人の後をついて回るだけで、その友人にすら自ら連絡を取ることができない。そのうえ、それ以降まともに友人と呼べる友人を作ったこともなく、恩のある上司にすら受け取った厚意を返さない始末である。
もしも自分が初めからレイ・アインスだったなら話は違っただろう。レイ・アインスも人見知りではあったものの、妹を思う気持ちの中には、妹を思う人のことを大切にしたいという思いも含まれていた。彼女の恋人であるリヒトは勿論のこと、彼女によく声をかけてくれる露店の人々、何かのついでに彼女の心配をしてくれる薬師、彼女にと多めにパンを包んでくれるパン屋……そういった街の人々のことを、彼は自ら気にかけて行動していたのだ。
自分は青木礼であり、レイ・アインスだ。確かにそう思った。
記憶を全て受け入れたことで、まるで運動を欠かさず健康的な生活を送り、のどかな環境の中でのびのびと育った、妹思いの男になったような気になっていた。
しかし、こうして熟考してみると、自分はやはりどうしても青木礼なのだと感じる。彼と同じ思考回路で物事を考えられたとして、それに従うことは自分にはできない。
だから例えば、これから一人で生きていくとして、街の人に気を使って生活することなどできる気がしない。自分一人の世話をして、それで終いがいい。それが一番気が楽で、安全だ。
友人も作らず、誰について回ることもせず、なるべく人と関わらず。これまで通り狩りをして、作物を育てて、街に下りれば売るものだけ売る。妹との思い出を時折愛でるくらいが丁度いい。
それがきっと、青木礼という人間に見合った生活だ。
それがきっと、自分にとっての幸せだ。
きっとそうに違いない。
──だが。
(それでいいんだろうか。)
そんな考えが頭をよぎった。
いいに決まっている。
もしもこの世界がファンタジーの世界だったとして、レイ・アインスとして生きねばならないという使命があるとして、どうしてそれを自分が成さねばならないのだ。いるかもわからない神の思し召しに、どうして従わなくてはならないのだ。
自分に使命を与えるということ自体間違っている。自分が何かを成すという認識自体、間違っている。
自分は何もできない。何もないのだ。
けれども。
(それで、本当にいいんだろうか。)
──妹のことも諦めてしまって。
いいや。
思わず立ち上がっていた。椅子が後ろでひっくり返る。
いいわけがない。
思考回路が同じでなくとも、この記憶はもう自分のもので、この感情も自分のものだ。
だからそう、妹への愛だって、もう自分のものなのだ。
テーブルに押し付けられた手を見れば、小刻みに震えている。
そうだ。それだけ、自分は妹を想っているのだ。
だからいいわけがないのだ。彼女無しでこれまで通りの生活を続けて、ただ一人でのうのうと生きていくことを、自分は望まない。
レイ・アインスの幸せ──自分の幸せには、彼女が必要なのだ。
倒れた椅子を起こして、テーブルの下に滑らせる。
青木礼がここまで前のめりな気持ちになったことは過去にあっただろうか。
慣れない感覚に陥りながらも、不思議と不快には思わなかった。
これからのことを考えなければならない。
一番に掲げること、それは勿論、妹の発見、それから救出である。
前提として、妹は自らの意思で去った訳ではない。
これは確信である。長年彼女と過ごしてきた記憶がある自分の、何よりも信頼できる確信である。
彼女は、生活や人間関係には決して不満はなかった。そこに隠れた感情など絶対に在りえない。
誰かに脅されて拐かされることもあり得ない。彼女は勇敢ではあるものの、決して無謀ではない。脅されたのなら誰かしらに相談しているはずだ。自分にしないのならば恋人であるリヒトにするだろうが、もし彼に相談していたのなら、彼があの日「リンはいませんか?」などと間抜けな質問をするはずがない。
故に、何か突然の問題があって彼女はいなくなってしまった、そう考えざるを得ないのだ。
この数日間探してきた中で、彼女が歩いていた痕跡を見つけること自体は出来ている。それ自体は簡単だったのだ、何せいつも街に下りる時に使っている道の、一番新しい小さめの足跡を探すだけでいいのだから。
しかし問題はその足跡の続く先である。
端的に言えば、無かったのだ。山から街までの3分の2ほどの位置、木々も疎らになって動物もそうおらず、街が遠くに見え出すその位置から、先に続くはずの足跡が、無かったのである。
原因として考えられるのは雨が降った場合、それから地面の性質の変化。しかしあの日はよく晴れた日だったし、足跡の終着点に地面の変化も無かった。
