3:農道のポルシェと、オレンジ色の暴走者
銀座…
かつては日本一の地価を誇り、煌びやかなブランドショップが立ち並んでいたこの街も、ダンジョン時代の到来と共にその姿を変えた。
地上部分は依然として高級街としての威厳を保っているが、その地下には広大な迷宮が広がっている。
冒険者、魔物素材のバイヤー、そして観光客。多種多様な人々が行き交うこの街の道路事情は、世界でも類を見ないほどにカオスを極めていた。
そんな銀座の目抜き通りである中央通りを、周囲の空気を読まない一台の車両が走っていた。
鮮やかなWRブルー・マイカに塗装された車体。
無骨な荷箱を背負った、商用の軽トラック。
スバル・サンバー。通称、「農道のポルシェ」。
RRレイアウトがもたらす独特のトラクションと、四気筒エンジンの乾いた排気音。
運転席に座る藤瀬拓実は、信号待ちの間、愛車のステアリングを愛おしそうに撫でながら、虚空に向かってボソボソと語り掛けていた。
「……今日の湿度は60%。吸気温度も悪くない。あいつの機嫌も上々だ」
拓実の視線は、周囲を走る高級外車や、魔道エンジンを積んだ最新鋭の配送トラックには向いていない。彼は常に、自分の背中にあるエンジンと、タイヤが掴むアスファルトの感触だけを感じ取っている。
今の拓実は、ただの配送員ではない。
『ダンジョンイーツ』の配送部門を支える、地上最強の運び屋集団の一員だ。
信号が青に変わる。
拓実は絶妙なクラッチミートでサンバーを発進させた。
カクン、という衝撃は一切ない。まるで氷の上を滑り出すかのように滑らかでありながら、強烈な加速Gが背中を押し付ける。
荷台に積まれているのは、S級冒険者パーティからの依頼である『特製スフレパンケーキ』だ。
少しの振動で崩れ、わずかなGの偏りでクリームが垂れる。
だが、拓実の運転において、そのような心配は無用だった。彼の運転は「速さ」と「安らぎ」が同居する、矛盾の極致にあるからだ。
「……次の交差点を左折して、昭和通りから首都高ダンジョン・C1エリアへ入る。……最短ルートだ」
拓実は独り言をつぶやき、ウインカーを操作する。
平和な配送業務。
お気に入りのユーロビートをBGMに、愛車との対話を楽しみながら仕事を終える。
今日もそんな一日になるはずだった。
――背後から、不快な爆音が響き渡るまでは。
パパパパッ!!
突如として、バックミラーが強烈な光に包まれた。
ハイビームだ。それも、ただのヘッドライトではない。ダンジョン探索用の高光度LEDライトを、あろうことか前走車に向けて照射している。
「……眩しいな」
サイドミラーに映ったのは、目に痛いほどの蛍光オレンジに塗装された、大型のSUVだった。
ボディの側面には、ポップなフォントで『Happy & Lucky Logi』――通称、H&Lロジのロゴが描かれている。
最近、ネット通販界隈を荒らしている激安配送業者の車だ。
H&LのSUVは、明らかに異常な挙動をしていた。
車間距離はわずか数メートル。サンバーのリアバンパーにキスをするような距離まで詰め寄り、左右に蛇行を繰り返している。
典型的な「あおり運転」だ。
「……急いでいるのか? なら、先に行けばいい」
拓実は争いを好まない。
彼は左側の車線に寄り、道を譲ろうとした。
だが、オレンジ色のSUVは、それを許さなかった。サンバーが車線変更すると同時に、同じ方向へ被せてくる。進路を塞ぎ、さらにハイビームを点滅させる。
『オラオラァ! どけよ貧乏軽トラァ! トロトロ走ってんじゃねえぞゴミクズが!!』
SUVの屋根に取り付けられた外部スピーカーから、割れたようなダミ声の罵声が響き渡った。
銀座の歩行者たちが驚いて振り返る中、H&Lのドライバーは優越感に浸っているようだ。
『こっちはハッピー・ラッキー便の「超特急・爆速配送」様だぞ! テメェみたいな骨董品が前を走ると、俺たちのブランドイメージに関わるんだよ! さっさと道端に止まって土下座しな!』
拓実は無表情のまま、淡々と前を見つめていた。
罵声など、彼にとってはノイズでしかない。
だが、彼が許せないことが一つだけあった。
「……あんなラフなアクセルワークじゃ、燃焼効率が悪すぎる。それに、あの車間距離での蛇行……タイヤの無駄遣いだ、もっとタイやのグリップを温存させないと」
拓実にとっての怒りの沸点は、自分への侮辱ではない。
「車への冒涜」と「効率の阻害」だ。
