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口元から溢れた水分が、首を伝い落ちる感覚が気持ち悪くて、紫央は首筋を拭う。
人の気配がして視線をそちらにやるとアリビオがベッドの端に腰掛けて、潰したロホの実を摘んでいた。
「目を覚ましたね。齧るのは止めろと言われたので指で潰してみましたが、果汁が無駄に滴り落ちるので、この方法は効率が悪いですね」
若干の不機嫌さを滲ませた声だった。
首筋が濡れてたのは、ロホの実の果汁だったのか....
また、アリビオにお世話になってしまった。
「紫央、体調はどうですか?」
「多分、もう大丈夫です」
窓から外を見ると夕刻のようだった。外は薄暗い。
紫央が寝ているベッドは、大の大人が5人ほど大の字になっても、手や足が隣の人と当たらないのでは、というほど大きい。
ベッドの四隅に柱が立っていて、天井からレースのカーテンが吊ってある。
すごい...天蓋付のベッドだ、初めて見た。
絵本の中の世界みたい。
部屋も広く、高級そうな豪華な刺繍の絨毯や、調度品が置いてある。
「お目覚めになられたのなら、私は旦那さまに報告して参ります」
紫央はビクッとして、声のする方を目を凝らして見る。
「え....」
お仕着せを着た落ち着いた雰囲気の女性が、寝室の隅に控えていた。
もうひとりいたの?!
使用人??使用人までいるんだ。
しかも気配を感じなかった!
すごい、ここの使用人は空気と化している。
プロだ....
内心の驚きを取り繕う紫央を見て、可笑しかったのアリビオが声を立てて笑う。
「いや、だって...いるのまっったく気が付かなくて。気配消せるって相当プロですよ!壁と化していましたから」
使用人が紫央の言葉に笑顔で頷く。
アリビオは、紫央が言い訳をしたことが余計に可笑しかったのか、今度は肩を震わせて笑いを堪える。
一呼吸置いて、紫央を見ながら、
「すみません....可愛いと思いまして」
と言った。
「は?」
使用人は気を使い、また存在感を消す。
アリビオって、自分の容姿をその辺の有象無象の一人だとでも認識しているんじゃなかろうか?
そういうセリフは、全てにおいて"オール3"の一般的な人が使っても、ギリギリなんとかセーフのセリフでしょうが!!
「よく、聞いてください!アリビオがその言葉を使っていいのは、ペットにだけですから!」
使用人が、それを聞いて目を強く閉じ、唇を引き結ぶ。
「今のは、聞かなかったことにします」
「そうなのですか?それは...残念です」
獣人国に来てちょっと親しくなった気がしたけど、まったく...アリビオは親しくなってくるとこんな感じの距離感なんだ。
忘れないように、記憶に刻み込んでおかないと。
プロの使用人が、このタイミングとばかりに口を開く。
「では、私は少しの間、席を外しますので」
紫央に、頭を下げてから部屋を出ていった。
アリビオがベッドから腰を上げる。
「さて、紫央は元気になったようなので、俺もリストに報告してきます。紫央、一人でも平気ですか?」
「どうぞ、どうぞ、平気ですから」
アリビオは紫央の返事を聞いてから、部屋を出て行った。
まだ、背中が笑っている。
紫央は、部屋に誰もいないことを確認して重厚なソファに腰掛ける。
「これ、一人用?肘置き見たらそうだよね。二人でも十分座れそう...」
フフフ....ちょっと格好良く座ってみたりして...
