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第一話 初めての洗礼

 頬から耳にかけて優しく撫でるように流れる風。それに伴って指の隙間や足首をくすぐるのは何だろうか。鼻の穴を抜けていく空気は土臭く、聞こえる鳥の声は妙に近い。

 瞼をゆっくりと持ち上げて見えたのは緑色だ。日に照らされて黄色にも見えるそれは名もなき草。

 そう理解すると同時に、自分の置かれた状況を脳が処理し始める。

(土の上に横たわっている……?)

 上半身を起こし、手をついた時の感触からその事実を嚙みしめた。重なった草の下に触れるのは間違いなく土だ。少し湿り気のあるそれは言うならば豊かな森の木陰に広がっているような、虫たちが生活するのに心地よさそうな──

「!」

 慌てて立ち上がり手を離した。ボロボロと髪や横腹、ズボンの側面から土が零れ落ちる。急な起立にぐらりと視界が揺れて、手をついたのはごつごつとした肌の樹木だった。

 ここでようやく周囲に目を向ける。そこにあったのは寄りかかっているものと同じような樹木たち。葉の間から零れ落ちる日の光は、鬱蒼と茂った草を照らしている。自分が横になっていた場所はまるで穴が掘られたかのように草が倒れていた。

 この場所を森以外のなんという言葉で表すことができよう。

(自分は、森で眠っていた?)

 正しく状況を整理できているはずにも関わらず、理解が追いつかない。

 人間、どういうわけで森で眠ることがあろうか。

 それもただの出来損ないの社会人。

 そう、社会人である。会社に勤めていて、残業をして、上司と飲みに行って……。

(……。)

 そこで気が付いた。上司──高橋さんと飲みに行ったあの後、どうしたんだったか覚えがない。いつも以上に酔っぱらって、疲れていた身体のことなどすっかり忘れて高揚した気分で帰り道を歩いて、横断歩道を渡って、その後。

 あの時見たのは確かに青信号だった。それは間違いないはずである。

 しかし、最後に聞いたのは車のブレーキ音だ。

 浮遊感を感じたのも、間違いではない、気がする。

 まさか。

 自分の身体を見下ろす。

 スラックスとは程遠い、ダボっとした作業用らしきズボン。登山にでも来たのかと問いたくなるような厚底のブーツ。革製の雑なつくりのベルトは、ごわごわとした手触りの生成り色のシャツの上から無造作に締められている。シャツの上に着ているベストも既製品とは思えぬほど端の処理が雑で、生地としても悪い以外の評価のしようがない。

 思えば、視界の高さにもどことなく違和感がある。手指の形が違う。肌の焼け具合が違う。腕についた筋肉の形が違う。

 震える手で自身の髪をつまんだ。視界の端に映った色が黒であったことだけが救いだった。

 目の色は何色なんだろうか。鼻の高さはどれほどだろう。眉の形はどうなっているのだろう。

 触ってもわからない。けれども。

(──自分じゃない。)

 そう確信した。

 人間は自分という存在を自分なりに意識しているのだな、と場違いにも面白く思った。

 そして同時に()()がどうなったのかを不安に思った。

 もしもあの時本当に車にはねられていたのだとしたら……。

 その先を確かめる方法はあるのだろうか。確かめられたとして、その結果は良いものだろうか。

 そもそも、自分はどうなっていることを望むのだろうか。

 絶え間ないタスク、会社での地位、何もない休日、当たり障りのない人間関係。

 こんな時に限って両親に結婚を急かされていたことを思い出す。齢26。まあ、確かに、結婚の時期としては妥当である。実際、SNSでは学生の頃の知人が立て続けに婚約や結婚の報告をしていた。しかし残念ながら自分にはこれまで恋人はおろか想い人すらできたことが無く、恋愛とは縁のない生活をしてきた。想い人の1人でも作っておけば、親孝行になっただろうか。

「ああ……。」

 聞き慣れない声。

 思考が渦巻のように巡る。

 風が見慣れた色の髪を揺らす。

 木漏れ日の形が七変化する。

 …………。

 ……。

 しばし考えていた。

 結局、たどり着いたのは、今考えても仕方がない、ということだった。

 どれだけ叫び喚こうとこの状況が変わるわけではなく、いくら強く望んだところで望んだ通りになるわけではない。これはこれまでの人生で学んだことだ。いつもと同じ。何も変わらない。

 所詮、運命を変える手段など持ち合わせているはずがないのだ。

 先ほどまでの思考を振り切るように、頭を振った。

 さて、では気を取り直して、自分はこの先どうするべきか考えたい。

 自分が自分ではなくなる現象に心当たりはないでもないが、その心当たりに従ったとて、この先の展開については個人差があるものだから予想のしようがない。

 手がかりを求め、改めて周囲を見渡してみる。

 先程は草にこそ疑問を持たなかったが、木の根の傍に生えた花の茎は現実離れした様子でくねっている。樹木の肌はごつごつとしているだけでなく、薄っすらと横向きに奇妙な縞模様が入っていた。その巨体を駆けあがっていく動物は一瞬リスのように見えたが、異常に長い尾とその先にぶら下がる宝石のような装飾──それも動物の一部かもしれない──がそれを否定した。

 僅かに自分の心が浮つくのを感じた。

 よく見れば草も、まるでワカメのような形をしているものや、紅葉の葉を縦に潰してしまったような形をしているものなど様々である。丁度通りかかったらしい鳥の影は、これまた尾が長くその長さ凡そ本体の4倍ほど。