例えそれらの可能性が微弱に残っているとして、それが原因とは考えられない。
なぜなら、彼女の最後の足跡は、半分しか残っていなかったからだ。
最後の一歩、左足を前に出したその足跡が、土踏まずの上辺りからまるで切り取られてしまったかのように無かったのである。
初めてその痕跡を見つけたのは、彼女を探し始めたその日の夕方だった。彼女の痕跡を追うのなら当然、一番に確認すべきは家から出て行った時の足跡だろう。それを追っていたから、最後の痕跡もとても早いうちに見つけたのだ。
見つけた時はそれは驚いた。足跡は迷いなく街の方へと進んでいた。消える直前で強く足踏みしたような様子もない。こんな足跡、誰がどう望んでもつけられない。
踵から少しずつ足跡を付けて途中で足を持ち上げたとすれば、持ち上げた位置になだらかな小さい坂が出来るはずである。しかし彼女の足跡はそうではなかった。くっきり、ハッキリ、土踏まずの上から切れていたのだ。
ああ確かに、靴の先をちょん切って、それに重石を乗せて跡をつけたなら、同じ形の跡がつけられよう。しかし、誰が何のためにそんなことをすると言うのだ。
自分はその足跡をしばらく調べた後、街の方へと情報収集のために向かった。街ではその日、彼女の姿を見た者はいなかった。そのあとはただひたすらに、闇雲に、山と街の中を駆けまわっていただけである。
今思えば、そんなことをしても見つかるはずがないな、と思う。けれども可能性は潰しておきたかった。全ての可能性を試したかった。
それを何よりも優先した結果が、あの空腹による気絶だったのである。
では、これからどのようにして彼女を探すのか。
自分は、改めて考えなおした今、一つの可能性を見出していた。
それは、魔法である。
実は、この世界には魔法というものが存在する。自分が弓を扱った時に発していた光がそれだ。あれは弓の殺傷能力を底上げする魔法がかかった弓矢であり、あれで何かを射ることで自動的にその魔法が発動するようになっているのである。
魔法で実現できることは多岐にわたる。
それで、思ったのだ。
転移魔法も存在するのではなかろうかと。
これはレイ・アインスの知識ではなく、青木礼の知識だった。子供の頃に使えることを憧れた瞬間移動。ファンタジー小説を読んでいた時に時折目にしていた魔法のうちの一つ。そういったものが、この世界にもあるのではないか、と自分は思ったのだ。
もしそれが存在するのなら、先ほどの奇妙な足跡の形にも説明がつくのではないだろうか。
この考えには根拠の欠片も無い。人に言えば突飛な考えだと笑われるかもしれない。
けれどもやはり、可能性は全て試したいと思った。
だから、これを一つの手がかりとして彼女を探すことに、今、決めた。
テーブルから離れて階段を登る。
登り切った正面は妹の部屋の扉。思わず一度立ち止まる。
その隣がレイ・アインスの部屋だ。
扉を開ければ、狩りをする道具くらいしか目につくものが無い雑然とした部屋。
引き出しが大きい棚から、いつもは使わない遠出用の背負い袋を取り出した。その中に弓矢の手入れ道具と少しの着替えを放り込む。基本的なものはズボンのポケットに入りっぱなしだが、念のため、その予備も袋に入れておく。それから地図と方位磁針によく似た魔法品も、それから使うかもわからない手帳なんかも放り込んだ。
そうだ、と部屋を出て一階に下り、家族共用の救急箱からいくつか回復用ポーションを取り出した。高価なものだからもしもの時に、と母に言われてかれこれ十数年使われたところを見ていない。今がもしもの時だろう。包帯などの手当道具と共に小さな袋に纏め、背負い袋の中に入れた。
忘れ物が無いか、何度も確かめる。
ふと思い立ち、二階のリンの部屋へ向かった。
「なあ、中、入るぞ。」
返事がないことなど分かっていたが、そう声に出してから扉を開けた。
窓はきっちりと閉まっている。改めて見ても、特に乱れたところはない。
少しの間迷ってから、ふとドレッサーに足を向けた。
鏡の前、小さな籠にいくつかの小瓶が入っている。そのうちの一つを手に取った。
何も書かれていない、透明な瓶。中には春の野花のような優しい黄緑色の液体が入っていた。
これは香水だ。
彼女が、採取してきた野草のいくつかを売らずに、面倒そうな手順を踏んで、自分で作ったのだ。柔らかな彼女らしい香りを纏わせて、「どう?」とだけ聞いてきたことが何度もあった。何と答えたんだったか正直覚えていない。だが、その香りを纏って楽しそうにする彼女は愛らしかった。
(悪いな。)
心の中でそっと謝罪して、それを袋に放り込んだ。