しばらくして、先程のお仕着せの女性が戻ってきた。
「紫央さま、ご挨拶が後になりました。私はクレートスと申します。果実水をお持ちしました。お飲みになりませんか?」
クレートスはワゴンを部屋の隅に寄せて、果実水の入ったグラスを差し出す。
「この後、旦那様がお目通り願いたいと申しておりますが、紫央さまいかがでしょうか」
紫央は、果実水をありがたく頂戴し、一気にグラスを呷る。
「美味しい...生き返りました。え、と...ここは領主さまの屋敷ですよね?もちろん、ご挨拶に伺いたいと思いますが__」
「あの....その前にお手洗いを、拝借できますか?」
クレートスが、空のグラスを紫央の手から受け取る。
「左側をご覧になっていただけますか?あちらの扉がお手洗いになっております」
これは、言われなきゃわからないほどの、豪華なトイレの扉だわ。
どっかのイベントホールの扉みたい...
紫央はこの世界にきて初めてトイレを使った。
昨日の夜、サンの家で食べたり呑んだりしたからかな...
ずっと、ロホの実だけだったから、こっちの世界に来て初めてお手洗いに行ったかも。
紫央はクレートスに案内してもらい応接間に向かう。
廊下は壁がガラス張りになっていて、庭が見えるようになっている。
広くて迷子になりそう...
紫央が、応接間に通されるとアリビオとリストが先にきていた。
紫央の姿を見て、領主夫妻が椅子から立ち上がった。
「紫央さま、この度は遥々私どもの拙宅まで足をお運びいただきましてありがとうございます」
夫妻が深々と頭を下げる。最敬礼だった。
紫央は面食らった。
確かに、倒れるまで歩くのは初めてだったけど、ここまでしてもらうほどではないけど...
あ、でも歩き過ぎて足の裏もじんじん痛い...
紫央は、慣れないブーツで何時間も歩き通したことを鮮明に思い出した。
紫央は、道中辛くても、怒りを感じないように自分の気持ちを誤魔化していた。
目の前で、自分たちの屋敷に来てもらうために歩かせたと言われたようで今更、怒りと悲しみがモヤモヤとして襲ってくる。
いろいろな思いが急に込み上げてしまい、紫央は口を開けずにいた。
そんな紫央の様子にリストが気付いて、助け舟を出そうと口を開きかけたところで、アリビオがそれより先に紫央の側に寄り添うように立つ。
紫央の後ろに立つと、後ろから両腕を優しく撫でる。
「まだ疲れが抜けてないのでしょう?紫央は、今日は特に頑張りましたからね」
アリビオから"頑張った"という言葉をもらったことで、紫央は溜飲が下がった。
「そうだよね!私、今日はいっぱい頑張りましたから!」
しまった、気が緩んだらまた口に出てしまった...
アリビオが紫央の頭をポンポンする。
「ええ、クランの件も初めてだったのに、うまく神力を使いこなし、加護を発動させていました。見事でした」
なんだか、アリビオに認められたようで嬉しい...すごく嬉しい。
紫央は、憑き物が落ちたように表情が和らいだ。
アリビオが紫央の表情を見て、穏やかに声を掛ける。
「紫央、今度は夫妻に頭を上げるように声を掛けてあげましょうね」
「そうでした!!あ、あの頭を上げてくださいね」
夫妻が、ほっとして頭を上げる。
「紫央、よくできました」
紫央はアリビオに褒められたのが嬉しくて、アリビオの方を見る。
アリビオの優しい眼差しを受けて、二人で笑顔で見つめ合い、紫央はそのまま固まった。
どこまでも甘く言い含めるような口調に、一瞬我を忘れ掛けた紫央は、地団駄を踏んで正常心を取り戻しアリビオを2度見する。
アリビオとリストが、驚いて紫央を見る。
領主夫妻は紫央の挙動に顔色が悪くなる。
さっき心に刻み込んだのに...これが続くと好きになったりするのでは??
それは困る!
初恋が異世界人なんて....って違う、違うそうじゃなくて、恋なんかに足を引っ張られるわけにはいかない。そんなことより私は絶対帰りたい!!
恋愛経験がないから自分の心がわからない!
秀一の歴代彼女陣の、のろけ話をちゃんと聞いておけばよかったかも…
あ、でもそういえば...
胸が痛いとかはない。
良かった、恋ではない!!
