09 魔物の襲来 1
「早いもので、ここへ来てもう三か月ですな」
「そうね、あっという間だったわね」
夏だった季節が一つ進んだ。
温かいレモネードが美味しく感じられる。
しみじみと呟くブノワは、せっせと私の聖歌集を写本している。
調べてみると、祖母から譲られた聖歌集はサースフィア国が発行した、この国では手に入らないものだった。
もちろんベルタン家の書庫にもなかったので、資料として保管したいとロジェ様から申し入れがあったのだ。
では自分用にと魔道具で複写しようと試みるも、複写禁止の処置がなされていた。仕方ないので、手書きで一文字一文字丁寧に書き写している。……ブノワが。
「こういうことは、爺にお任せください。以前は、先代に頼まれてよく写本したものです」
なんて言って手際よく進めるものだから、私は間違いがないかをチェックする係である。まあ、何度も練習した曲だから、もう体が覚えちゃってるけどね。
ノリノリで二冊目を転写しているので「もうこれ以上、必要ないわ」と言ったら「何事にも予備は必要なのですよ」と返されたので好きにさせている。
この歌集はブノワにとっても思い入れがあるらしく、当時の経緯を鮮明に記憶していた。
「これは先代が聖女になった時に、先々代である『伝説の聖女』から譲られた、非常に価値のあるものなのですよ。先代がおっしゃるには、その昔、先々代がサースフィア国と共闘した際、親しくなったあちらの聖女様から贈られたんだそうです。見てください、裏に魔術師トニ・ハーパコスキのサインが入っています。かの国でも、今はもう手に入りますまい」
「へえ」
そんな貴重な歌集を自室の引き出しに入れっぱなしだったことに罪悪感を抱きつつ、相槌を打つ。
魔術師トニ・ハーパコスキは、光魔法の聖歌を作った人の一番弟子で、天才と名高い。つまりオリジナルに限りなく近い譜面ということだ。
「廃れてしまった精霊語で書かれていますから、その道の研究者にとっても垂涎ものの一冊でしょうね。やはり、もう何冊か写本しましょう」
昔の魔術師たちは、精霊語で魔法を構築していたらしい。現在では古代語が主流である。
精霊語には文字がないので、書き記すのにサースフィア語の同じ発音の文字を当て嵌めなければならず、使い勝手が悪かった。使われなくなった言語は、次第に忘れられていった。今はもう、わかる人がほとんどいない。
「精霊語だったんだ。道理で発音が難しいと思った!」
やたらと「トゥ」とか「ルゥ」とか、巻き舌の発音が多いのだ。巻き舌のまま歌うと音がね、微妙にずれるのよ。
ずっとこの聖歌集で練習してきたから知らなかったが、近年の聖歌集は「トー」「ルー」に修正されて発声しやすくなっている。なんだかズルイ。
「ズルイとか、何をおっしゃっているんですか。発音は正しい方がいいに決まってます。でないと言葉が通じないでしょうに」
心の呟きを声に出していたらしい。ブノワに怒られた。
「へいへい」
私は適当な返事をして、譜面の確認作業に戻った。
夕刻に差し掛かり、そろそろひと段落つけようかという頃、突然、警報音が鳴り響いた。
領内全域にまで響き渡るウィーン、ウィーンというサイレン音は、緊急戦闘配備だ。
これを聞いたベルタン辺境伯領の軍人は、たとえ休みだろうが寝ていようが、速やかに砦に駆けつけ持ち場で待機する。領民たちは、直ちに避難を開始せねばならない。
つまり、いつものような砦内に流れるだけの、ただの討伐警報ではなく、緊急事態ということだ。
にわかに屋敷の中は、緊迫した空気に包まれた。
「行くわよ、ブノワ!」
「はいっ、ヴィヴィアーヌ様」
本館のことはベルタン家の執事カリエさんに任せることにして、あたふたしながら軍部の放送室へ向かう。毎日聖歌放送をしているここが、私の持ち場だもの。
途中で「ええっ~、ヴィヴィアーヌ様、私たちと一緒に避難しましょうよ」とメイドたちには再三引き止められたけれど、強引に振り切った。
無意識に少しでもロジェ様の傍に行きたかったのかもしれない。
「何があったんですか?」
放送室に到着するなり、私は近くにいた室長のボランさんに尋ねた。
ここには通信系の魔道具が揃っていて、各所への中継ぎ連絡を担当する役目もあるので、様々な情報が集まってくるのである。
「奥様! 避難なさらなかったんですかっ?! ここは危険です」
「ベルタン家に嫁ごうとする者が、皆と一緒に逃げる選択肢はありません。これでも伯爵家の元次期当主だったんです。私にも領を守る者としての矜持があります。邪魔はしません。お願いです、ここにいさせてください」
私が一歩も引かない姿勢を見せると、ボランさんは渋々と状況を説明し始めた。
「ゴブリンとオルトロスの大群です。今は、砦の城壁で阻んでいますが、如何せん数が多すぎます。ゴブリンは悪知恵が働くので、大勢でよじ登ってこられたら、殲滅するのに骨が折れる。もっと厄介なのが、その後ろにいるトロール三体です」
「トロール三体?!」
「はい。私の知る限り、一度に複数のトロールが襲ってきたことは、過去に一度もありません。注意を引きつけて一体ずつ倒すしかない」
想像以上の危機的状況に、手にグッと力が入る。クシャッとした感触に手元を見やれば、先程までチェックしていた転写したばかりの聖歌集のページがシワシワになっていた。
ブノワの顔が引きつった。