第三話 レイ・アインスの回顧
体の痛みで目が覚めた。
肘と膝が硬い床についている。ぎゅっと縮こまるような体勢をしていたものだから、関節周りの筋肉などはきっと固まってしまっただろう。
ぴぃぴろろ、ぴぃぴろろ。
窓の外からセゼモの声が聞こえた。
(もうそんな時間か。)
夜のうちに頭は冷やされたらしい。今は不安も焦燥も悲しみも、心を食いつくしてしまうことはなかった。
ゆっくりと体を起こせば、案の定、ギシギシと関節の唸る音がする。開けっ放しだったドアから風が入り込んでいるらしく、目元を優しくそっと撫でていった。涙が流れて乾燥した場所がカピカピになっているものだから、少し居心地が悪い。
整えられたベッド、中身がパンパンで半開きのクローゼット、使い古された書き物机に、化粧品がいくつか使いっぱなしになっているドレッサー。
やはり、部屋の主はいない。
昨日全て吐き出したと思っていたのに、また視界が波打つ。
──リン・アインス。愛する我が妹。
この言葉に違和感は無い。家を見た時のあの一瞬で、自分がレイ・アインスであるという自覚はハッキリしていた。
もちろん、青木礼であることが嘘だったわけではない、と思う。証明する術はないが、青木礼として生きた時間も自分の中に確かにある。
言葉にするならば、空腹で倒れてから先ほどまで、レイ・アインスとして生きた時間を忘れていた……というような感覚だ。忘れるにはあまりにも長すぎる記憶だが、それ以外の言葉での表し方がわからないのだから仕方ない。
ふう、と一つため息を吐く。
忘れるようなことが無ければ、妹を見つけ出せただろうか。一晩中繰り返した問い。
答えはおそらく否。
いなくなったと気が付いてから今日まで、山の中の道という道は全て歩いたし、街の裏路地の隅から隅までも確かめた。しかし結局、歩いていた痕跡は追い切れず、不審な噂話はすべて当てにならなかった。
それに、自分が眠っていた時間はそう長くない。せいぜい数時間といったところだろう。その数時間のうちに彼女を見つけられていたのだとしたら、それまでの数日間のうちに情報の一つや二つ掴んでいておかしくない。
でも、それでも。たまたま情報が自分の目や耳に届かなかっただけだったとしたら?もしも眠っていたその数時間のうちに山の近くを通っていたら?そんな思考が止められない。
今度ははあ、と息を吐いた。
「そんなにため息を吐いてたら、幸せが逃げて行っちゃうよ?」
そう声が聞こえた気がして、思わずもう一度、床に座った状態で蹲る。
リンは──妹をこよなく愛する兄によるフィルターがかかっていることは否めないが──生まれた日の太陽のように明るく、その日の風のように優しい子だった。同時にどこかの上司か賢者様かのように賢く、誰にも負けない程強かだった。
自分が卑屈になっても笑ってくれて、自分の不足を補ってくれた。常に二人にとってのよりよい暮らしを考えてくれていたし、自分が馬鹿にされた時は大きな男にだって負けじと声を張ってくれた。
そんな彼女ならば、今の自分の姿を見て決してよい顔はしないだろう。手を差し伸べてくれるだろうか。あるいは、手を強く引っ張って立ち上がらせてくれるかもしれない。
けれどもいくらそんな妄想をしたところで、今は自分の呼吸と風の囁きしか聞こえてこなかった。
立ち上がりたくない。
立ち上がってしまったら、何かをしなくてはいけなくなる。
何もしたくない。
目を開けても暗い視界の中、額と膝と膝の隙間から朝の光が入り込んでくる。いくら足を閉じようとしてもその隙間は埋まらない。身体の構造上そうなることは当たり前なのだが、それがなんとなく何かの意味があるように感じてしまうのは何故だろうか。
ほんの少しだけ、足を開いてみる。
視界に光が大きく差し込んだ。
もう少しだけ、足を開いてみる。
先ほどよりもさらに強く光が差し込む。
ああ、手を引かれるなら妹の手がよかった。
それでも、この光に導かれるようにして、ゆっくり頭を持ち上げた。
やはり日の光は眩しかった。涙が乾いた後の目に沁みる。彼女が生まれた日の光もこんなに眩しかっただろうか。
しばらく目を焼いて、その光に目が慣れた頃、ようやく立ち上がった。
ドアを閉めに行かなくては。
閉まった扉を背にして、ぼんやりと家の中を見渡す。
リビングのテーブルの上には木のボウルが乗っかっている。そういえば、リヒト──リンの恋人が彼女の所在を訪ねてきた時、丁度昼食を食べていたところだった。
すっかり冷めきったどころかやや腐り始めているそれを、裏口から出て生ごみ用のバケツに放り込む。
見ればバケツの中身も中々酷い有様になっていた。早く土と混ぜて肥料にしてやらなければいけなさそうだ。
と、ただ思うだけ。すぐには体を動かす気になれず、家の中へ戻るとボウルを冷たい水で洗い流した。
