沈黙の手紙 (雑踏の十字路)
信号が青に変わった。
群衆が一斉に動き出す。
十字路は騒がしかった。
電車のブレーキ音、売り子の声、車のクラクション。
その交差点の角に、彼女は立っていた。
小さな紙袋を抱えたまま、信号を三度見送った。
目的もなく突っ立っているわけではない。
……待っているのだ。
会えるはずのない、彼を。
いつも待ち合わせをしたこの場所で。
ほんの数週間前、彼はこの街を離れた。
また戦いが始まった日だ。
「落ち着いたら連絡する」
その言葉だけを残して。
だから、彼女はここにいる。
“落ち着いたあと”が、いつ来てもいいように。
雑踏に紛れていても、見つけてもらえるように。
いつ来ても、彼が「変わってない」と思えるように。
信号が赤に変わるたび、人々が流れを止め、無数の靴音が立ち止まる。
そのときだった。
……世界が、止まった。
すべての音が、ふと、抜け落ちたように消えた。
通行人が動かない。車も、信号も、風さえもない。
隣を歩いていた子どもが、片足を上げたまま空中で止まっていた。
「……え?」
彼女は辺りを見回した。
口を開く人々。笑う顔。歩幅の途中で凍った脚。
なのに、どこにも動きはない。
耳を澄ますと、自分の呼吸と心音だけが、やけに大きく響いていた。
夢じゃない。
目をつむっても、世界は動かない。
「どうして……私だけ?」
誰かに問いかけたつもりだったが、答えはなかった。
だが、怖くはなかった。
むしろ、不思議と静けさに安堵すら覚えた。
何もかもが止まったこの世界で、彼のことを考えた。
会いたい。
話したい。
言えなかったことが、たくさんあった。
ポーチの奥から、一枚の手紙を取り出す。
何度も読み返した、彼からの最後の手紙。
文字の滲んだその紙を、静かに握った。
「……待ってるよ。何年かかっても」
答えはない。
でも、言えた。
それだけで、少しだけ涙が出た。
信号の脇の電柱に、ポケットのメモ帳から破った紙を貼る。
裏にテープはない。けれど、今は風も吹かない。
そこに、こう書いた。
「いつまでも、ここで待っている。」
まるで、世界に投げた瓶詰の手紙だった。
誰にも届かないかもしれない。
でも、それでいいと思った。
この静かな世界のどこかに、あの人もいるのかもしれない。
もしも、あの人がこの“止まった時間”に出会えたなら。
きっと、何かが伝わるはずだと。
そして——
風が、吹いた気がした。
通行人が歩き始めた。
車がクラクションを鳴らす。
信号が変わり、街が再び動き出す。
彼女は立ち止まらずに歩き出す。
紙切れはまだ、柱に貼られたままだ。
この想いが、いつか誰かに届くなら——
彼が、あの交差点を再び通る日が来るなら——
そのとき、きっと。
彼女は、笑って待っている。
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その日、世界は3分間だけ止まった。