サンバーは首都高の入り口へと差し掛かった。
ETCゲートを通過し、バーが上がると同時に、風景が一変する。
ここから先は『首都高ダンジョン』。
かつての首都高速道路が魔素の影響で変異し、アスファルトの一部が魔界の岩盤と融合した、公道最速の迷宮だ。
制限速度は存在しない。あるのは「生きて目的地に着く」という絶対のルールのみ。
本線への合流車線。
H&LのSUVが、大排気量エンジンのパワーに物を言わせて、サンバーの横に並びかけてきた。
『ギャハハ! ここから先は俺たちの庭だぜ! そのボロい軽トラじゃ、風圧でバラバラになっちまうんじゃねえか!?』
SUVの巨大なタイヤが、サンバーのボディに迫る。
接触すれば、軽量なサンバーはひとたまりもなく吹き飛ばされるだろう。
だが、拓実はステアリングをミリ単位で修正し、接触を回避し続ける。
「……しつこいな。……スフレパンケーキのクリームが、少し揺れたかもしれない」
拓実の瞳は、普段の眠たげな瞳ではない、代わりに宿ったのは、機械のように冷徹で、炎のように熱い、レーサーとしての光。
「……いいだろう。教育してやる。プロの走りってやつをな」
拓実はオーディオのボリュームノブに手を伸ばした。
指先が回転し、車内に爆音のユーロビートが満たされる。
曲は『DEJA VU』。
リズムに合わせて、拓実の左足がクラッチペダルを踏み込み、左手がシフトノブを叩き込むように操作した。
「……シフトダウン。回転数、合わせる」
フォンッ!!
完璧なヒール・アンド・トウによるブリッピング。
エンジンが咆哮を上げ、タコメーターの針がレッドゾーン手前まで跳ね上がる。
サンバーという名の猛獣が、その枷を外された瞬間だった。
「行くぞ、相棒」
アクセル全開。
スーパーチャージャーの過給音が、ジェット機のような高周波を奏でる。
それまで「煽られていた」はずの軽トラが、物理法則を無視したかのような加速を見せた。
『な、なんだぁ!? あのボロ車、なんでこんな加速しやがる!?』
並走していたH&Lのドライバーが驚愕の声を上げる。
無理もない。拓実のサンバーは、ただの軽トラではない。
ダンジョン産の希少金属で強化されたフレーム、魔道触媒を組み込んだ点火プラグ、そしてユウキによって施された風の加護を施したウィング。
それは、羊の皮を被った、モンスターマシンだ。
二台の車は、首都高ダンジョン屈指の難所、C1都心環状線エリアへと突入した。
ここは、複雑怪奇なカーブと、ランダムに出現するダンジョントラップが牙を剥く、ドライバー殺しの区間だ。
最初のコーナー。右にきつく回り込むブラインドカーブ。
H&LのSUVは、大排気量のパワーで先行しようと突っ込む。
だが、ドライバーの腕が三流だった。
『うおおおッ! 曲がれぇぇッ!』
オーバースピード。
SUVは大きく車体を傾け、タイヤを鳴き叫ばせながらアウト側へと膨らんでいく。
遠心力に負け、ガードレールすれすれまで流される。
その時だ。
イン側のわずかな隙間――普通車では到底通れないスペースに、青い閃光が飛び込んだ。
「おおっと!!……ラインが見えていない。そこは、クリッピングポイントじゃない!」
拓実は冷静に解説する。
サンバーはブレーキを遅らせ、前輪に強烈な荷重を乗せたままコーナーへ侵入していた。
リアが外へと流れ出す。
ドリフト? いや、違う。これは「ゼロカウンター」。
ステアリングを逆に切ることなく、アクセルワークと荷重移動だけでスリップアングルを維持し、最小半径でコーナーをクリアする神業だ。
キンコン……キンコン……
速度警告音が、勝利のファンファーレのように鳴り響く。
アウト側に膨らんだSUVの内側を、サンバーが鋭利な刃物のようにえぐり取った。
『な、なんだとォォォ!? インからだと!?』
H&Lのドライバーが横を見た時には、すでにサンバーのテールランプしか見えなかった。
鮮やかなオーバーテイク。
だが、拓実の「教育」は、まだ終わらない。
「……直線番長か。なら、直線でも負けるわけにはいかないな」
コーナーを抜けた先の短いストレート。
本来なら馬力に勝るSUVが有利なはずだが、サンバーは離れない。むしろ、距離を開いていく。
なぜか。
それは、拓実が「風」を見ているからだ。
ダンジョン内を吹き荒れる魔力風。拓実はその流れを読み、風の抵抗が最も少ないルートを選んで走っている。まるで風に乗るヨットのように。
