沈黙の術式 (光の中の手術室)
医師は、疲れていた。
何ヶ月も——いや、何年にも思えるほどの重みが、
静かに、絶え間なく、彼の身に積もっていた。
白衣に隠した心は、もう冷たく固まり動けなくなっていた。
一年前、彼は娘を亡くした。
八歳だった。
小さな心臓に宿った、奇病だった。
医師でありながら、父親でありながら、
彼は何もしてやれなかった。
「医療は奇跡じゃない」と、何度も口にしてきた。
だが、その言葉が自分に向いたとき、これほど絶望したことはなかった。
酒が手放せなくなった。
考えたくなかった。
飲まなければ、眠れなかった。
「大丈夫だ」そう言いながら、
本当はもう壊れていたのかもしれない。
仕事を続けたのは、責任感からではなかった。
それ以外に、自分に残されたものがなかったからだ。
ただ、手術だけは——避け続けていた。
「私では役に立てない」
そう言って、いくつもの執刀を断った。
震えていたのは、手だけではない。
存在そのものが、あの日からずっと震えていた。
そして今日。
その逃げ場はなくなった。
手術台の上に横たわる少女。
年齢も体格も、あまりにも——亡き娘に似ていた。
希少な心疾患。
標準的な術式では助からない。
彼がかつて開発に携わった、特殊な術式ならあるいは——
「先生にしか、できないんです」
若い医師の声は、懇願にも諦めにも似ていた。
逃げるわけにはいかなかった。
いや、本当は——もう、逃げたくなかったのかもしれない。
術衣に袖を通し、医師は光の中へ消える。
手術室の扉が閉じられた時、
彼はすべての感情を、音のない引き出しにしまった。
心臓が開かれる。
指が動く。
思考より先に、手が動いていた。
経験は、裏切らない。
それ以上に——
彼の中で、なにかが目を覚まし始めていた。
だが、術中。
少女の心拍が、急激に落ちた。
モニターが警告を発する。
助手が顔をこわばらせる。
小さな身体に残された力が、尽きかけていた。
「……遅かったのか」
思わず喉の奥から、声にならない音が漏れた。
酒のせいか。
迷いのせいか。
あるいは——
一年前からずっと、自分は“間に合わなかった”のか。
誰も救えやしない。
そう思った、そのとき。
——音が、消えた。
モニターの電子音も。
人工呼吸器のリズムも。
助手の声も。
部屋を流れていた空調のうなりも。
すべてが、消えた。
世界が、止まっていた。
止まった手術室のなかで、
ただ彼だけが、そこにいた。
呼吸ができた。
血の温もりが、指に伝わった。
手は、動いた。
震えは——不思議なほど、どこにもなかった。
彼は、静かに顔を上げた。
空中に浮いたままの綿球。
止まった涙の粒。
動きを失った光。
その中で、彼はただひとり、時を刻み続けた。
動揺はない。
少女の命をつなぐことだけに、すべてを注いだ。
「止まることは……許されないのか」
いや、違う。
「時間を……くれた…?」
心の奥で、そう呟いた。
やがて、最後の縫合を終えたとき、
彼はふっと、天井を見上げた。
「……ありがとう」
誰に届くとも知れぬ言葉だった。
だが、それを言いたかった。
その瞬間、音が戻った。
ピッ……ピッ……ピッ……
心拍モニターが、命の鼓動を伝える。
胸が、わずかに上下する。
助手が息を呑んだ。
看護師が、涙を拭った。
歓声が満ちる手術室の中で、
彼だけが静かに、手袋を外した。
その夜。
彼は、娘の墓を訪れた。
初めてだった。
手には、小さな花束。
風が吹いた。
誰かが、そっと寄り添ってくれた気がした。
何も語らぬ墓石の前で、彼はしゃがみ込み、
ようやく、初めて——涙を流した。
世界は、たしかに止まった。
けれど、その“止まった時間”があったからこそ、
彼の心は——再び動き出した。
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その日、世界は3分間だけ止まった。