第二話 転生の自覚
ぱちぱちと火花が散り、もくもくと煙が上がっている。
目の前で燃える葉っぱの山の上には、まだ鮮やかなピンクが目立つ肉の塊がぶら下がっており、木の枝で組み立てられた台が一生懸命それを支えていた。
きゅるる、とまた腹が鳴る。もう少しの辛抱だ。
さて、先程は一体何があったのか。そう問われれば、自分はただ目の前で見たことを説明することしかできない。歩いていたら後ろから謎の生物に襲われ、それを持っていた弓矢で撃退した。これに尽きる。
しかしこれまでの人生、運動などもってのほかだった。クラスのリレーメンバーに選ばれたことは無いし、10点満点の体力測定では7点までしか取ったことがない。7点取ったなら十分ではないかと思われるかもしれないが、取った種目は長座体前屈のみである。当然ながら弓矢など扱ったことも無く、体術を習った経験も無いに等しい。
ついでに言えば、自分にはキャンプの心得も無い。火をつけるには乾いた葉っぱを集めるのがいいらしい、とは耳にしたことがあるが、火を起こしたり外で調理をしたりすることに関しては、知識も技術も持ち合わせていないのだ。
自分があの倒れ伏した生物を解体し始めた時はとても驚いた。元の世界で例えるならばクマのようなそれを、食べ物として見ること自体異常だった。
にも関わらず、解体の手際はそれはそれは素晴らしかった。
慣れたようにポケットから取り出したナイフを分厚い皮に差し込むと、そのまま美しい線を描いていく。みるみるうちに皮が一枚の大きな絨毯となり、肉は骨から切り離され、内臓はそのままの形で取り出された。首元に埋め込まれていたらしい宝石のような石も、殆ど傷つけることなく切り出すことができていた。
青木礼ならば、そんなことをした暁には血肉のグロテスクさで頭が真っ白になって、自分の手指をナイフで切ってしまっていたに違いない。
しかしそんなことを考える中でも、自分の体は火の大きさを調整するべく枝を火に放り入れ、大きく丈夫な植物の葉で軽く扇いでいた。
一体なぜこんなことができるのか。
ぎゅっと拳を握ってみる。手首から盛り上がった血管は太く、筋肉質な腕のまわりにしっかりと沿って伸びている。足も、今は力が入らないもののがっしりとしているのが分かる。
ズボンの大きなポケットにはあらゆる道具が詰め込まれていた。先ほど挙げたナイフの他、火をつけるための火打石、何か運んだり集めたりするための袋、長くて目の粗い紐、空っぽの水袋、何かの骨でできているらしい笛……。
緊急事態における反射神経、動物の解体の手さばき、食事の用意の手早さ。
ファンタジー的な観点から考えてみると──
(なるほど、職業は狩人か。)
浮ついた心地がすると同時に、ぐうう、と間抜けな音が響いた。
焼かれていた肉の塊を一つ、手に取ってみる。表面の赤は黒みを帯びており、顔に近づけるだけで香ばしい匂いに襲われる。
我慢できず、そのままの勢いでかぶりついた。
「……っ。」
美味い。
美味すぎる。
肉とはこんなに美味いものだっただろうか。
「…………。」
「……。」
「………………。」
無我夢中で貪り食った。
肉の塊が3つ目の前から消えたところで漸く、何の調味料もつけていないことに気が付いた。
体の記憶を頼りに、ポケットから小さな袋を取り出す。中には細い枝についたままの赤い実や、黄色い花の蕾、非常に分厚い葉が入っていた。今回は赤い実を一つ、つまんで枝からそっと外す。
そしてそれを肉の上で潰した。中からぱらぱらと小さな黒い実が零れ落ちてきて肉の表面に纏わりつく。
(今だ!)
もう一度かぶりついた。
先ほどまでは香ばしさ、肉の旨味、臭み、そういったものを味わっていた。
しかしどうだろう、たったひと手間でそれらがガラリと変わってしまった!
