123話 布一枚
ふあ、とあくびをひとつ。
温かなリトの腕の中、長い坂道を下っていく。
朝早くなくていいと言っていたのに、私が図書館へ行く時間に比べれば随分早いと思う。
どうりで、いつも寝ている時に起こされると思った。
リトはいつも私を起こしてから行く。
くどくどと毎回飽きもせず注意事項を一通り伝えて、半分以上寝ている私を振り返り振り返り、何なら扉まで行ってから再び戻って来る。
私の方はすっかり慣れたというのに、リトはいつ慣れるんだろうか。
だけど今日は、いつもの儀式はナシだ。だって、一緒に行ける。
口の中に残るはちみつパンの味をもう一度反芻しながら、目の前で揺れる毛束を眺めた。
そして、ディープブルーに縁どられた精悍な顔を見上げる。
真正面からの朝日に少し細められた銀の瞳、高い鼻梁。瞳を隠すまつげで、影ができているのを見つけた。
「寝るなよ? つうか、まだ口ん中残ってんのか?」
「りゅー、寝てない」
腕の中、ほとんど横になって寛いでいた体を起こすと、バッチリ起きていると示すよう瞬いてみせる。
「そうか? お前の目はいつでも眠そうに見えるからな」
失礼な……こんなに大きな目なのに、どうしてそう見えるのだろうか。
そして、はちみつパンが残っていると疑ったリトが、ぐいぐい口元を拭いてくる。
「パンない!」
「ホントかよ……なんか甘い匂いするぞ? 手は?」
こんな小さな手の中に、パンが隠せるわけがない。
ぱっと目の前に広げた小さな手をとると、リトは渋い顔をしてちょっと舐め、丁寧に拭った。そういえば、少しばかりぺたぺたはするかもしれない。でも、パンは残ってない。
「そんなんじゃ、魔物に集中攻撃されるぞ。リュウのはちみつがけだ」
「しゅいーちゅ?」
「嬉しそうにすんな!」
中々美味しそうかもしれない、と考えて笑ったら怒られた。
「りとのはちみちゅがけは、美味しそうない」
反撃のつもりでそう言うと、リトは『だろうよ……』とげんなりした顔をする。
「お前はただでさえ狙われるんだからな、他の要素まで乗っけるんじゃねえよ」
「でも、りゅーお外行かない。りとがいる時だけ」
「そうかよ……お前さ、そういう時だけ頼るよなぁ」
不貞腐れるように離れた視線が、前を向いた。
「……りと、かっこいい」
「――っ! うるせー! 感づいてんじゃねえわ!」
「過保護者……さすがに聞いてる我も恥ずかしい。お主、中々の独占欲でッ――」
ビシッと弾かれたファエルが、後方へ飛んで行った。
朝日に照らされて、リトの顔は随分赤く見える。
何となく可笑しくて、によによ笑った頬は、リトの熱い手でつぶされたのだった。
「――んー、都合よくいい依頼はねえよな」
壁面の依頼を眺めたり、綴られたファイルをめくったり。ギルドに着いたリトは、まっすぐ依頼が掲示されているエリアに向かって、真剣に選んでいる。
やはりこの辺りに人は集中するけれど、私が潰されるほどではない。
チャンスとばかりに、一気に壁面依頼へ目を通し、棚にあるもの、ファイルの中、片っ端から記憶倉庫へ納めようと――
「やめろって」
集中して意識を飛ばす寸前、ぎゅっと鼻をつままれた。
「ギルドでやるなっつったろ? 魔法の気配に敏感なやつもいるからな」
だけど、今はリトがいるのだから、魔法を使ったのはリトだと思われるだけだと思う。
むっと頬を膨らませつつ、渋々通常記憶で地道に情報収集を始めた。
「あれっ、リトさんこんな時間にどうしたんすか?」
ふいに弾むような声音が聞こえ、駆け寄って来る足音がする。
「別に、どうってこともねえよ」
スッと……リトの表面に布が一枚、下りたような気がした。
「だけど、この時間じゃリトさんが受けるような依頼なんて……あ、そうか! デカいヤマなら手つかずで残ってるから、それを?」
冒険者らしき青年がまた一歩近づいて、剣と装備がカチャリと鳴る。
リトしか見てない瞳がきらきらしていて、この人はきっとリトが好きだと思う。
苦笑するリトがさりげなく体をずらして、いつの間にか私の視界が塞がれている。