私も異性の距離感の参考が幼馴染しかいないから、アリビオ同様、距離感が掴めてないのかも。
よく考えたら、異性間に友情があってもいいはずだし....もしや、アリビオは私を同僚と認めてくれたのでは....?!
さっきも私の仕事を手放しで褒めてくれていた。
こっちの可能性大だわ。
アリビオは、私を同僚という仲間のカテゴリーに入れてくれたということじゃない?
使者さまという立場上、ちょっと人とスケールがズレているだけで....だとしたらこっちが変に意識したりするって嫌なヤツだよね。
これも、心に刻み込んでおこう。
「アリビオ、ごめんね」
これも、口から出てしまっていた。
隣でアリビオが可愛く首を傾げる。
リストは、紫央に過保護に構っているアリビオを見て、呆れた顔をした。
アリビオがエスコートして、紫央を真横に座らせた。
リストがアリビオ越しに、紫央に声を掛ける。
「お嬢ちゃん、使者は一応神に仕えてるから身分的に偉いと扱う人もいるが、そもそも住む世界が違うから、人間の作った身分に当てはめて考えない人もいる」
「獣人国は、使者を敬ってくれる国だから居心地いいぞ。それに引き換えたら、マギカなんて酷いぞ。特にイグニスなんか...」
「リスト、うるさいです。紫央は来たばかりですし、そのうち帰る人です。マギカに行くことはないですから」
リストが目を丸める。
「お嬢さん、帰るって…帰れるのか?」
「え...?それは、扉が修復すれば...」
リストの言い方に、紫央は不安になり顔が強張る。
「帰るって....デレット神の加護もらって、おまけにマリー神…」
アリビオが立ち上がり、リストのローブの襟を掴んで、壁に押し付けた。
狐族の領主夫妻と、紫央は驚いた。
アリビオのあんな乱暴な振る舞い初めて見た...
室内に緊張が走る。
領主夫妻が、目で紫央に訴える。
紫央は『無理』という意味を込めて、頭を振る。
アリビオは声を潜めて告げた。
「リスト、余計なことを言うな」
「お前、余計って...いつかわかるだろう__」
アリビオがリストの頭上に、片腕をドンッと付くと、漆黒の闇のような深い黒色の門が壁に出現した。
紫央も領主夫妻も、禍々しい門の出現に戦慄する。
領主夫妻が突然現れた不気味な門を見て、紫央に助けてくれと目で訴える。
紫央は、歯の根が合わないほど震えていた。
この感覚は、何....?
身の毛がよだつほどの恐怖を感じる....
リストは、横目で黒い門を背にしているのを確認した。
「おいおい、何だよ。マジかよ、らしくねぇな…仕舞えって。わかった、もう口を挟まんから」
それを聞いて、アリビオが壁から手を離すと先程の門が消えた。
傍からは二人のやり取りは全く聞こえなかったが、門が消えたことで夫妻と紫央は、お互いを見つめ合って安堵の表情をした。
「リスト、約束ですよ」
紫央の耳にも届いた声は、いつものアリビオの雰囲気を想像させる穏やかで優しい声だった。
何食わぬ顔でアリビオが、紫央の隣に座る。
リストも何もなかったかのように、アリビオの隣に座った。
「さて、長くなったが本題だ。実は、さっきアリビオには話を通したんだが…こちらの狐族の領主夫人なんだがお子さんに恵まれないらしいんだ」
「どうだろう、クランを気にかけてもらう代わりに夫人に子を授けてやってくれないか?」
リストが、紫央に頼んできた。
「子を授けるって…それは旦那様の領分では??」
領主夫妻が真っ赤な顔をし、アリビオとリストは目を丸めた。
「お、俺の言い方か?!言い方が悪かったか??」
リストがアリビオに詰め寄る。
「落ち着いてください、リスト。紫央はマリー神の加護を授かったでしょう」
「あ!そう…ですね」
そういうことか。




