沈黙の道程 (山奥のキャンプ)
薪がはぜた。
小屋の外では、ただ風が鳴っていた。
狭い室内に、その音だけが断続的に響いてくる。
この山奥のキャンプ場は、昔からなじみの場所だった。
息子がまだ幼い頃、虫を追いかけ、
焚き火に怯えながらも「また来たい」と笑った。
そんな思い出の場所。
今、その息子はいない。
「もう一度、戦地へ行く?……ふざけるな」
あの日、自分は確かにそう言った。
拳を握り、怒鳴り、怒りの形相で必死に止めた。
だが、息子は笑っていた。あの時も、笑っていたのだ。
「親父のその顔、やっぱり俺とよく似てる」
意味がわからなかった。ただ、無性に悲しかった。
──息子と同じ?
自分は滅多に笑わない。
だが息子はいつも笑っていた。
本当は分かっていた。
あの笑顔の奥にあるものを。
それは、戦争を経験した者だけが知る痛みや恐怖を覆い隠す仮面。
冗談の中に閉じ込めた、叫びだった。
息子は「冗談の中に何かを隠している」。
……なのに、止められなかった。
「大丈夫だよ。終わったら、またここに来ようぜ」
そう言い残して、息子は去った。
それからずっと、「その終わり」は来ないまま。
ただ時間だけが、変わらず進んでいく。
ストーブの前で立ち上がり、窓から山道を見下ろす。
何年経っても、この小屋の風景は変わらない。
──その時だった。
風が止まった。
木々のざわめきが、ぴたりと消えた。
湯が沸く音も、薪のはぜる音も、すべてが途絶える。
世界が、沈黙した。
目を疑った。まるで、時が止まったようだった。
屋根から落ちかけた雪が空中で凍りつき、
手元のカップの湯気が、空中で止まったまま動かない。
「……まさか」
そう呟いて、机の上に目をやった。
そこには、一通の手紙があった。
息子から届いた最後の手紙。
何度も読み返し、しまい込んだはずの封筒だった。
なのに──今は開かれたままだった。
中の紙には、あの日と変わらぬ文字が綴られていた。
「冗談ばっかでごめんな。いつか、またキャンプに行って話をたくさんしよう。」
目を閉じた。
あいつも、どこかでこの“止まった時間”に出会っているのだろうか。
──止まった時間。
この瞬間だけは、無理に笑わなくてもいいんだ。
もしかしたら、世界が人に問いかけているのかもしれない。
「本当は、何を残したいのか」と。
沈黙の中、彼は小さく呟いた。
「……帰ってこい。今度は俺が……笑わせてやる」
寡黙な父親の誰に届くでもないその言葉が、薪の香りに混じって静かに室内に染み込んでいく。
そして、風が戻った。
枝が揺れ、雪が落ち、湯がまた静かに沸きはじめる。
それでも彼は、椅子に戻らず、まだ窓の外を見つめていた。
もし、あいつが帰ってきたなら。
もう、何も言わなくていい。
冗談なんて言わずに、ただここに座っていればいい。
──息子が道化の仮面を脱いで帰ってくるその時まで
父親は静かに笑い、この場所でずっと待っている。
──
その日、世界は3分間だけ止まった。