 動植物というものに特別興味を持ったことはない。けれども察することができる。これらの生物は自分の知っている世界には存在しないものだ。

 そしてそれから導き出される答えはただ一つ。

 ああ、なんということだろうか。

 ここは青木礼の知っている世界ではないのだ。

 自分は元の世界から放り出され、全く別の世界の、誰とも知れぬ人間の体の中に入り込んでしまったのだ。

 ぽつんと一人、孤独の中に置き去りにされてしまったのだ。

 世界の仕組みの少しも知らないただの一人の人間が、神のいたずらによって人生を言葉通り滅茶苦茶にされてしまったのだ。

 そう結論付けた自分の思考は、しかしながら思いのほか前向きだった。

 自分は社畜である前に1人の男である。就学する前には子ども向けの勧善懲悪のアニメを見てヒーローに憧れ、小中学生になれば特別な力に目覚めたマンガの主人公に憧れたものだ。勿論、高校生にもなると現実を受け入れ始めて、社会人の大多数が歩むようなレールの上に自らがあることを自覚した。しかし結局、大人になってやることのない休日にベッドに寝そべって読むのはファンタジー小説だった。

 要は、この見知らぬ世界に置かれた状況は、自分にとって都合の悪いことではなかった──むしろ、好ましく感じられるものだったのだ。

 一歩前に出る。森を歩く音としては元の世界と大差ない。

(なんとかなる。多分。)

 数歩前に出れば、先程横になっていた場所の傍に何かが落ちていることに気が付いた。弓と矢筒だ。一見何の変哲もない弓矢に見えるが、弓の握る部分が透明な石になっており、日の光を反射してまるで宝石のような輝きを放っている。落ちていた場所から察するに自分の──この体の持ち主のものだろう。

 扱うことができるのかもわからないまま、弓矢を背負った。

 きっと、大丈夫だ。だって、同じような状況におかれたどんな人も、すぐに死に絶えるようなことは無かったのだから。大丈夫に違いない。

 ざくざくと歩みを進める。

 そもそも、もしもこれが本当に神のいたずらだったとして、目の前が真っ暗な人間の体に移し替えるようなことをするはずがない。神にも何かしらの思し召しがあるはずだ。無駄な労力を割くことなどきっとない。

 長い草をかき分ける。

 それにしても、この体の持ち主はなぜこのようなところで眠っていたのだろうか。歩いてもどこにも痛みを感じないことから、何かに襲われて怪我をした、という線はなさそうだ。かといって、あの場所が心地よいから眠っていた、などということもないと思う。

 獣道を進む。

 一歩一歩が重い。自分がどんなに運動不足だとしても、ここまで重たいとは頂けない。

 そこでおや、と気が付いた。この体、異常に力が出ないのである。腕についた硬い筋肉から察するに運動不足ではないはずだ。苦しいわけではないから病気や毒に侵されているとも疑いにくい。寝不足ということは無いだろう、先程まで眠っていたのだから。であれば一体……。

 そこで、ぐうぎゅるる、と音がした。

 一瞬獣の声かと思って辺りを警戒したが、冷静になってみれば、それは自分の腹から発された音であったことに気付いた。

 そして自覚した。腹が減っているのだ。それも、とても。

 自覚した途端に空腹感に意識が向く。思わず手で腹を抑えた。腹と背がくっついてしまいそうだ。せっかく歩き出したばかりなのに、よろめいて膝をつきそうになる。

 もしや自分の体はこれが原因で倒れていたんじゃなかろうか。いいや、そんなバカな話があってたまるか。

 けれどももしや、自分はこのまま飢えで死んでしまうのではないだろうか。別の世界へ飛ばされた先人たちのようになりきれず、ここで物語を終わらせてしまうのではないだろうか。そういえば、先人たちとは言ったが、あれらは空想の話だった。ならばまさか、本当に。

 ぎゅるる。

 再び鳴った音に、もう一度腹を抑える。頭がぼんやりとして音の出どころさえわからなくなってくる。

 嫌だ、こんなところで死にたくない。

 ……ぐるる。

 立て続けに聞こえる音に、耳を塞ぎたくなって腹から手を離す。その動きさえまるでスローモーションだ。

 ただ、死にたくない。

 ぐるるるる……。

 自分の真後ろから声がする。

(死にたくない!)

 それは一瞬の出来事だった。

 ぺたんこになりそうな腹を大きく捩り、前後を入れ替える。

 身体に引っかけていた弓を、まるで引きちぎるようにして強引に構える。

 矢を矢筒から引っこ抜く。

 矢をつがえる。

 そして、矢を放った!

 辺りが閃光に包まれる。

 そして、矢を放った!矢を放った!矢を放った!

 ピカッ。ピカッ。ピカッ。

 弓の握りがまるで虹を描くように輝く。そこから蔓のように伸びた光が、弓と矢に纏わりついて光を発していた。そしてその矢が放たれる度に、光が弾けるように広がっているのだった。

 放たれた矢は真っすぐに飛び、自分の元真後ろ──つまり真正面で大口を開けていた生物の喉の奥へと吸い込まれていった。

 謎の巨大な生物は雄叫びのような、悲鳴のような声を辺りに轟かせる。

 両腕を上げていたものだからてっきり二足歩行かと思っていたが、後ずさる様子からして四足歩行だったらしい。右前脚、左後ろ脚。左前脚、右後ろ脚。よた、よた、と4本の矢を受けた体を揺らす。それこそまるで酔っぱらった人間のように、しばらくその動きを繰り返していた。

 そして。

 ──ズシン。

 その巨体は地面に倒れ伏した。

 しん、と辺りが静まり返る。

 葉の隙間から見えた空には、その衝撃で逃げ出したらしい鳥たちが見えた。

 リスのような生物の姿など見えるわけもなかった。

 一流の狩人としての気迫を前に、近付く生物などあるはずがなかった。

 そんな一流の狩人である自分はただ、呆然と立ち尽くしていた。

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