洗ったものをタオルで拭きながら朝食について考える。
キッチンに置かれた調理用品と調味料。
ご飯はいつもリンと交代交代で作っていた。昼食は互いに外出していることが多かったため、朝食と夕食だけ。朝はリンなら、夜は自分。朝が自分なら夜はリン、という具合に。
互いに料理の腕はそれなりだった。リンの料理は彼女の性格と同じく優しい味がしたものだ。
特に記憶に残っているのは、最近、自分が熱を出した日のこと。
そもそもあの日、自分は己の不調に気が付いていなかったので、いつも通りに支度をして狩りに出ようとしていた。それを妹が止めてきたのだ。
手を取って、「やっぱり、熱いじゃない。」と彼女は眉を寄せた。
「風邪引いちゃったんじゃないの?」
「そうかなあ。全然、動けるけれど……。」
「動ける、動けない、じゃないの。お兄ちゃんたら、私が風邪引いた時にはなんて言うっけ?ほら、悪化したら?」
「…………。」
「ずるいなあ、お兄ちゃん。『愛する家族が悲しむから寝てなさい。』でしょ?」
「でも、今日の分が。」
「でも、じゃありません。お兄ちゃんに何かあったら、今日明日どころか、来月、来年の私はどうなっちゃうの?」
「彼がいるじゃないか。」
「ああっ、言ったね?リヒトさんがいるからって、私が悲しむのは変わらないよ。お兄ちゃんに大切な人が出来たとして、その人がいるから私は要らないって言うの?」
少し怒り混じりの真っすぐな瞳で正論を叩きつけられ、思わず「ごめん。」と零す。結局その日の狩りはやめて、自室のベッドの上で横になることにした。
いざ横になると、自分が病人である自覚が芽生えて具合が悪くなってくるものだ。ぐったりしているところに部屋のノック音が響く。
「お兄ちゃん?」
うん、と声を返したが掠れていて聞こえなかったらしい。もう一度問われてから扉が開く。
「ご飯作ってきたんだけど、食べられそう?」
うん、とまた声を返そうと思ったが、流石にいつも通りには食べられなさそうだった。
「カキョ、作ってきた。」
こちらの考えを察したのか彼女はそう付け加える。
カキョはお米のような穀物を柔らかくなるまでじっくりと煮込み続けて作るもので、病人に出す料理としても定番だ。元の世界で言うところのお粥だろう。サーベという葉を一緒に煮込むと、ほんの少し柔らかな塩味と風味がつくのである。
お盆から器を受け取り一口掬えば、思った通りサーベの香りがした。口に運ぶと鼻の奥までその香りで満ちて、それはそれは優しい味がした。
彼女は体調を崩した兄がそれを食べ終わるのを静かに待っていた。
その視線に、ふっと意識が現実へ引き戻される。
調味料のビンの中からサーベを取り出し、すん、と匂いを嗅いでみる。
ああ、この香りだ。
居ても立っても居られなくなり、材料である穀物、カサモと共に鍋に放り入れた。ぐつぐつと煮込む間、ただじっとその鍋を見つめ続けた。
カキョが出来上がると先ほどの木のボウルに盛り付ける。それをスプーンと共にテーブルまで運べば、元の世界の慣習に倣って手を合わせた。
「いただきます。」
口に含むとサーベの香りが鼻の奥まで満ちて、目の奥がカッと熱くなる。
青木礼はここまで涙脆くなかった。感動モノのドキュメンタリーだとか、それこそファンタジー小説の大事なシーンだとか、そういうものを見ても涙を流したことがない。なんだか、ピンとこなかったのだ。自分の境遇とは全然違う話だったからかもしれないし、お涙頂戴の仕組まれた流れに抗っていたかったのかもしれない。
しかしそれがどうだろう。今、草の香り一つで涙ぐんでいる。
きっとレイ・アインスのせいだ。
誰に責められたわけでも、泣くことが悪いわけでもないのに、そう思いたい気持ちだった。
誤魔化すように目元を拭って、二口目を口に含む。
美味しい。温かい。
そこでふと首を傾げた。このカキョ、何かが足りない。
優しい味はするのだが、あの日の味の優しさとはまるで違うのだ。
煮込む時間が違ったのか、サーベの量が違ったのか、それとも。答え合わせは出来ない。しかし、そういう手間による違いではない気がする、と自分の勘は言っていた。
感動シーンで泣かなかった自分がそう考えるなんて、一種の笑い話だろう。もしも元の世界に帰れたなら、高橋さんに話してみようか。二つの世界を生きるという不思議な体験を説明する手間のことなど全く考慮せず、そう思った。
そうして三口目、四口目と、食べ進めた。
思えば、あの時の感謝を伝えただろうか。ありがとうの一言は言ったはずだが、彼女のしてくれたことに対してはそれ以上の言葉を渡すべきだったのではないか──いや、そうしたかった、と本人がいない今悔しく思う。
カキョを食べ終えても、優しい眼差しはそこになかった。