パチパチと小さな実が口の中で弾け、同時に痛みとも思える辛みが舌を刺激する。それは肉の脂をも弾き飛ばしていく。香ばしさには実特有のクセのある香りが混ざり、まるでエスニック料理のような特別感と爽やかさを醸し出している。強く噛めば噛むほどに、この実の独特の旨さが引き出されている。
思えば、最近あまり肉を食べていなかった。というよりも、肉そのものは食べていたが、それを肉だ、と意識して食べたことが限りなく減っていたのである。
口から零れ落ちた脂を乱雑に拭い、5つ目の塊に手を伸ばす。
ははあ、これが三大欲求。どおりで、なんとか街だのなんとか横丁だのが賑わうわけだ。どおりで、世のブロガーやストリーマーがこぞって食レポをするわけだ。
パチパチ。じゅわあ。
もう気が付けば6つ並べていたはずの塊は全く、綺麗さっぱり無くなっていた。
「ははっ。」
多いかもしれない、と食べる前に思ったのは大間違いだったらしい。保存用にと切り分けた一層大きな塊たちを、ポケットから取り出した袋にしまって隠した。子供の頃に帰ったような、おかしな気持ちだった。
そこで、自分の口の端を撫ぜる。声を出して笑ったのもいつぶりだろうか。
お笑い番組を見る機会が無かったわけではないが、何となく鼻からふんと息を吐き出して、それで笑った気になっていた。
これは空腹の力か。それとも、世界を渡ったことに対する高揚感故か。
とにかく、気分がいいことは確かだった。
しばらくその場に座っていた。
満腹感と充足感の余韻に浸り、それ以外の全てを放棄していた。
元の世界とこの世界の違いは既にいくつも目にしているが、どうやら時間の流れを知る術は同じらしい。
太陽──この世界の住人がそう呼んでいるかは定かではない──が沈み始めて空が茜色に塗りつぶされる。どことなく耳馴染みの良い、クァクァという生物の声が虚しさを駆り立てた。
先程までとは異なって、自分の胸の内に静かに冷たい、ざらざらとしたものが流れ始めている。胸を軽く摩るが当然収まるわけはない。
ただ何となく、どこかに行かなければいけない気がした。
どこ、がどのような場所なのかはわからない。けれども行かなければいけない気がした。
どちらにせよ、ずっとここにいるわけにもいかない。また先ほどのように何かに襲われてしまうかもしれないし、なにより就寝に必要なものを持ち合わせていない。このままでは着の身着のままで野宿する羽目になってしまう。
仕方なしにゆっくりと立ち上がった。
食事をとって休憩した体は想像以上に動きやすかった。2つの足でしっかりと大地を踏みしめる。弓矢を背負い直し、保存用の肉が入った袋を担ぐ。袋は決して軽くないが、身体に備わる力のおかげで少しもつらくない。
すっかり消えてしまった火の後始末をし、その場を後にした。
(あっちだ。)
体の記憶は思った以上に頼りになるものだった。なんの印もない場所を歩いているものの、進むべき道だけはハッキリとわかる。勝手に体が動いているようでもあり、しかし情報を理解して自ら歩いている感覚は失われていない。意識すると非常に不思議な感覚に陥った。
一体どこへ向かっているのだろう。
歩いている間にも、冷たくてざらざらとした感覚は胸の中へと流れ込んでくる。
この感覚をなんと表現すればいいのだろうか。寂しいような、恐ろしいような。それらだけでは形容できない何かが、自分を急かしてくる。
早く。早く。急がなくては。
そうしなければ、この冷たさに凍えて動けなくなってしまうような気がする。そうしなければ、このざらざらとした何かに自分が押しつぶされてしまうような気がする。
それを何とか避けたくて、安心を得たくて、とにかく出来る限りの速さで歩く。
もう少し。
あともう少し。
空に浮かぶはまるで月のように光る天体。その身に纏う環が二つ。
並行するように走っていく動物たち。
時折視界を邪魔してくる枝と葉。
腰までありそうなほど長い草。
この草をかき分ければ──
「──あっ。」
そこには、こぢんまりとした小屋が建っていた。
二階建てのそれは正面から見れば二つの窓があって、下の窓はリビング横の窓。
上の階は、妹の部屋の窓。
窓の向こうは、真っ暗だ。
それを皮切りに、ざらりとした何かが自分の心を食い破り、自分の意識を乗っ取ってしまった。
ぴぃぴろろ、ぴぃぴろろ。
朝を知らせる鳥──セゼモの鳴き声が響き渡る。
一日の始まり。輝く朝露。少し冷たくも柔らかな風。日の光が照らすは人と人が一番に交わす声。
レイ・アインスの妹であるリン・アインスが生まれたのは、全てが優しい時刻だった。
