プロローグ
ぼやけて揺れる視界。
想定よりも5センチほどずれた場所を踏む足。
顔は発火するように熱く、胃の中では濁流が流れているかのようだ。
およそ2時間ほど前。
キリのつかない残業を無理矢理中断し、パソコンの電源を落として帰る支度を始めた。連日残業に苦しめられていた身体は悲鳴を上げており、布団をこれでもかというほどに恋しがっていた。まともに働かない脳みそで忘れ物が無いかを確認する。
「青木。」
水筒、レシートだらけの財布、そろそろ変えなければいけないメモ帳、来週までに目を通さなければいけない資料……。
「あーおーきー。」
忘れ物はない、はずだ。鞄のチャックを閉める。
「青木礼!」
「はい!」
反射で声が出た。先ほどから何か音は聞こえていたが、まさか自分の名前が呼ばれているとは気が付かなかった。
不満げにこちらを見ているのは直属の上司である高橋さんだ。鈍くさくて何かと失敗する自分を見捨てず、面倒を見続けてくれている恩人のような存在でありつつ、自分の陰気な性格とは合わず恐怖の対象でもある。
連日同じ──いや、自分以上に残業しているにも関わらず、底抜けの明るい声を出せるところもまた、理解のできない恐ろしい点だ。
「すみません。何かご用ですか。」
「そう縮こまらないでよ、もう何年目だっけ?そろそろ肩の力抜いていこうよ。」
「すみません……。」
「謝ることじゃないんだけどなあ。で、どう?行けそう?」
「あ、すみま、……。ええと、何の話ですか?」
「飲~み。久しぶりにパーっとやろうよ。」
にこっと調子よく笑う彼の顔に、帰りたい、という本音を慌てて飲み込んだ。日頃から──確かおよそ4年間──迷惑をかけ続けているのに、ここで帰りますとは言えない。もちろん、高橋さんの人柄からすれば、誘いを断っても不満を口にしたり不機嫌になったりすることは無いだろう。しかしながら、彼からの厚意は出来る限り受け取っておく、というのが木偶の坊とも呼べる自分なりの処世術だった。
それに、飲みというものは嫌いではない。アルコールを呷りながら酒場の喧騒に身を任せるのは存外心地の良いものだ。話題の提供を強いられるとまた身を縮めることしかできないのだが、高橋さんとの飲みはそのようなことも無く、仕事の愚痴と来週のタスクの話が済めば、後は彼の雑談に耳を傾けるだけの時間になる。その時間が自分にとっては心地の良いものだった。
「ああ、では、よろしければ。」
「よし行こう。」
やや前のめりな返事を受けて、先程中身を確認した鞄を椅子から持ち上げた。
そして散々飲んできた結果がこれである。
疲れた身体にいつも以上にアルコールが回り、足元がおぼつかない。酩酊感に溺れた脳は高橋さんの雑談の内容を何度も反芻していた。
「最近流行ってるだろ、異世界転生モノ。」
「才能ある子供になって無双するとか、悪役令嬢になってストーリーを変えるとか、そういう。」
「それで、いくつか作品を読んでみたんだけどこれが面白くてさ。」
「青木は異世界転生するとしたらどんな世界に転生したい?」
「ああでも、俺は転生したくないな。」
「転生モノの始まりって大体同じなんだよ。」
自分も興味本位で作品を読んだことがあるから知っている。
始まりは決まってブレーキ音。
宙を舞う身体。
それが地面に打ち付けられて、救急車の音や周りの人の声が聞こえたりして……。
生死を彷徨う事態に陥るのだ。
──そう、まるで今の自分のように。




