第一部 第八話 チェリーパイのあまずっぱい香り
貴族学校は八年制で、一年生から四年生が低学年とか下級生とか呼ばれて、五年生から八年生までが高学年とか上級生とか呼ばれる。その明確な違いは、五年生以上、つまりハイティーンになると、第二性を発現する者が多くなることだ。
「十代前半では、発現しない?」
「聞いたことないね」
発育不良などで遅くなるケースはあっても、十五歳以下で発現するということは無いらしい。
「発現すると、なにがどうなるの?」
「アルファはさらに能力が上がるよ。オメガは、ヒートが始まる」
ヒートとは、概ね三か月に一度の周期で訪れる、発情期のことだ。昔はこのヒートがあることを理由にオメガは社会生活を制限されていた。もっと昔は人権すらなかった。子どもを産ませるための奴隷や家畜のように扱われていた、そんな時代もあった。
今は抑制剤が普及しているから、アルファやベータと同じように社会生活を送れるけれど、今だってオメガを差別するこころない人が、いないわけではない。
高学年のクラスで事件が起きた。教えてくれたのは、ダミアンとパスカル。
「どのクラス?」
「六年セカンド」
高学年になると、ファーストからサードはほぼアルファばかりになる。そんな中で頑張っていたオメガの男子生徒が、突発的にヒートになってしまった。
「しかもね、常時鞄の中に携帯していたはずの緊急抑制剤が無かった」
オメガの抑制剤は二種類ある。毎日服用するピルタイプと、緊急用のエピペンタイプだ。オメガはかならず持ち歩くことが義務付けられている。
「エピペンタイプってなに?」
「自己注射って言えばわかる?」
オメガの男子生徒は必死に鞄の中を探す。しかし抑制剤が見当たらない。周りはアルファの生徒ばかり、教師もアルファで、まだ若い男性。アルファはオメガと違って、抑制剤を携帯することは義務ではない。あくまで努力義務だ。ひとりでもラットになったら、連鎖的にみんなラットを起こして、オメガに襲いかかってしまう。絶体絶命の危機だ。
「で、どうなったの?」
「たまたま、モーリスさんが校内を巡回していたんだよ」
モーリスは正門守衛だが校内巡回も熱心に励行している。ダイエットも兼ねて、せっせと歩き回っている。アルフォンスの在籍する低学年の校舎だけではなく、学校中を歩き回っている。
「ちょうど教室の前を通りかかって覗き込んだら、ひとりが床に倒れていて、周りはみんな理性がぶっ飛ぶ寸前、って顔で取り囲んでいたらもう、これはヤバイ、ってわかったんでしょ。廊下の壁の箱にある、発煙筒みたいなさ、なんていうんだっけ、あの、床に叩きつけると破裂して、抑制ガスがぶわーって出るやつ、使ったんだって」
「あー、商業施設とか図書館なんかにも常備してあるやつだ」
現在、抑制剤はさまざまな物がある。個別に携帯しているオメガの抑制剤は、毎日服用するピルタイプと突発的な事態で使用する緊急用のエピペンタイプ。アルファがラットを起こした時のためには、錠剤だけれど水で飲むのではなくて噛んで服用すればただちに効果が出るものと、エピペンタイプなどだが、ガスタイプは作用機序が違う。アルファにもオメガにも作用して、第二性に起因する性的興奮中枢を麻痺させ、一時的に身体の自由を奪う。ベータには作用しない。人がたくさん集まる場所には常備することが法律で定められている。
「で、モーリスさんはベータだからガスの影響は受けないから、オメガの男子生徒だけを教室から引きずり出して、救護室まで運んだんだって」
しかし高学年にもなってくるとそれなりに身体が大きくなっているから、比較的小柄といわれるオメガではあってもモーリスがひとりで運ぶのは時間がかかった。
「アルファはその間、放置?」
「そう」
問題はその後だ。ガスタイプの抑制剤は強力なので、吸って作用してから少しの間、後遺症が出る。
「少しの間って、どのくらい?」
「個人差があるけど、三日から一週間くらいだって」
事件が起きたのは金曜日だった。
週末、教師たちだってプライベートがあるわけだが、事件があった六年セカンドのクラス担任の若い男性教師は、その週末、恋人と愛し合うことができなかった。ガスの充満する教室に放置されていた後遺症で、アルファの機能が・・・、正確には下半身が、機能しなかった。
「どういうこと?」
「んー、だからさ・・・」
純朴で天然なアルフォンスは、『愛し合うことができなかった』の意味がわからないらしい。言っていいものかどうか、ダミアンは言葉に詰まった。
パスカルのほうが配慮も何もなくて、あっけらかんと言う。
