表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
58/94

沈黙の視線 (覗き見る女)



女だけがそれを知っていた。

小さなアパートに灯る、その明かりを。

夜の路地裏。

フードの奥の目が、窓の向こうを追っている。


窓の向こうには、男がいる。

帰ってきて、靴を脱ぎ、カップに水を注ぐ。

何気ない仕草。

誰も気に留めない表情。


女は息を吐いた。

胸の奥が焼ける。

この街の誰も知らない、その笑顔を、自分だけが見ている。


ポケットには合鍵がある。

あの部屋に忍び込む夜を、何度も頭の中で繰り返した。

触れる。

話す。

笑いかける。

血が逆流するように脈打つ。


街灯が遠くで滲む。

目の前には、錆びたドアノブ。

何度ここに立っただろう。

それでもまだ、一度も開けていない。


ひとり、小さく笑った。

唇がひび割れていることにも気づかない。

冷たい夜風に、熱い吐息が混じった。


「もう、いいよね……」


誰に言ったのかもわからなかった。

合鍵を握りしめ、ドアノブに手をかけた。



その瞬間——

世界が止まった。




遠くの車の音が消えた。

男がカップを口に運ぼうとした手が、空中で凍りついている。

テレビの光だけが青白く窓を照らしている。


女は立ち尽くした。

ドアノブにかけた手が、かすかに震えている。


「……なんで止まるのよ。」


大きく見開いた瞳で辺りを見回す。

誰も答えない。

止まった街に、女の声だけが吸い込まれる。


そっと窓に近づき、ガラスに指先を這わせた。

ガラス越しに見える男の横顔。

窓に、自分の顔が映っている。


この窓を叩けば、全部手に入る。

笑いかけてくれる。

――そう思っていた。


だが止まった世界で見えるのは、

窓に映る、自分の顔だけだった。


唇が切れている。

髪は乱れ、目だけが爛々と光っている。


「……きれいじゃない。」


吐き出すように笑った。

合鍵を握る手が、痛いほど冷たい。


欲しいのは何だ?

優しさか、声か、名前か。

本当に欲しいのは、何だ。


窓の下の古い郵便受けを見つめた。

誰にも触れられない、小さな金属の箱。

中には彼の手紙や、誰かへの贈り物が眠っている。

自分はどこにもいない。


指先が震える。

吐息が白く、止まった空気を曇らせる。


女はその場に腰を下ろした。

ポケットから合鍵を取り出し、

小さく笑って握りしめた。


安物の鍵の冷たさが、手に馴染み始める。

唇を切るほどの寒さ。

心臓が小さく軋む。



そうして——

夜の音が戻った。


窓の向こうで男がカップを置いた。

テレビの光が揺れた。


女は握りしめた鍵を、非常階段の隅に置いた。

フードを深く被り直す。

まだ心は乾いている。

まだ執着は残っている。


けれど、扉は叩かない。

窓も開けない。


路地裏を歩き出すと、

遠くに小さな鍵屋の看板が夜気に滲んだ。

錆びた文字が、いつかの救いみたいに、滲んで見えた。



——その夜、世界は3分間だけ止まった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