沈黙の番犬 (廃屋の犬小屋)
焼けた家に、もう音はなかった。
壁は崩れ、瓦礫が転がり、花壇の花はすでに色を失っていた。
それでも、庭の隅にある犬小屋だけは壊れずに残っていた。
その前に、老犬が一匹、座っている。
毛並みは汚れ、片足を少し引きずっていた。
それでも目だけは、まっすぐ先を見つめていた。
ここが、彼の「持ち場」だった。
家は崩れ、主人の姿も、もう長く見ていない。
けれど、犬は動かなかった。
毛布の残る小屋の前で、ただじっと、風の音に耳を澄ませていた。
主人が帰ってくる日を、今も待っていた。
毛布に残る主の匂いが、彼を勇気づけた。
「今度の誕生日、新しい首輪を買ってやるよ」
——あの声は、忘れない。
待ち続ける日々は、季節の区切りさえ曖昧にした。
夜は寒く、朝はうるさい。
けれど彼にとっては、それも関係なかった。
ただ、ここで待つこと。
それが、すべてだった。
そして、ある日。
庭に風が吹き、木の葉が揺れた、その瞬間——
すべてが、止まった。
音が消えた。
鳥も、風も、揺れる草も。
まるで絵の中に取り残されたように、世界は沈黙した。
犬は、動かずにいた。
……いや、動けなかった。
最初は、少し怯えた。
耳を伏せ、鼻を鳴らし、ゆっくりと庭を離れる。
けれど、遠ざかるたびに何かに引かれるように、何度も後ろを振り返った。
そして、廃屋へたどり着いた。
瓦礫を越え、ひび割れた床を嗅ぎまわる。
かつて主人が座っていた椅子、使っていたタオル、落ちた靴の匂い——。
その奥に、ひとつの箱が目に入った。
蓋は、半開きになっていた。
中には、ひとつの首輪。
銀色の飾りがついた、見慣れない新品のもの。
あの日、約束されたはずの、それだった。
犬は鼻先でそれを確かめたあと、そっと咥えて戻った。
犬小屋の前まで戻り、首輪を静かに地面に置いた。
そして——再び、座った。
時間が止まっていようと、動いていようと、
彼にとっては、やることは同じだった。
ここにいること。
帰ってくる誰かを、信じて待つこと。
しばらくして、風が戻った。
葉が揺れ、空気が動き、人々の声が町に戻ってくる。
再び町に灯をともすために。
町の時間は、確かに動き始めた。
それでも彼は、動かない。
首輪は、犬小屋の入口にそっと置かれていた。
主人がくれるはずだった、その証のように。
犬はただ、また静かに庭を見つめていた。
世界の音の中に、あの足音が混ざるのを、ひたすらに待ちながら。
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その日、世界は3分間だけ止まった。