「勃たなかったんだよ、それでフラれたのかどうかまではわかんないけど」
その教師は週明けになって、オメガの生徒を抑制剤不携帯で処分すべきだと言い出した。
「え」
オメガの生徒はいつも必ずエピペンタイプを持ち歩いていたのに鞄の中に無かったのはおかしいし、いつもきちんとピルタイプを服用しているのに突発的にヒートになったのも不自然だし、そのオメガひとりに責任を負わせるのは不公平だと、アルフォンスは思った。
そして。
なくなったエピペンタイプの抑制剤を探すために教室中が捜索されたところ、すみにある用具入れの影から、ヒート誘発効果があるとされる植物片が見つかった。
「え、なにそれ?」
「禁止薬物みたいにがっつりじゃないけど、ヒートを誘発する可能性があるニオイがある葉っぱがあるんだよ。猫にあげると興奮する木天蓼みたいな」
精製して純度を挙げたものは禁止薬物だが、葉を乾燥させただけのものはハーブといつわって売られているし、暗黒街では禁止薬物が密売されている。
なんでそんなものが教室にあったのか。
そして事件はそれだけでは終わらなかった。
後日、六年サードクラスのアルファの生徒が、件のオメガ生徒のものであるエピペンタイプの抑制剤を持っているのが見つかったのである。
「セカンドの教室に忍び込んで、オメガの生徒の机になにかを入れようとしていたんだって」
「エピペンタイプの抑制剤を?」
「そう」
それだけではない。その生徒の部屋を調べたところ、ヒート事件が起きた教室で見つかった物と同じ植物片が見つかった。
六年セカンドクラスにはオメガはひとりしかおらず、あとは全員アルファだ。植物片をそこに置くことでオメガの生徒にヒートを起こさせ、アルファに襲わせようとしたのではないか。オメガの生徒がその植物片によって突発的なヒートになった証拠は無いけれど、可能性は否定できない。
そして、サードクラスの生徒がエピペンタイプの抑制剤を持ってセカンドの教室に侵入し、オメガの生徒の机に入れようとした。しかもその生徒の部屋に植物片があったということは。
「なんでその、ヒートを起こした生徒の持ち物だってわかるの?」
「エピペンタイプは個別に処方されるし、処方と使用歴が記録される。それに容器が特殊だから普通のゴミに棄てることが禁止されてるんだよ。使用後に病院に容器を持って行って、使った日時を病院に申告して、医療用廃棄物として棄てなきゃいけないんだよ。紛失したら調査が入る」
ヒートを起こしたオメガの生徒は紛失届を出し、調査班が動いた。サードクラスのアルファの生徒は、盗み出してからそのことを知って、棄てるに棄てられなくなって、部屋に隠していた。そして隙を見てオメガの生徒の机に入れようとして見つかってしまった。
「で、部屋を調べられたと」
アルファなのにオメガ用のエピペンを持っていたこと、それを本来の持ち主の机に入れようとしていたこと、ヒート誘発作用がある植物片を持っていたこと。つなぎ合わせれば事件の全容は見えてくる。違法な手段を使ってセカンドの生徒たちを排除すれば、自分がセカンドに上がれると考えたらしいその生徒は、取り調べに屈して罪を自供し、退学、放校処分になった。
「それだけ?」
「ん?」
「オメガの生徒は被害者だったのに、抑制剤不携帯で処分とか言われて、そんなのおかしくない?」
「ああ、そっちね」
世間的にはアルファの抑制剤携帯は努力義務だが、校内ではアルファの教師全員、生徒も発現したアルファの上級生は抑制剤を常時携帯するように、教員会議で可決され、生徒に通達が出された。
「ずうっと、自分がダイヤモンド・ヴォイスだって、全然、自覚が無かったの?」
「うん」
ダイヤモンド・ヴォイスだと言われ、いちばんびっくりしているのは、アルフォンス自身だ。
あれから、いくつかの実験をされた。声楽家の夢破れた物理教師が、鬼の形相で縋ってきて、アルフォンスはいやだと言えなかったのだ。朗読に関しては、勝手に実証実験をして申し訳無かったとオーブリー学長に謝罪されてしまったのでもういいとして、興奮してひとを襲うかもしれない犬を声だけで落ち着かせるように言われた時には、唖然とした。犬は檻の中にいるからアルフォンスに飛びかかって来ることはなかったけれど、唸って威嚇して、アルフォンスを噛もうと檻の中から狂ったように吼えていた。しかしアルフォンスが声をかけて宥めると、時間はかかったものの、だんだんおとなしくなった。この時はアルフォンス自身が動揺していたから、時間がかかったのだという結論だった。入学式の日に暴走した馬を鎮めた時の様子を、モーリスが口角泡を飛ばして熱心に語ったので、オーブリー学長と物理教師は、もっと魔法にかかったように劇的におとなしくなることを期待していたらしい。
