155 出航
本日の確認事項のような業務連絡が終わったら、にわかに甲板が騒がしくなってきた。
甲板にあった出っ張りに、何やら長い棒がいくつも差し込まれ、威勢のいい声が響いた。
「エイ、ヨッ、ホーッ! エイ、ヨッ、ホーッ!」
数人が棒にとりついて、とても力を入れている様子がうかがえる。
キシキシキシ、ごりごりごり、と妙な音と共にゆっくりとそれが回転を始めた。
甲板が振動しているのが分かる。
なるほど、あれは錨を上げる装置か。
リズミカルな掛け声が揃って、額に汗する船員たちが、楽しそうに見える。多分、そんなことはないのだろう表情ではあるけれど。
「りと、手伝ったらしゅぐ終わる」
「いいんだよ、そういうのは役割ってもんがあんだよ。下っ端の役割を取ったらダメだ」
そっと耳打ちしたリトのセリフに、きょとんとした。
そうなのか。
……確かに、リトが街周囲の弱い魔物を全部狩ってしまったら、下っ端冒険者は喜ばないだろう。きっと、そういうものだ。
私も、強くなったら気を付けよう。
ごりごりするなんとも言えない音が、やがてガコンと止まって、するすると帆が下りてきた。
出航だ……!
今は、牽引する船はいないよう。
さっきまで、この風を待っていたのかもしれない。
ばふ、と風を受け止めた帆が膨らんで、魔法のようにゆっくり船が動き始めた。
この程度の風で、こんな大きな船が進む。すごいことだ。それを発見した、人間も。
離れていく岸壁を眺めながら、セイリアがいないかと探してみる。
惜しかった、言っておけばよかった。そうしたら、ここから手を振れたのに。
セイリアはいなかったけど、手を振ったら知らない人が振り返してくれたので、身を乗り出してたくさん振っておいた。
ゆっくりゆっくり広い場所まで出てきた船は、途端にぐんぐん速くなりはじめ、あっと言う間に町が遠くなっていく。
船の通った後が、かたつむりのように白く線を引いて港まで繋がっている。
轍は道にしか残らないと思っていたのに、海にも残るのだと、初めて知った。
「――まだ、見てるのか? 何もねえだろ」
「海、ある」
「そりゃあな……飽きねえか?」
船のへりに腰かけたリトが、呆れたように振り返った。
背負子の私は、船から突き出る形の特等席だ。
リトは、変なことを言う。まだ、出発して間もないというのに、そんなすぐに飽きるわけがない。
海面が随分下に見えるけれど、おそらく背負子の高さ含め3メートルあるかないかだろう。
目を凝らせば、時折生き物の姿が見える。
まるで、間違い探しのように、ずっと続く同じような海面から突き出た、生き物や海藻の一部。
ピン! と海中から飛び出してくる何か。
浮かんでいる、何か。
光の加減で、水中が中々見えないけれど、スッと何かの影が見えることもある。
これに、飽きる人がいるのだろうか。
目を皿のようにして、出発前にかき集めてきた知識と照らし合わせながら、少しずつ図鑑を埋めていく。
ふいに、リトの手が私の顎を持ち上げた。
「ふはっ、くっきり跡ついてんじゃねえか。痛えだろ」
「痛いない」
もみ、と私の頬の形を整えるように揉まれて、背負子の跡がついていたのだと気が付いた。
なるほど、触ってみれば、ほやほやの頬に凹凸がある。
「そろそろ安定するから、下りるか? でも、絶対船べりに登ったりするなよ? 急に揺れることもあるから、そもそも船べりに近寄るな――って条件なら、背負子と下りるの、どっちがいい?」
「おりる!」
海を覗くのも捨てがたいけれど、自由の身で動き回れるのは、もっと魅力的だ。
言われて見回すと、船内にいた一般客も甲板を覗きに来ている人がいる。
船は、上下していた最初の頃より随分落ち着いて、海面を滑るように進んでいた。
波があるはずの海は、私の目には割と平らに見える。これなら、あまりふらふらもしないだろう。
やっぱ下りるよな、なんて苦笑したリトが渋々背負子を片付け、私を下ろした。
不思議な感じはするけれど、停泊しているときよりも安定して立てる。船の速度によるものだろうか。
「ぱんたち、出てもいい?」
「ペット連れもいるからなあ、こいつらなら迷惑にならないだろ。いいか、お前らもリュウから離れるなよ? あと、海に落ちても助けねえぞ」
「どうちて?!」
カバンの中に向かって言い聞かせている言葉を聞いて、仰天して見上げた。
「あのな、召喚獣なんだよ。送還しろ。俺がお前を置いて飛び込む方が、よっぽどリスクが高いんだよ!」
「きゃう!」「ピルルッ!」「ククイッ!」
「よし、お前らの方が聞き分けが良いな」
リトと3体が通じ合っている。
どうやら、3体はそれでいいと言っているよう。私が、再召喚すればそれでいいから。
ちゃんと、また来てくれると約束してくれたようで、への字口をしていた口元が緩んだ。
そうか、3体はちゃんと、私がまた喚んでくれると思っている。私が、違う魔物を召喚するだなんて、思っていない。
だったら、私も、いつ呼んでも3体が来てくれると信じていればいい。
「でも、落ちたらきっと怖い。気をちゅけること!」
神妙な顔をして頷く3体と、なぜか吹き出しているリト。
カバンから出してもらった3体は、サッと位置に着いた。
ガルーは肩に、パンはぴたりと私の足に沿うように。キンタロは、パンの背中に。
完璧な配置だ。これなら誰にも迷惑をかけない。
「じゃあ、りゅー行ってくる」
「どこへ行くんだどこへ?!」
振り返ってりとに手を振ると、リトが慌てて腰を浮かせた。
「船の、構造確認と、安全性のちょうさ」
「あー。うん、そうか……」
どうやらOKのようだと判断して、まずは甲板から。
「でっき材質、転落防止柵、問題なち! きれちゅ、破損なち! ろーぷ、物品の固定、問題なち!」
びし、びし、と一つ一つ、指さし確認を行う。
真剣な顔でそれぞれ一緒に確認した3体も、鳴き声で返事をした。
「安全せちゅび――」
救命物品のチェックを、と見回して首を傾げる。
リトの足元まで駆け戻り、長い脚に掴まって見上げた。
「りと、安全せちゅびは?」
「安全セチュビってなんだ?」
「きゅーめー胴衣や浮き具、ひなん経路や消火せちゅび」
うん……? としばらく首を傾げていたリトが、思い至ったようにぽんと手を打った。
「ああ、避難経路と消火設備? そんなもんあるかよ、避難経路も何も、周りは海だぞ。どこへ逃げるっつうんだ。で、周りが海なんだから消火設備がいるわけねえよ。水だらけだぞ」
「……じゃあ、転覆やざしょうの際にちゅかう、浮き具は?」
「そんな縁起でもねえもんがあるか! そもそも、海で浮いてりゃすぐ魔物に食われるわ」
ええ……。
なんと楽観的な。いや、むしろ悲観的なんだろうか。
そうなったらもう終わり、と言わんばかりだ。
だけど、仕方がない。こんな状況では、他も思いやられる。
私は真剣な目をして、船内のチェックへと移ったのだった。