「デカいのなんて受けねえよ。若くねえから、ほどほどでいいんだよ」
じゃあな、と言わんばかりに上げられた手。柔らかいけれど、手触りはいいけれど、やっぱり見えない布はそこにある。
「何言ってんすか! リトさん俺よりちょっと上なだけでしょ?! バリバリ活躍を……そうだ、今日の討伐一緒に受けません? リトさんなら誰も文句ないっす! 何なら指導料払うんで――」
カチャリ、カチャリと装備が鳴る。
いつの間にか確保していたリトの距離を、青年がまた縮めた。このままでは、そのうちリトは壁に追いつめられるのでは。
面白くない。
私なりに素早くリトの後ろから飛び出すと、力いっぱいその人を突き飛ばした。
カチャ、と装備が鳴って……それだけ。
「わっ?! なんだ?! 君、誰……じゃねえわ! お前、あの時の!」
揺らぎもしなかった青年が、自分で一歩足を引いて目を見開き、私に指をつきつけた。
「リュウ~~お前な、察しろよ! めんどくせえことになるからと思って……うん?」
同時に、額に手を当てて大きなため息を吐いたリトが、訝し気に顔を上げた。
「あの時の……?」
「そう! そうっす! このお人形さんみたいな顔、間違いないっす! 俺をタダで使ったちび助! ……え? リトさんの知り合い?」
ふわ、と体が浮いた。
間近になった瞳が、尋ねるように私を見つめている。
そう、この人。こくり、と頷いて見つめ返す。
こんなにうるさくなかったし、こんなにきらきらした目をしていなかったけれど、確かにあの時の『かっこいいお兄さん』だ。
「えーと、リトさん? その子、どうしたんすか? あっ、もしかして要人護衛中?! やっぱいいとこの坊ちゃんってヤツで?!」
私は、これみよがしにリトの首に身を寄せた。だって、リトが好きなら、リトを持って行ってしまうかもしれない。そうか、だから面白くないのだ。
「……なんの討伐だ?」
ふいに口を開いたリトが、全然関係ない返事をした。
案の定、戸惑った青年が脳みそをフル回転させているのが分かる。
「え、え? 討伐? ……はっ! もしかして一緒に行ってくれるとか、そういう?!」
嬉々として詰め寄ろうとした青年に、咄嗟にファエルを投げた。
「うわ、何……カエル??」
「汚い手で触るでないわ! ……よりも先に弟子ぃ?! 今、我投げた?!」
中々、反応が早い。さすが、私が強そうだと判断しただけある。顔に当たるより先にキャッチされ、むっと唇を尖らせた。
「何でもいいや、リトさん、行きましょ! 気が変わらないうちに!」
ぽいっとファエルを放り投げ、青年は尻尾を振る犬のように前に立って、振り返り振り返りリトを連れて行く。
「ちなみに今は馬車待ちなんすけど、討伐はフェルウルフっす! 数がいると俺らのパーティでも厄介だなと思ってたんすよ!」
幸い、書籍的な知識は習得済みの魔物だ。群れで行動する、割と獰猛な狼型の魔物。
魔法を放ったりはしないけれど、素早いし力も強いのでここらでは強い部類のはず。
「フェルウルフか……」
リトが眉根を寄せて私を見た。この顔は多分、私を連れて行ったら危ないとか、そういう顔だ。
「りゅー、大丈夫」
「大丈夫じゃねえわ。お前、ひと噛みでアウトじゃねえか」
「大丈夫、りとがいる」
頭の痛そうな顔をしたリトが、何か小言を言おうとしたところで、遠慮がちでちっとも遠慮してない声が割り込んできた。
「あのぅ、依頼受けてくれるっつうことは、つまりその子って護衛対象じゃないってことっすよね。馬車まであんま時間ないっすよ、どこに預けます? ってか、何なんすか?」
じっと私を見る目が、不審そうだ。
負けじと睨み返す私に苦笑して、リトがちょっと笑った。
「俺の、相棒だ」
さらりとその唇を滑り出た低い音が、理想的な形でもって私の鼓膜を揺らしていく。
私の顔を見て、リトがふっと笑った。
ちゃんと見ただろうか? 私は、とても素敵に笑ったと思うのだけど。
「え? は? え??」
その場には、ぽかんと立ち尽くした青年だけが、置き去りになっていたのだった。