窓から差し込む光が正午ごろを指している。
木のボウルを再び洗いながら考える。生ごみの処理はとにかく早めにしておいた方がいい。それに、家の前の畑も数日放置してしまったから様子を見ておくべきだ。
先ほどよりも幾分か気分も落ち着いているし、幸か不幸か、食事をしたことによって気力なるものが湧いてきている。
人間という生物の仕組みはどこの世界でも変わらないものだなあ、と思いながら、ボウルの水気を軽くタオルで拭い、外に出ることにした。
春の日差しは明るいが、今の自分にとっては、全身で浴びるには少し眩しすぎる。
帽子を被って外に出ると右手に体の向きを変えた。そこには小さめの畑がある。大人の男が大股で歩いたとして、縦は5歩、横は7歩といった程度の広さだ。畑にしては狭いと思われるかもしれないが、自分たちが食べる分だけを育てるには十分だった。
両親がいなくなった後、ここの管理は殆どリンが担当していた。自分がしていたことと言えば、それこそ生ごみを肥料にするための処理と、それから、リンがわざわざ呼び出すものだから付き合っていた収穫くらいだ。
と言っても、始めから役割がリンに偏っていた訳ではない。寧ろ、両親がいた頃は自分が主体として作物の世話をしていた。
「にいちゃ。これ、これ。」
「これ?これは、クョエル。言ってみて?」
「くぅえる?」
「ううん、クョエル。」
「く。く……くよえる。」
「へへ、上手だね。」
その頃、妹はまだ言葉をいくつか覚えたばかりで、自分で指を指した植物の実を見ながら、覚束ない口の動きで単語を何度も反芻していた。
その横で自分はクョエルの実を選別する。曲がってしまったものは小さくても取ってしまった方が育ちがいい。父親にそう教わったのでその通りにしていた。
その父親と言えば少し離れたところで土を掘り返していた。傍に置かれているバケツには自分たちの食事から生み出された生ごみが入っていることだろう。大きめの穴を掘り、その中に生ごみと土を交互に入れることによって、本来捨てるべきものを肥料へと変えることができるのだ。
母親はそんな土仕事をしているところを家の中から見るのを好んでいた。作業中、リビング横の窓をちらりと覗けば、目が合ったことに気が付いてこちらに手を振ってくれたものだ。
さて、選別により茎から切り離された実たちが、寂しそうにそこに転がっている。妹はそれを興味深そうに拾った。
「くょえる。」
「うん。」
「くょえる、すき。」
「えー、まだ食べたことないのに?」
「くふふ。にいちゃ、すき。」
その言葉に思わず何度も瞬きした。聞き間違いを疑って父親へ目配せをすると、父親は少し驚いたように目を見開いて、それから目尻をぐっと下げて微笑みながら頷いた。
妹へと視線を戻す。
ああ、それがやはりこの世の何よりも愛らしくて。尊いもので。
土のついた手のまんま、ぎゅうと彼女を強く抱きしめた。
確か、それが初めての、言葉による妹からの愛情表現だった。その時の彼女の表情を、まるで写真のようによく覚えている。
ふっくらとした輪郭にクョエルを握ったままの手を添えて、その手に口を隠すようにして笑っていた。上がった口角は触ったら柔らかそうで、勢いで瞑ったらしい目元には数少ない皺が寄っている。風に吹かれて束から逃げ出した髪の毛一本が、目を開けた拍子に入り込んでしまいそうで危うかった。
まるで、仕掛けた悪戯が成功して、してやった、とでも言いたげな表情にも思えた。けれど彼女にとっては多分、覚えたての言葉を並べただけだったのだろう。
けれどもそれが、自分にとっては、こうして永遠の記憶として残っているほどに幸せな出来事だった。
思い起こしながら手を動かしていたら、予定していたよりも深く穴を掘ってしまった。
掘った穴の上でバケツを傾け、生ごみが入ったその上から土を覆いかぶせる。今度はバケツを完全にひっくり返して、その上に全ての土を重ねてやった。
リビング横の窓を覗き込んでも、ただ暗い室内が見えるだけだった。
畑へ目を向ける。
丁寧に世話をしてきた甲斐あって、今もあの時のクョエルは植わったままになっている。
しかし、実はなっていない。クョエルの実がなり始めるのは、日差しの柔らかさが鋭さに変わり、しとしとがじとじとに変わる季節だ。
その季節が、無性に恋しい。
少し待てば来るはずのその季節が、今はなんだかとてつもなく遠く、遠く感じる。
もしかしたら、自分が待っているその季節はもう永遠に来ないのではないか、という思いさえある。
クョエルの苗の傍にしゃがみ、不要な葉を、その茎の分かれ目からそっと手折る。
日が眩しい。
真上から降り注ぐ光に対して、真下にぽつんと、何時よりも小さく、縮こまるように、影がそこにあった。