「歌を歌えって言われた」
「歌ったの?」
「うん。でも・・・」
新たな事実が発覚した。なんとアルフォンスは音痴だったのだ。声楽家の夢破れた物理教師は発狂寸前になって、宝の持ち腐れだ、神に対する冒涜だと絶叫していた。
オーブリー学長からの無茶ブリとしては、若いのに妙に立派な人の前でなにやら難しい詩を朗読させられた。させられる前はなにも知らされなかったが、実はお忍びでいらしていた王太子殿下だったのだと朗読が終わった後に知らされて息が止まるかと思った。アルフォンスの朗読を聞いた王太子はいたく感動され、凶悪な重罪犯ばかりが収監されているバルバストル刑務所でアルフォンスの朗読を聞かせたら、凶暴な重罪犯の荒み切った心を鎮静化できるのでは、とおっしゃるのを聞いて、途方に暮れた。いくらなんでもそんな恐ろしい刑務所に慰問に行くなんて無理なので、せめておとなになってからにさせてくださいと言ったのに、ダイヤモンド・ヴォイスだと周知されてしまった以上、今すぐにでもと王太子直々の要請で、王太子が慰問されるのに随行することになってしまった。
朗読するように言われたのは、古い叙事詩だ。
地方の田舎町で、親の遺産で遊び暮らしながら絵を描いていた中年男が、お前は審美眼はあるのに自ら描く才能は無いと言われて怒り狂い、才能はあるのに貧乏で画材を買えず、教会の壁に天使の壁画を描いていた青年に大怪我をさせてしまう。青年を一生歩けない、立つこともできない身体にした中年男は、カネならいくらでもやるから生涯働かず、絵も描かずに遊んでいればいいと言って、札ビラで青年の頬を叩いた。しかし大金を渡された青年は車椅子と画材を買っただけで、残りのカネを孤児院に寄付してしまい、車椅子で、あるいは這って、絵を描き続ける。教会の壁に描かれた美しい天使の絵は人々を魅了し、高い評価を受け、やがて遠方からも多くの人が見に来るようになった。街の人達はこぞって青年を支援するようになった。力がある者は青年を肩車して高いところに描くのを手伝い、女たちは身の回りの世話をしたり食事を作り、孤児院の子ども達は絵具を手渡したり筆を洗ったり、それぞれのやり方で青年を支えたのに、完成間近で青年は力尽きて死んでしまった。大勢の人々が青年の死を嘆き悲しみ、壁画が未完成であることを惜しみ、教会はその死を悼んで鐘をならした。青年に怪我をさせた中年男は最初のうちこそ壁画が称賛されることが面白くなくてふてくされていたが、壁画を一目見て感動しておのれの罪を悔い、全財産を投じて、都会の有名な絵描きに、壁画を完成させてくれるように頼んだが、教会が拒否し、完成させることはできなかった。無一文になった中年男が後悔と失意にうちひしがれて路地裏で死を迎えた時、看取ってくれる者はおらず、しかし青年の描いた未完成の天使は、中年男が神に許されることを祈っていた、という内容だった。
古詩というのは不定形な散文で、きちんと韻を踏んでいなかったり、言い回しの難しい箇所も多い。しかしアルフォンスは、朗々と粛々と、難しい詩を朗読した。まだ声変わりしていない少年の高く澄んだその声に、凶暴な重罪犯すらも聞き入って涙した。王太子からは、
「文章で読んだだけではあまり心に残らなかった詩なのだけれど、音声で聞くと全然ちがうものだね。天使の壁画が目に浮かぶようだった。アルフォンス。きみの声はすばらしい。今回の慰問はきみのおかげで大成功だったよ」
というお言葉をいただいてしまった。田舎の、平民とさして変わらない生活をしてきた貧乏子爵子息としては、神のお言葉にも等しい。
しかし、その王太子の声は、なんだか聞いたことがあるような声だ、とアルフォンスが言うと、ガブリエルも頷いた。
「僕も、以前に聞いた時になんかどこかで聞いたことがあるような声だって思ったんだよね。でも思い出せなくて・・・」
考え込むガブリエルの顔をじっと見る。アルフォンスは少し背が伸びたので、ガブリエルを見る時には以前よりも見下ろす感じになる。
―――まつ毛、長いな・・・―――
すっととおった鼻筋、小さくて形のいいくちびるに、束の間、見入る。
―――可愛い・・・―――
アルフォンスはまだアルファを発現していないし、ガブリエルもまだオメガを発現してはいない。それなのに、ふわりとあまずっぱい、チェリーパイの香りが、鼻孔をくすぐった気がした。
此処までお読みいただき、どうもありがとうございました。