第一部 第一話 貴族学校守衛モーリス・アギヨンの庇護欲
オメガバースに独自設定を配合。
ボーイズラブですが、第一部では恋愛要素はちょっぴりしかありません。淡い初恋程度。
中世ヨーロッパふうの貴族学校が舞台ですが、新学期は日本のように春に始まります。
入学式の席の配置も、壇上に向かって左に来賓席、右に教員一同、後ろに父母席です。
寮に入る子も自宅から通ってくる子もいて、自宅通学の子は馬車で登校してきます。
移動手段は馬車なのに、写真や点滴の技術があるユルユル設定です。
王立ル・ノートル貴族学校の入学式は、四月初旬。アーモンドの可憐な薄紅の花びらが風に舞い散る頃。いつもの略式の制服ではなく正装のずっしりと重いコートを纏って、守衛一同、胸を張って仁王立ちで、重々しく厳めしく、周囲に目を光らせている。
「くっそ~、また太ったかあ」
貴族学校守衛の正装のコートは、王宮守衛のそれとデザインは似ているが色が違う。王宮の守衛は毎日着ているが、こっちは年に数度しか着用しない。入学式と卒業式、受験日と合格発表日、その他学祭などイベントの時や、お偉いさんが来校する時だけだ。ために、ひさしぶりに袖を通すと腹部のボタンが嵌らなかったりする。モーリスはでっぷりと突き出たおのれの腹を撫でてため息をつく。少し甘いものを控えないと、口喧しい古女房の愚痴が煩わしい。コートは値が張るから、そうそうあつらえ直すわけにはいかない。そもそもが王都警備兵を定年まで勤め上げて後の再就職で、先輩同期諸氏は同じ再就職でもツテで小さな商会やギルドなどでのんびりと裏方仕事、あるいは田舎にひっこんで晴耕雨読というのがほとんどだ。モーリスのようにまた制服を着る仕事に就いた奴は、知る範囲にはいない。しかもこの仕事を選んだ理由が、学食のスイーツを無料で食べれるからだなんて、同期が聞いたら腹を抱えて笑うだろう。
歴史と伝統の風格ある貴族学校の正門を、見るからに着古したヨレヨレの服を着た少年が入ろうとしたので、モーリスは咄嗟に首根っこを掴んだ。
「こら! お前! ここは栄光ある王立ル・ノートル貴族学校だぞ! 勝手に立ち入るんじゃない!」
首根っこを掴まれた少年は驚いた様子ではあったが、落ちついて答えた。
「僕、入学生です」
「嘘を言うんじゃない」
「本当です。鞄の中の書類を見てください」
これもまたヨレヨレの布製の、鞄というよりもズタ袋を差し出される。モーリスは少年を睨みつけながらズタ袋を取り、中身を調べた。
中には確かに顔写真付きの受験票と入学試験の結果があった。しかも最高得点の金色の印があり、入学料授業料全額免除の印章がでかでかと押されている上に、今日の入学式で新入生代表として壇上に上がって挨拶をするようにという通知まであって、モーリスは目を剥く。
「なんで制服を着ていないんだね?」
「なんでと言われましても・・・」
合格証には、アルフォンス・ヴェルディエと名が記されていた。ヴェルディエ領なんて聞いたこともないからどこだと問えば、王都から馬車で二週間もかかるクーヴ川の源流に近いへき地だと言う。アルフォンスはヴェルディエ子爵の三男坊で、貴族なんて名ばかりの貧乏子爵家の生まれ育ちだから、貴族学校なんて入学する予定は微塵も無かった。しかし十二歳の誕生日に、条例に従ってバース診断を受けたところ、まさかのアルファだった。祖父母も両親も兄たちも、ついでに言うなら親戚一同もベータなのに、だ。
診断した医師は職務に忠実にバース管理局に届け出たので、貴族学校の入学試験を受けるようにという王政府からの通達が来てしまった。これは近年、授業料の高騰を理由に、貴族学校に入学しない下級貴族の子女が多くなったことへの対策として、バース診断でアルファだった者は強制的に入学試験を受けさせるという王政府の方針による。
貴族学校は貴族の子女のための学校で、かつては貴族の子女は全員無料で入学できた。が、王国の財政状況が厳しくなった昨今では、全員無料は昔の栄華である。授業料は次第に上がり、近年は学費が高額であることを理由に貴族でも爵位の低い家の子女は入学しない。そこで王政府は、有能なアルファを官吏として徴用するために、爵位の低い家の子女でもアルファには強制的に入学試験を受けさせ、試験結果によっては入学料や授業料免除で入学させ、さらには在学中の成績によっては生活費を支給するなどして、有能な人材の登用を図っているのだ。