レイはそれまで生活に不足を感じたことは無かったし、妹や弟の存在を特別望んだこともなかった。両親にその誕生の予定を知らされても、なんだかピンと来なくてしばらくふわふわとした感覚に包まれていた。
けれどもその日、母親が腕に抱く小さな小さな人間の眼を見てから、全てが変わった。
安直に言うならば、可愛かったのだ。街中で見たことのあるどんな赤子よりも──いや、これまで出会ったことのあるどんな人間よりも、可愛かったのだ。レイは人の顔の造形をそれほど気にしたことが無かったが、正面、上下、左右のどこから見ても、顔を近づけすぎて鼻をむんずと掴まれようとも、彼の顔を見て大きな声で泣かれようとも、何をされても愛らしく思えた。
彼女をどうして愛さずにいられようか。こんな人間が存在してもいいのか。実は母は神から産み落とされた神の子で、妹はその血を強く引いているのではないか。実は父は神から褒美を授かっており、それがリン・アインスという存在なのではないだろうか。
そんな推測が全て外れていたことを知ったのは、彼が妹を街に連れていって他の人の反応を見るようになってからだった。
妹が生まれたその日から、レイは殆どの時間を彼女に費やした。彼女が泣かないように常にあやしてやり、彼女がいつも笑うようにたくさん面白いものを用意して、彼女が彼に望んだものは出来る限りを尽くしてみせた。
そうしていれば、彼女も彼女で彼によくついて回るようになった。ああ、この人は私を愛してくれているのだ、私を守ってくれるのだと、理解せざるを得なかった。
彼女が大きくなってくると、年齢相応にお互いの距離感も変わっていったが、幼いころから培われた互いへの愛情だけはずっと変わらなかった。
やがて父親と母親は年の流れで空の星となり、家にはレイとリンの二人だけが暮らすようになった。
家は街から少し離れた山の中腹にぽつんと建っている。だからレイは山の中で動物を狩り、リンは山の中で野草を集め、それらを街で売って生活していた。
レイはリンと共に過ごす時間を愛していたし、彼女もまた、その時間を愛していた。リンは街の男性と仲良くなって特別な関係になるなどしていたが、それも彼にとっては幸福であり、つまりは二人にとっての幸福であった。
さて、この世の誰一人として、幸福を、そしてその幸福の持続を望まない人間はいない。しかし、世が完璧に人間の望み通りになることもない。
数日前、家にリンの恋人である男が家を訪ねてきた。
男は彼に「リンは家にいるか。」と問うた。
彼はその言葉だけでサッと血の気が引いたのを感じた。
リンは二時間ほど前に既に家を出ていたのだ。男がそう問うているということは、リンは約束の時間に約束の場所にやってこなかったのだろう。しかし彼女が待ち合わせに向かわない理由などない。途中で寄り道をして遅れてしまったのであれば、街からここまでやってきた男が鉢合わせているはずだ。
彼は男に急いで事情を説明すると、弓矢を携えて家を駆け出た。
リンの名前を何度も呼ぶ。山の中で声が空虚に響く。
彼女がいそうなところを歩き回り、時折家に戻っていないか確認し、食事の時間も寝る間も惜しんで彼女を探した。
けれども見つからない。
見つからない。
どこだ。
どこにいるんだ?
何にも代えがたい存在。
可愛いあなた。
愛する妹……。
「──リンっ!!」
結果など分かりきっているのに、家の中へ飛び入った。
明かりもつけず、慣れたその感覚で階段を駆け上がる。
そして、無作法にも力任せにその扉を開けた。
窓の向こうから夜の天体の光が差し込む。
そこには、なにもいなかった。
思わず崩れ落ちる。床の木材のささくれが手のひらに刺さるが、気にする余裕などなかった。
ぼた、ぼた、と床に零れ落ちる雫を見て、自分が泣いていることを理解した。
「ああっ、ああああ!」
そのまま蹲る。
手をぎゅうと握りしめ、強く床を殴りつけた。何度も、何度も。手から血が流れようとも。
自分は空腹で死を覚悟したほどなのに。
自分は襲われかけて死を覚悟したばかりなのに。
どうして見つからない!
これじゃあ、このままじゃあ。
「うわああああああ!!」
考えたくない。
けれどこの数日間、考えなかったことなどなかった。
そうだ。
ざらざらとした、冷たいこれは。
ずっとずっと自分の胸にあったのだ。
それを思い出しただけだったのだ。
「嫌だ、嫌だ!リン!リン……っ!」
行かないでくれ。
お前を愛するたった一人の兄を、置いていかないでくれ。
ぽつんと山奥、たった一人。
ただひたすらに喚きながら、自覚した。
自分は青木礼であり、この世界の住人、レイ・アインスでもあると。




