沈黙の伝票(数字の裏に)
男がいた。
スーツに埃ひとつつけない男だった。
ディーラーの看板営業マン。
月に何台売ったかが、すべてだった。
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「お客様第一? 当たり前さ。
だが一番は、俺の成績だ。」
笑顔と名刺を武器に、
下取りを煽り、オプションを積む。
多少無理を通しても、数字さえ積めばいい。
それが勝ち方だった。
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「整備? そんなもんは裏方の役目だ。」
納車の笑顔と握手で終わり。
あとは黙々と手を動かす裏方がやる。
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若い整備士が一人いた。
無口で生真面目。
ときどき工具棚の影で、小さくため息をついている。
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ある日、ひとりの客が戻ってきた。
ブレーキパッドが削れきった車に乗っていた。
金にならない客だった。
「交換? 予算内に収めろって言われたんだ。
外からはわかんねぇだろ。磨くだけでいい。」
営業マンはそう言って、後は整備に投げた。
「わかりました。」
若い整備士の声は小さかった。
でもその手だけは、静かに怒っていた。
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「俺の責任じゃないな。」
営業マンはそう思った。
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そうして、その日の終わり。
金にならない伝票に目を落とすと
「サービス交換」と書かれていた。
部品代は整備士が自腹を切っていた。
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「好きでやってんだろ。」
営業マンは吐き捨てるように呟き、背を向けた。
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——その瞬間。
空調の音が止まった。
リフトのうなりが止まった。
オイルの匂いだけが、静かに残った。
——世界が止まった。
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誰も動かない。
若い整備士が下を向いたまま止まっている。
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営業マンは思わず歩き出していた。
普段は絶対入らない、油まみれのピットの奥へ。
整備士の作業台の脇に、封筒があった。
小さく開けると、レシートが挟んであった。
自腹で買った部品のものだった。
「……バカかよ。」
そう呟いた声は誰にも届かない。
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営業マンは胸ポケットの高級ペンを取り出す。
一瞬、迷う。
数字だけが大事だと、何度も自分に教え込んだのに。
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「こいつは、命を守ってたんだな。」
封筒の脇にサインを書く。
「営業負担」の文字を添える。
奥で止まったままの整備士が
笑ったように見えた。
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誰かの仕事で、守れる命がある。
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——世界が動き出す。
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工具の音が戻る。
空調がまた唸る。
若い整備士が封筒に気づき、
小さく目を見開く。
営業マンは何も言わず、
袖についた油を指で拭い、
まだピカピカの試乗車をひと撫でする。
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「……たまにはな。」
心の奥に小さなノイズが鳴った。
数字だけじゃ測れない何かが、
胸に落ちた。
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——その日、世界は3分間だけ止まった。