地方貴族の子女は入学試験を受けるにあたって、ほとんどは王都在住の縁故を宿泊場所として頼る。縁故者も、優秀なアルファが将来出世すれば自家にも利があるかもしれないから、拒否することは滅多に無い。
アルフォンスは王都在住の遠い知り合いであるペタン侯爵家に宿泊させてもらい、侯爵令息で同い年のジョフロワと一緒に入学試験を受けた。そして最高得点で合格した。
「それなら王都でのきみの身許保証人はペタン侯爵ということになるね?」
貴族学校は十三歳から二十歳までの八年制だ。つまり入学式の時点で誕生日を迎えていなければ、まだ十二歳の子どもだ。自分で制服を準備できるはずもなく、地方出身者ならばその身許保証人が生活環境を整えたり、制服や鞄を準備するはずだし、アルフォンスは入学試験で最高得点を出している。上位合格者には、制服や入学用品一式を買いそろえるための支度金も支給されているはずだ。もっとも上級貴族の子女は、その支度金の権利を下級貴族の子女に譲る、といった伝統があって、モーリスははるかな昔、その恩恵に与った経験があった。
アルフォンスが伸ばしっぱなしでむさくるしいぼさぼさの髪を掻き上げたので、モーリスはここで初めて、正面から顔を見た。正確には斜め上からだが。まだ頬のまろい、仔犬のように稚げな顔は、目鼻立ちが整っていて、ベータであるモーリスの孫たちとはあきらかに違っていた。花をも欺くような美少年である。きゅるん、という効果音が、胸の奥で鳴った気がした。
しかし、どうにも野暮ったいというか、垢抜けない。いかにも田舎育ちといった、素朴というか純朴そうな少年だ。
「ペタン侯爵は、制服や鞄を用意してくれなかったのかい?」
「わかりません。してくれるものなんですか?」
質問に質問で答えるなよと思いつつ、さらに質問を重ねる。
「合格発表の後、制服の採寸があっただろう?」
「それが・・・」
ペタン侯爵は、息子のジョフロワのものと一緒に、学校出入りの業者ではなく先代から贔屓にしている仕立て屋に頼むからと言って、アルフォンスに支給された支度金を受け取る手続きをしていた。だから合格発表の日、アルフォンスは制服の採寸を受けていない。そしてそのまま、合格発表から今日の入学式まで、仕立て屋に連れて行かれてもいないし、行けとも言われなかったし、仕立て屋が侯爵邸に来た様子も無かった・・・、と、アルフォンスは記憶している。
途方に暮れているモーリスとアルフォンスの横を、ニヤニヤと嘲りの笑みを浮かべながらジョフロワが通り過ぎて行った。これ見よがしに真新しい制服の裾をひるがえして。
―――そういうことかよ・・・―――
モーリスは事情を察して、うんざりした。
おそらく、ペタン侯爵令息のジョフロワの試験結果がアルフォンスに比べて思わしくなかったのだ。思わしくないどころではないだろう。アルフォンスが最高得点なのだから。
ペタン侯爵は、自分の息子よりも田舎からふらりと出てきた下級貴族の小倅のほうが試験結果がよかったのがおもしろくなくて、わざとアルフォンスの制服を用意しなかったのだ。苟も侯爵の地位にあるいいおとなが、年端も行かない子どもになんとおとなげない嫌がらせをするのかと、モーリスは呆れてしまう。
もっともこの類いのことは、モーリス自身がここに在学していた頃からざらにあった。
上級貴族の子女が必ずしも優秀とは限らない。どんなに優秀な家庭教師を付けて猛勉強したとしても、持って生まれた頭脳が平凡なら平凡、暗愚なら暗愚。身分の上下を問わず、人間の能力は決まっている。もちろん、努力はそれなりに実を結ぶものだが、持って生まれた器を超えて才を伸ばすことはできない。
しかしそんな常識をくつがえす存在がいる。それが、アルファだ。
大して努力しなくても、頭脳も身体能力も頭抜けている。努力をしたならベータの五倍十倍の成果を挙げる。容姿も端麗で、生まれた時から成功を約束されている、神に愛された一握りの選民。
それが王族や上級貴族の子女ならば、誰も羨みも妬みもしない。身分が高ければ能力が高いことは称賛されこそすれ、妬まれることはない。しかし第二性に遺伝性は無く、アルファの親からアルファの子どもが生まれるとは限らないし、ベータの子がベータ、とも限られない、すなわち、優秀なアルファの王侯貴族の令息が平凡なベータであることも、普通にあるのだ。もちろん逆に、ベータの親から傑出したアルファが産まれることだってあるのだが、世の中にはトンビから鷹が産まれることをどうしても認めることができない者たちがいる。
