3:静寂を破るサイクル・ベル
「兄さん……聞こえてるよ。何か嫌な予感がするんだ。十分に気を付けて……。」
レイの声が聞けたことで、少し心が落ち着いたきがする。不思議なものだ。
レンのママチャリが停止した中央通りは、あまりにも綺麗すぎた。
三十年前、この階層が封鎖された瞬間の空気が、そのまま真空パックされたかのように保存されている。
「……信じられない。ここは本当に、三十年も放置された場所なの?」
「……おかしいぞ。ここはまるで、どこかの外国の街並みを、そのまま地下に移したような……まるで、ここに人が住んでいたような場所だ。」
「た、たしかにね……。街並みを模したかのようなダンジョンは、存在しているわ。でも、ここには人が生活をしていたかのような生活感がある……。これは、異常よ……。」
レンたちが抱いたその違和感は、正しかった。
――三十年前、この階層が発見されたその瞬間、そこには最初からこの街が、無傷のまま存在していたのだ。別の時間、あるいは別の世界から、住人ごと丸ごとこの場所へ転移してきた『漂流都市』。
当時の政府は、この人知を超えた現象を徹底的に秘匿した。公になれば世界がひっくり返るほどの異常事態だった。
ゆえにこの街に謎の伝染病が蔓延した時、政府は伝説の運び屋アイザック・スチュアートに対し、この街を救うための治療薬を届ける極秘任務を与えたのである。
だが、任務は失敗した。
政府は即座に方針を転換し、アイザックごとこの街を地図から消し去り、「最初からいなかったもの」として葬り去ったのだ。
そんな恐ろしい歴史を、今のレンたちは知る由もない。
ただ、目の前に広がる「人の気配があるのに、命の音がしない」という生理的な恐怖だけが、彼らの肌を刺していた。
カグヤがママチャリから降り、一軒の果物屋の前で立ち止まった。店先に並ぶリンゴは、皮に瑞々しい光沢を宿し、今さっき木から落としたばかりのような鮮やかな赤色を保っている。通常、ダンジョン内の遺構であれば、果実などは数日で塵に還るはずだ。
レンが指先でその表面を撫でようとして――カグヤの鋭い制止が飛んだ。
「やめなさい、レン。そのリンゴさわらない方がかもしれない……」
「……何故? 腐っているようには見えないが……」
レンは路上の瓦礫を一つ拾い上げ、そのリンゴに向かって軽く投げた。
コンッ
乾いた、石同士がぶつかるような音が響く。リンゴは傷つくことも、地面に転がることもなかった。レンが投げた石は、鉄板に投げた石のように、跳ね返り地面に落ちる。
リンゴは一ミリたりとも動かずにその場で固まっていた。
「なんだ……この場所は……」
バルトが盾の端で隣のパン屋の看板を小突く。看板は激しく揺れるはずの衝撃を受けても、彫像のようにびくともしない。
「ガハハ……ハハ…こいつは気味が悪いぜ。食べ物も、看板も……この街にある全ての『モノ』が、この瞬間に永遠に留まることを強要されてやがる。俺たちの体も、油断してたらこうなっちまうのか?」
バルトはそう言って、軽く身震いをした。
一行が街のさらに奥、居住区へと足を進めると、さらなる「異常」が彼らを襲った。
それは、五感が常人を超越しているシオンにとって、最も耐え難い苦痛だった。
「……止まって。……静かすぎる。」
シオンが足を止め、こめかみを押さえた。彼女の【万象感知】は、通常なら数百メートル先のネズミの足音さえ拾う。
しかし今、彼女の耳に届いているのは、外部の音ではなく、自分の内側の音だった。
ドクン、ドクン。
心臓が拍動する音が、まるで巨大な太鼓を耳元で叩かれているように響く。血管を流れる音、眼球が動く際の湿った音、関節が擦れる微かな異音。
外の世界から届くはずの「雑音」が一切消失したことで、彼女の鋭すぎる聴覚は、自身の生命維持音を過剰に拾い上げ、精神を内側から削り取ろうとしていた。
くそっ、こんな時こそ、あのバカみたいに喧しい、ユウキが居てくれたらと思う、それ位俺の心は疲弊しているのか……。
「風が吹いているのに、音がしない……。レン、見て。あそこの旗が」
カグヤが指差す先、広場の時計塔に掲げられた旗が、猛烈な突風に煽られたかのように「激しく波打った形のまま」空中でガチガチに固まっていた。
それは、はためいているのではない。
三十年前、風に吹かれた「その瞬間」の形のまま、布が鉄板のように硬直しているのだ。本来なら重力で下に垂れ下がるはずの布端さえも、横にピンと張った状態で静止している。
「……動いているはずのものが、止まっている。なのに、風の圧力だけは確かに感じるわ。なんて不気味な場所なの……」
カグヤが頬を撫でる風に顔をしかめる。
風は存在し、肌に圧力を与えてくる。なのに、その風に煽られた旗も、街路樹の葉も、一切の音を立てず、揺れもせず、その場で彫像のように固定されている。
「音は振動だ。でもこの街は、振動そのものを凍らせちまってるんだ。カグヤの魔法が、本調子じゃない事と関係があるのかもな……」
「なるほど……。確かに声が、遠くまで届かない……」
カグヤが隣にいるレンに話しかけるが、その声はまるで厚い水中から響いてくるように、こもって聞こえた。指を鳴らしてみるが、パチンという音は鳴った瞬間に霧に吸い込まれ、余韻すら残さず消えた。
「だから、叫んでも誰にも届かない。」
「レン、私から離れないでね」
「ああ……」
