名前を呼んで
名前を呼んで。
あなたのその、透明に響く声で。
名前を呼んで。
愛をささやくその代わりに、もっとわたしの名前を。あなたの、声で。
「好き、」
声が。そういうと君が笑う。声だけか。そう言って。
「ソーダとか、ラムネとかみたい。涼しい声。好きなの、なにかしゃべって」
「なにか、って言われても」
君の声はそう低くない。だけど女の人では出せない音域で、静かに甘い。わたしが蝶なら、君の声の蜜だけで一生を生きられるかもしれない、なんて。甘ったるいことを考えて赤面するほどに君を好きだと、気付かれたくなくてもがく。見えないところで。だって恥ずかしいじゃない、そんなに自分ばかりが好きという気持ちを日々成長させてしまっているなんて。
みっつ年下の君は、しなやかに腕を伸ばす。日曜日の午前中、太陽の光はレースのカーテンをやわらかく透かす。十時になるまではお友達のお家に遊びに行ってはいけません。小学校の夏休みにはそういう約束が必ずあった。君の腕がわたしのブラジャーのホックをはずそうとする。慌てて止めると、悪戯な笑い声が上がる。
「だめ、」
「どうして」
「だって、」
日曜日だから。言い訳にもならない理屈に君は頷く。下着のままで眠ってしまった土曜の夜は、数時間前のことなのにもう手の届かないはるか向こうにある。
名前を呼んで。
何度もくちづけて、何度も交わって、気持ちのいい声も我慢できない汗も知ってしまったというのに、そんな簡単なお願いごとができなくてわたしはうつむく。同じシーツに包まる君はメガネをかけていない。そうするといつもより、少しだけ知らない人の顔になる。わたしは君の、メガネの顔が好き。
好き、と言う方が百倍も簡単。誰でも使用可の、嘘でも口にできる言葉だから。名前を呼ぶのは難しい。呼びたいだけ、なんて。男の人は愛しい気持ちが高まりすぎて、どうしようもない想いをありったけ込めて呼ぶ名前、という愛の言葉を、理解してくれたりするのだろうか。
「ねぇ、」
「なに、さっきから」
「なんでもない、炭酸の、強いのが飲みたい。そういう気分」
「俺にとって来いって言うんだ」
そうじゃないけど、の言葉を待たずに君は立ち上がる。濃紺のトランクス。赤いシルエットの猫が細かく散っている。裏返しだったら面白いのに、と思うけれど、そんなことはない。
君の部屋は広くないし、トイレもお風呂も一緒くただし、キッチンにはろくな道具もない。本とパソコンとなんだかよく分からない機械とテレビ。ごちゃごちゃしていて男の人の匂いがする。だけど居心地がいい。それはわたしが、君を好きだからだ。
小さな冷蔵庫から取り出されてきたのは、ビー玉の入っているラムネだった。手を出して受け取って、そっと返す。
嫌いだっけ、と聞かれて首を振る。肩までの髪は今日だけ、君と同じシャンプーの匂いがする。それが嬉しいのと照れくさいのとで、わたしはぶっきらぼうに返事をしてしまう。ビー玉をいつも失敗してこぼすから、だとか、硬いから無理、だとか。開けて、のひと言で済むのに、遠回りする。嫌な女になったみたいで唇を噛む。好きな人の前だと自分がぐちゃぐちゃになる。素直という文字は辞書から消える。好きすぎてどうしていいか分からないなんて、人の心は複雑で面倒くさい。
それでも君は笑って、上手にラムネのビー玉を落としてくれた。中身は少しもこぼれない。びっくりして、ありがとう、が唇から零れ落ちる。どういたしまして、と言う君の声が。好き。
厚いガラスの、青緑色をした瓶を手にしたまま、しゅわしゅわと炭酸の抜ける音。空気が甘く染まる錯覚。触れる裸の腕が、君の体温を吸う。ラムネの底から気泡はぽこりと生まれてははじける。次から次へと。それと同じくらいの数だけ、君に名前を呼んで欲しい。耳元で。ささやいて。
想像するだけでぞくぞくする、君の声がわたしの名前を耳に注ぎ込んで、わたしの細胞達はそれを喜びという名の糧として輝きだすだろう。君が好き。それだけのことが、世界を美しくする。名前を呼んで。ラムネの気泡の数ほどに。名前を呼んで。君がわたしを愛しているかもしれない、心の深さと同じだけ。名前を、呼んで欲しい。たとえば、夜が終わるまで、たとえば、寝ても醒めても。
君が好き。
ただそれだけ、なのに。
どうしてこんなに切なくて泣きたくなるのだろう。
「好き」
「うん」
「名前を、呼んで」
「名前、」
「たくさん。名前を呼ばれるたびに」
君を好きになるよ。君に、好きになってもらえる気がするよ。
それが意味のない幻想だとしても。
なんて、甘くやわらかな幻想。
「名前を呼んで、好きなんて言葉でごまかさないで、名前を呼んでね」
「好きって言葉はごまかしなのか」
笑う君の横顔にくちづける。少し考えてから、その形のいい耳に君の名前を吹き込む。愛してる、の代わりに。好き、の代わりに。それらよりもっと強い、想いをこめて。
君が好き。
君が好き。
君が、好き。