沈黙の扉(勇気のメイク)
ノーメイクの女がいた。
高校生にもなって、化粧っ気がないことを笑われた。
最初は「子供っぽいね」という小さな言葉だった。
それがいつの間にか、嘲笑に変わり、いじめになった。
彼女は声を出せなかった。
睨み返すことも、先生に助けを求めることもできなかった。
何も言えない自分が、いちばん嫌いだった。
だから今日も、トイレの個室に逃げる。
ドア一枚の向こうに、あの笑い声が聞こえる。
水をかける準備をしているのがわかる。
「やめて」と言えない自分を思いながら、上を見上げた。
頭の上で水の音がする。
冷たいしぶきが落ちる——その瞬間、
——世界が止まった。
水は空中で散り散りに凍りついていた。
声も、足音も、遠くのチャイムさえも止まった。
彼女はしばらく動けなかった。
息を吐く音だけが、自分の胸に響いていた。
——扉を開けろ。
胸の奥で、小さな声がした。
そっとノブを握る。
汗ばんだ手が冷たい金属に張りつく。
ゆっくりと外に出ると、そこには、
薄く笑った二人が止まっていた。
ケバいメイク、きつい香水、貼りついた笑顔。
いつも、この顔に怯えていた。
笑われないように下を向いていた。
逃げても逃げても、結局、同じ扉の奥に戻ってくる自分が悔しかった。
——終わらせたい。
止まった笑顔の頬を打った。
乾いた手のひらの感触が、じんと残った。
涙が出そうになったけど、出さなかった。
二人を水の真下に引きずった。
指先で乱暴に化粧をなぞった。
塗り重ねた色をこそげ落として、本当の顔を晒してやりたかった。
「私の顔を笑ったくせに、
お前たちの顔も、偽物だ。」
声にならない声が、喉の奥で震えた。
指先は震えていた。
怖かった。けれど止めたくなかった。
世界が止まっているのは、神様のくれた時間だと思った。
深呼吸をひとつして、ドアを閉めた。
個室の中は、小さな檻だった。
でも、心の奥の扉だけは、少しだけ開いた気がした。
息を吐いたとき、世界が動き出した。
ざばり、と水が落ちた。
二人の化粧がぐしゃぐしゃに崩れ、笑い声は消えた。
遠くで上がる喚き声を背中に聞きながら、
鏡に映る自分の顔を見た。
髪を撫で、前髪を整えた。
ほんの少しだけ、前を向ける顔になっていた。
次の日から、彼女はナチュラルメイクを覚えた。
誰かに笑われないためじゃない。
自分が鏡の中の自分を、少しだけ好きになるために。
あのドアの外へ出たとき、
彼女は背中を丸めずに、笑えた。
その日、世界は3分間だけ止まった。




