プラスアルファの価値
二月の寒い夜のことだ。その日も残業だった。午後八時を過ぎても、顧客からの問い合わせはひっきりなしであるし、簡単には自分の席を空けられない。いつ退社できるか想像もつかなかった。トイレにも行きたいし、どうしても飲み物が欲しくなる。仕方ないので、大して仲良くもない先輩のスタッフに、一時的に仕事を任せてからエレベーターに飛び乗った。仕事場は八階であるが、飲み物が販売されているのは一階の自動販売機だけである。往復するだけでもそれなりに時間がかかる。その間に重要な仕事が舞い込まないことを祈りつつ一階へと降りた。
エレベーターから降りると、ロビーにある唯一の自動販売機の方に向かった。何でも、昨日から新式のタイプに切り替えられたらしい。それは職場での噂話で得た情報だ。今は、お茶でも手に入れば、それで満足なので、売り物の変更などはどうでもいいのだが、一応、ひととおり販売品をチェックしてみることにした。炭酸ジュースやオレンジジュースやコーヒーやほうじ茶が並んでいた。こうして見たところ、無難な品ぞろえに落ち着いており、目新しい物はひとつもないように思えた。しかし、一番左端に目を移したとき、極彩色のけばけばしいデザインの缶が視界に入った。缶の外側には『スーパー栄養ドリンクアルファ』と表示されていた。
医薬品でもない栄養ドリンクなど、まったくあてにはならないが、疲労困憊なのは確かであるし、とりあえず購入してみることにした。値段をチェックする。値札には『250円+アルファ』と表示されていた。昨今の物価高においても、ひと缶250円はかなりの高値であるが、+アルファの意味はさっぱり分からなかった。仕方なく、受付にいた警備員の若者に声をかけてみた。
「ああ、あのプラスアルファというのは、『お金以外の価値ある物を投入せよ』という意味らしいです」
警備員は慣れた口調でそう答えた。おそらく、他の社員から何度も同じような質問を受けているのだろう。再び自販機の前に戻ると、なるほど、受取口の横に白いニ十センチ四方の箱が設置されていた。ここに価値のあるものを入れれば、スーパー栄養ドリンクが買えるのであろうか。私はとりあえず250円を投入すると、財布の中から使いかけの古いテレホンカードを取り出して、その白い箱に入れてみた。
次の瞬間、ピピッという機械音がして、「購入完了まで、あと4ポイントです」という音声が聴こえてきた。なるほど、これだけでは足りないらしい。だが、焦って高価なものを投入してしまうと、おそらく後悔することになるだろう。なぜなら、この物品購入においては、おそらく、お釣りという概念がないだろうから……。最新式の腕時計やウォークマンを身に付けていたが、これらを投入することは当然ためらわれた。
私はもう一度財布の中を探し、以前、母親から海外旅行の土産として受け取っていた、スイスの古い硬貨を投入してみることにした。すると、再びピピッという音がして、「購入完了まで、あと2ポイントです」という返事が戻ってきた。元々、あの硬貨にどれほどの価値があるのかなど、まったく興味もなく、知りもしなかったが、どうやら、大したものではなかったらしい。
たった2ポイントならば、何も自分の所有物から支払う必要はないだろう。私はロビーの隅にある倉庫室のドアを開けて、その中からいろんな清掃道具を取り出してきた。まず、ガムテープや新品の雑巾やタワシなどを放り込んでみた。しかし、何の反応もなかった。どうやら、これらの物は自販機のセンサーの審査によると無価値らしい。仕方なく、着ていたYシャツを脱いでから丁寧に折りたたんで、箱の中に入れてみた。すぐにピピッという機械音が返ってきたことで、とりあえず安心した。「購入完了まで、あと1ポイントです」という返事だった。あのYシャツはそこそこいいブランド品だったはずだが、職場にて二年も着続けてしまうと、その程度の価値になってしまうらしい。さあ困った。財布の中にもポケットの中にも、この自販機に渡せそうなものは見つからなかった。
他人に渡してしまってもさして後悔しない物品で、ある程度の価値のある物で、しかも、今身に付けているものは他にないだろうか? 五分ほどその場で立ち尽くし、考えた結果、素晴らしいアイデアを思い付いた。私は実は作家志望でもあるのだが、スーツの胸ポケットの中に、新作小説のアイデアを書いたB5用紙が入っているのだ。私はそれを取り出すと、「これが最後の1ポイント分の品だよ」と声をかけてから、白い箱の中にそれを投入した。
しかし、自販機からは何の反応もなかった。そんなはずはない。この作品は未完成ではあるが、じっくりと練り上げていけば新人文学賞の最終選考に残る程度の作品には仕上がるはずだ。もしかすると、機械のセンサーが壊れているのかもしれない。私は少々頭に来て、ダンダンダンと自販機の横っ腹を叩いてみた。すると、機械音声で「スーパー栄養ドリンク購入には、あと1ポイント足りません」と無慈悲な答えが返ってきた。
すっかりムキになってしまい、自分の口の中に右手を突っ込み、今日歯医者で入れてもらったばかりの銀製の詰め物をむしり取ると、それを箱の中に乱暴に叩き込んだ。すると、途端に白いボックスは内部に回収され、「ご購入ありがとうございました。」という音声と共に、派手な色彩の栄養ドリンクが取り出し口に落ちてきた。
私はようやく安心した。そのドリンクはメロンソーダ味の飲み物で、それほど悪い味ではなかったが、これまで支払ってしまった物ほどの価値があるのかまでは分からなかった。私は腰に手を当てて自販機の前でそのドリンクを飲み干した。すると、突然、先ほどの白い箱がガコッという音と共に再び口を開けた。その中には見慣れた白い紙が入っていた。もちろん、小説のネタを書いたB5用紙である。私がそれを取り出すと、その自販機は機械音で「これは必要ありません」と静かに語った。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。他にも多くの短編作品がありますので、できればそちらもご覧ください。よろしくお願いします。