焦ったH&L車が、再びパッシングを繰り返しながら追いすがってくる。
『ふざけんな! たかが軽トラごときが! エンジン焼き付かせてやる!』
H&L車はニトロのような加速装置を作動させた。
黒煙を吐き出しながら、猛烈な勢いでサンバーの背後に迫る。
直線の終わり、次のコーナーは複合のS字だ。
しかも、このエリアの路面には、ダンジョン特有の「スライム床」と「オイル床」がランダムに配置されている。
H&L車は、サンバーの真後ろ、スリップストリームに入り込んだ。
『へへっ! 風除けに使わせてもらうぜ! コーナー手前でぶつけて、弾き飛ばしてやる!』
殺意を含んだ追突狙い。
拓実はサイドミラーでその動きを完全に把握していた。
「……予測通りだ。素人は、前走車のテールランプしか見ていない」
コーナー進入の直前。
拓実は、あえてブレーキを踏まなかった。
代わりに、ステアリングを一瞬、左に切り、すぐに戻す。
フェイントモーション。
サンバーの車体が、不自然な挙動で左の路肩ギリギリへと移動する。
そこには、道路の継ぎ目である「排水溝」があった。
「で、で、でたーー秘技!溝落とし!!」
拓実は右側のタイヤを路面に残し、左側のタイヤを排水溝の中に叩き落とした。
ガガガッ! という衝撃音と共に、物理法則を無視した動きで曲がっていく。
「そ、そうかっ!溝のフチがガイドレールとなり、あいつは遠心力を無視して、コーナーを直角に曲がりやがった!!」
拓実の実況も勢いが増してくる。
一方、サンバーの真後ろについていたH&L車は、その動きに反応できなかった。
目の前のサンバーが、突然真横にスライドして消えたように見えただろう。
視界が開けた先、H&Lのドライバーが見たものは――。
路面一面に広がる、紫色のネバネバした液体。
「スライム床」の大地雷原だった。
『ひ、ひいいいッ!?』
拓実は溝を使ってこの罠を回避していたのだ。
だが、直進していたSUVに逃げ場はない。
ズリュウゥゥゥゥン!!
強烈な粘っこい音が響く。
高速回転していたSUVのタイヤが、スライムに絡め取られてロックする。
巨大な鉄塊は独楽のように回転を始めた。
『あぐッ!? 目が回るぅぅぅ!』
制御不能になったオレンジ色の車体は、ピンボールのように左右のガードレールに激突しながら、火花を散らして停車した。
ドガシャァァァン……! プスン……
後方で響く破壊音を確認し、拓実は小さく息を吐いた。
サンバーは溝から這い上がり、何事もなかったかのように路肩に停車し、H&L車の数メートル後方に、反射板と発煙筒を設置する。
ドライバーは、ショックを受けているようだが、怪我はないようだ。
「……いいか、覚えておけ。
ダンジョンイーツの頭文字は…Dだ!!」
「そ、、それがな……」
拓実はスマホでダンジョン協会に連絡し、事故があった事を連絡し、再びサンバーのシートに座る。
助手席に置かれた荷物を確認する。
スフレパンケーキは、そのふわふわの形状を完璧に保っていた。クリームの一滴すら垂れていない。
これが、藤瀬拓実の仕事だ。
その後、目的地である冒険者ギルドのセーフティエリアに到着した拓実は、依頼人にパンケーキを手渡した。
「お待ちどうさまでした。……クリームの状態、確認お願いします」
「うわぁ! すごい、お店で食べるのと変わらないくらいフワフワだ! ありがとう、ダンジョンイーツさん!」
依頼人の笑顔を見ても、拓実の表情は相変わらず眠たげだ。
だが、帰り道……
サンバーのステアリングを握るその手は、先ほどよりも優しく、そして誇らしげに見えた。
事務所に戻ると、レンがモニターの前で頭を抱えていた。
「……おい拓実。今、首都高の管理システムから連絡があったぞ。またバトルしたのか?!」
拓実は、自販機で買った缶コーヒーを開けながら、淡々と答えた。
「……おれは、争いがきらいです。でもあいつが……サンバーがアイツらを許さなかった。
それだけです……」
その横で、ユウキが目を輝かせ、拓実の話を聞いている。
平和な事務所の風景。
だが、拓実は知っていた。あのオレンジ色の車が、ただの無法者ではないことを。
あれは、組織的な悪意のほんの一部に過ぎない。
サンバーのエンジンが、まだ熱を帯びて唸っている気がした。
――戦いは、まだ始まったばかりだ。
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