「……さっきから、自分の声が頭蓋骨の中で反響しているみたいで……外に響いていかない。言葉を紡ぐほどに、自分が自分の中に閉じ込められていくような感覚……。魔力も、放出した瞬間に『音』としての指向性を失って、霧散していくわ」
この階層に長く留まれば、やがて思考のさえも止まり、自分自身がこの街の一部——動かない景色へと変わってしまうのではないか……。
そんな根源的な恐怖が、S級冒険者たちの心を真綿のように締め付けていく。
さらに歩を進めると、一行は小さな円形広場に出た。
そこには、三十年前に日常を謳歌していたであろう住人たちの残響があった。
噴水の周りで語らう若者、買い物袋を提げた主婦、追子供。
彼らは皆、灰白色の石像と化していた。だが、それは死体ではない。カグヤが至近距離で魔力探知を行うと、石化した胸の奥に、驚くほど微かな、しかし確かな「生命の火種」が残っていた。
「……生きているの? この状態で、三十年間も?」
カグヤの指が震える。
「……時間は止まっているのに、意識だけがその中に閉じ込められているとしたら……」
レンが、ある一人の子供の石像の前に立った。
その子は、転びそうになって手を前に出した姿勢で固まっている。瞳は完全に静止しているが、その表面には恐怖の感情が焼き付いたまま定着している。
もしその内側で、三十年分の「転ぶ瞬間の恐怖」がループし続けているとしたら、それは地獄以上の何かだった。
「俺たちの仕事は、この地獄を終わらせることなのか、それとも……」
バルトが豪胆な見た目に反して、弱音を吐く。
「石像が……動いている……気がする。」
シオンが、ぼそっと呟く。手を耳に当て必死に聞こうとしているようだが……
「……間違いない……、私たちの音に反応している……ような気がする。
警戒して!!」
シオンの叫びと同時に、広場を包む霧が急速に濃くなった。
そして、それまで「無音」を貫いていたはずの世界に、唯一の、おぞましい響きが這い寄ってきた。
ズズ……ズズズッ……
それは、石を引きずるような音。
石像と化していた住人たちが、その関節から砂をこぼしながら、ゆっくりと動き出したのだ。
彼らに表情はない。
ただ、生きているレンたちのを、渇いたスポンジが水を求めるように、無意識に腕を伸ばしてくる。
「……囲まれている。……数は、五十、六十。……全員、石化しているけれど、動いている。」
シオンが双剣を抜くが、その表情には迷いがあった。この石像たちは、まだ生きているのだ。
「……無力化だけを考えなさい! !」
カグヤが杖を掲げるが、魔力を練ろうとするたびに、周囲の無音が彼女の集中力を削いでいく。
バルトも膝をつき、呼吸を乱していた。強靭な肉体を持つ彼ほど、この「静寂への同期」による脈拍低下の影響を強く受けていた。
意識が遠のきそうになるカグヤの隣で、レンがママチャリのハンドルを強く握りしめた。
シオンの言うとおり、この街は、俺たちの生命反応音である音を狙ってるのかもしれない……。
なら……奴らにそれ以上の音を聞かせてやれば、もしかすると……。
レンは、囮になるつもりだった。俺たちの生命活動、話し声よりも一際大きい音で、やつらを挑発しようとしただけなのだが、結果的にそれが功を奏した。
レンはママチャリにまたがり、ハンドルに取り付けられた「アナログのベル」――。
レイがブレーキと一緒に取り付けた、音響工学の粋を集めて改造した、純真鍮製のベル。内部に施された特殊なスリットが、たった一打で「全方位への共鳴」を引き起こすように設計された逸品だ。
レンは指先をレバーにかけ、ベルを連打した。
チリィリィリィリィリィリィリィリィィィィィンッ!!!!!**
静寂の世界に、あり得ないほどの透明な高音が爆ぜた。
すると、不思議なことが起きた。
ベルの音が、ママチャリのスポークや泥除けの薄い鉄板と共鳴し始めたのだ。
もともと自転車は、細い金属パーツの集合体だ。レンが全力で鳴らし続けるベルの振動が、フレームを通じて車体全体を、まるで巨大な音叉のように震わせ始めた。
「――っ!? 震えが……止まらない……!」
カグヤが目を見開く。
ママチャリそのものが、震える金属の塊となり、周囲の空気を力ずくで揺さぶり始めた。ベルの音を起点にして、自転車が楽器となり、凍りついた空気を物理的に削り取っていく。
バリッ、バリバリッ!
まるで薄氷が割れるような乾いた音が周囲で鳴り、一行を縛っていた「静寂の呪縛」が、物理的な振動の前に剥がれ落ちた。
「――っ!?」
襲いかかってきた石像たちが、その「音」の圧力に耐えかねたように動きを止める。停滞に慣れきった世界にとって、レンが放ったベルの音は、凍ったガラスを粉砕するハンマーに等しかった。
「……呼吸が……楽に…なってきた…!」
カグヤが大きく空気を吸い込んだ。バルトの脈拍も正常に戻り、シオンの瞳に鋭い光が戻る。
「流石……レン、今のベル……。街の停滞を、一時的に『振動』で中和したのね。……無理やりの再起動……」
シオンが感嘆の声を漏らす。
すまん、たまたまなんだ……
「……長くは持たない。この音が消える前に、この区画を抜けるぞ!」
ベルの余韻が霧を裂き、街が再び静寂に呑み込まれる前に、黄金のラインが時計塔の方向へと伸びた。
「……いくぜ。命の音を、この街に思い出させてやる!」
銀色の閃光が、再び時を止めたままの広場を駆け抜けた。
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