だから下級貴族の家に生まれたアルファは、身分至上主義の上級貴族から目の仇にされる。平民ならまだいい。どんなに優秀なアルファでも平民なら、出世をしても限られている。男ならせいぜい事業に成功して小成金か、武功を挙げて一代限りの騎士爵。女性は王族や貴族の愛妾や第二夫人になることも過去にあったが、まあ滅多に無い。そもそも貴族であろうが平民であろうが、女性のアルファというのはものすごく少ない。アルファ自体が少ない中で、女性のアルファはその中の百人から二百人にひとり、いるかいないかだ。
それはさておき。
下級貴族子息のアルファは、ここ貴族学校で、理不尽極まりない嵐に揉まれる。出る杭は打たれるという格言通りに、身分至上主義の上級貴族の子女たちからの妬み、やっかみ、嫌がらせ、誹謗中傷の標的になるのだ。度が過ぎて傷害事件となって、退学させられた上級貴族の子女も過去にいたし、酷い嫌がらせに耐えきれず死を選んだり自ら学校を去っていった下級貴族の子息もいた。
しかしそのほとんどは、入学してから後のことだ。今回のアルフォンスのように、入学前から冷遇、それも遠縁とはいえ身元保証人のおとなからされているというのは、いくらなんでも不憫がすぎる。
モーリスはなんとかしてやりたい思いに駆られた。この田舎者で垢抜けない仔犬のような少年は、アルファなのになんというかものすごく、庇護欲をそそる。
仲間のひとりに頼んで、保護者の待機所にペタン侯爵を探しに行くように言った。が、頼むのを聞いていたアルフォンスが言う。
「ペタン侯爵は、領地で起きた災害による混乱を鎮めるために、先週から出掛けておられます」
愛息子の入学式に参列できないとは、運の無い侯爵サマだな、とモーリスは思ったが、顔には出さない。
と、その時。
正門前の大通りの向こうで、複数の悲鳴が上がった。
見れば一台の馬車が、猛然と暴走してくる。
馬というのは、本来、ものすごく臆病な生き物だ。少しでも身の危険を察知すれば、全力で遁走する。
今、正門前は我が子の入学式に参列する貴族たちの馬車が複数ある。暴走している馬は、まったく前が見えていないようで、全速力で突進してくる。振り落とされたのか、御者台に人の姿は無い。迫りくる気配は他の馬たちに伝染し、嘶いて首を振り、蹈鞴を踏んで、何頭かの馬が走り出そうとした。今、まさに馬車から降りようとしていた紳士が、体勢を崩して落ちそうになった。
「いかん!」
走り出そうとしたモーリスの腕を押さえ、次の瞬間、アルフォンスの姿が消える。
「んあ・・・?」
モーリスは自分の見たものが信じられなかった。目の前にいたはずの少年が、まばたきの間に暴走する御者台に飛び乗って、手綱を思いきり引いたのだから。
まだ声変わりしていない少年の細く高い声が、なにか叫んでいる。馬や牛をあやすための掛け声のようだ。地方によって、どうどうとか、べーべーとか、よーしよしよしとか変わる、そのような音を発しているようだ。
暴走していた馬は、蹈鞴を踏んで止まる。まだ興奮はしているが、二、三度嘶いて激しい鼻息を噴き出す様は、自分を落ち着かせようと人間が深呼吸をする様子に似ていた。
「素晴らしい!」
太く豊かなよくとおる声が響く。さきほど馬車から落ちそうになっていた紳士だ。馬車のドア枠に摑まって身体を支え、落ちずに少年の動きを見ていたらしい。
「あざやかな手並みであった! 称賛に値する!」
モーリスはあっと思った。あの馬車の紋章は、忘れようにも忘れられなかった。この世のものとは思えないほど美しかった高貴な御方の花嫁姿が、脳裏によみがえる。
「惨事を未然に防いだ勇敢な少年の名を聞きたい!」
紳士には確かに、あの御方の面影があった。モーリスは憶えている。意を決して進み出た。
「閣下。勇気ある少年のために、少しだけ御知恵を賜りたく・・・」
タイトル通り、恋はものすごくゆっくりです。ホレタハレタは第二部以降です。
オメガバースですが、えっちいことよりも、バースによる能力の違いや、貴族社会であるがゆえの身分差別の状況から、ゆっくりと恋愛のお話へ移行していきます。