「そう、見つからなかったんですね……。」
昼下がりの食堂の喧騒の中、男はふわりと綿のように柔らかな声で、落胆を示す。
「これだけの期間、音沙汰も無かったので、少し覚悟はしていました。でも、それでも……。」
「いい知らせを持ってこれなくて申し訳ないです。」
「……そんな。お兄さんも辛いところ、こうして伝えに来てくださってありがとうございます。」
「いえ。ずっとそれだけではいられませんから。」
「そう、ですよね。」
彼は深く俯いて、ゆっくりと大きく息を吐いた。その息が僅かに震えていることを、自分以外の、この食堂にいる誰もが気が付けないだろう。テーブルの上に組まれた手には力が込められているのが目で見てわかる。
「僕も……前を、向かなくては。あの日から、僕も出来る限り彼女を探しながら、考えていたんです。見つからなかったら、どうしようと。そんな可能性、考えたくなんて、ありませんでしたけど……。」
「気持ちは分かります。」
「でも、いざそうなると、やっぱり……信じたくなくて。どうしたらいいのかなんて、とても、分かったものじゃありませんね。」
「……。それで、なんですが。リヒトさん。」
「?……はい、なんでしょうか。」
「自分、旅に出ようと思うんです。」
「旅、ですか。」
リヒトは一つ瞬きをして、ほんのり首を傾けた。
「気持ちを新しくするなら、旅は最適だと思いますけれど。とても、その……急ではありませんか?」
「そうですね。」
「それに、……まだ、帰ってくる可能性も、……。」
「はい。あるかもしれません。」
「なら──」
「でも、待つ役目は、貴方に任せようと思って。」
彼は、今度は二度瞬きをして、驚きを隠さずに眉を大きく上げた。
「僕に?」
「はい、貴方に。自分は、全力で探すので。待つ役目を、貴方に。……リヒトさんにしか頼めないと思って、来ました。」
彼はその言葉の意味を理解したらしく、少しの間宙に視線を彷徨わせて、それから手元に落とした。彼の手がほんの少し震える。
「僕にしか、ですか?」
「はい。貴方にしか。」
「僕に、その役目が果たせると……思いますか。」
「……はい。貴方なら、きっと。」
沈黙が流れる。
ただただ待った。自分には、待つしかなかった。
けれど、彼を頼るしかなかった。彼なら、リンを愛する彼なら頼ってもいいと思えた。
しばらくして息を吸い込む音がしたかと思えば、ふっと吐き出しながら、彼はたれ気味の目で真っすぐ自分を見つめた。
「……。わかりました。僕が、待ちます。」
「!……本当ですか。」
「はい。待ちます。いつまでも、リンを待ちます。」
彼の声は視線と違わず真っすぐだった。その勢いに、思わず目頭が熱くなる。
「…………。ありがとうございます。」
「いえ、とんでもない。お兄さんがすることに比べたら、大した事じゃありませんよ。……お兄さん、貴方がいらっしゃらない間は、僕が家を見ていますから。だから、安心して行ってきてください。」
「はい。そうさせて頂きます。家は、好きにしていいですから。」
「ありがとうございます。……。きっと、無事でいてくださいね。リンのために。」
「……はい。きっと。」
「僕、貴方のことも、待っていますから。」
「ありがとうございます。」
そうしてリヒトと別れた。
目から雫が零れないようにするので精一杯だった。
自分が人を頼るために会いに行くなんて、明日雪でも降るかもしれない。けれど、雪が降ったとしても、それでも、自分は歩みを止めるつもりはない。
外はまだ明るかった。元の世界の感覚で言えば、大体16時頃だろうか。
旅立ちには遅いが、思い立った時を考えれば随分早い。
風に吹かれてゆらゆらと服の裾が揺れる。少し目にかかった前髪をかき上げた。そのまま顔を上げれば、赤くなり始めた太陽が何よりも眩しく光っていた。
歩き続けて、二つの環を持った天体が真上に浮かびあがった頃。
そろそろこの辺りにしようかと、少し開けた場所を探す。
見つかった場所で適当な食糧を口にし、眠るために巨大な木の葉で簡易的なハンモックを作って横になる。
空を見上げようと思っても、木の葉が邪魔で見ることができない。本も持っていないし、スマホも無い。
慣れない寝床で不安になったのか、妙にじっとしていられない心地がする。
ざわざわと木の葉が擦れる音がうるさい。
だから一度立ち上がろうと重心を少しずらして。
それに応えてハンモックが傾いて。
バランスを崩して葉からずり落ちて。
横から地面に衝突する──
──と思った瞬間、ふかふかのベッドの上で目が覚めた。




