10 魔物の襲来 2
ごめん、ブノワ――私は声には出さずに唇の動きだけで謝った。皺の寄ったページをさり気なく伸ばす。
「い、いいのです! また書き直せばいいのですから。今はそれどころじゃありません。城壁が持ち堪えている間に、領民の避難を優先させねば」
ブノワは、我に返るとピシッと姿勢を正した。顔つきがオータン家の家令だった頃に戻っている。
「既に自衛団の先導で避難が行われています。緊急事態を想定した避難訓練が定期的にあるのですが、何分、全住民の移動は初めてのことで時間がかかります」
女性や子どももいるし、どうしてもパニックになってしまうのだとボランさん言う。なかなか訓練通りにはいかないのだ。
「そうですよね」
私だって覚悟していたつもりでも、こんなに胸がバクバクしている。慌てるなという方が無理だ。
「ヴィヴィアーヌ様、聖歌放送用の拡声器で、領民に呼び掛けてはいかがでしょう。むしろ新参者の私たちができることと言えばそれくらいでは?」
「いいですね。奥様、お願いできますか?」
ボランさんが賛同するので、私も頷く。放送席に座り、マイクの準備を始める。ふと聖歌を録音してある魔道具が目に入った。
「ボランさん、移動している間、聖歌を流してみてはどうでしょう? 領民たちの避難中の安全に多少なりとも効果があるかもしれません」
「この際何でもやってみましょう。効果はなくとも、気休めにはなるでしょう」
と、許可が出たところで選曲に入る。あまり迷うことなく一曲目を手に取った。
やっぱり魔物除けといったら『魔よけの雷』よね。
コホン、コホン。あー、あー、テスト、テスト。
私は、マイクが正常に機能していることを確認してから、呼吸を整えた。
ピンポンパンポォ~ン♪
領民の皆様、只今、緊急警報発令中です。
慌てず、騒がず、落ち着いて、先導する自衛団の指示に従ってください。
只今、緊急警報発令中です。
落ち着いて行動してください。焦って怪我などなさらないように。
自衛団の指示に従ってください。
これより皆様の移動中の安全のため、緊急の聖歌放送を行います。
まずは、魔物除けの歌『魔よけの雷』から――……カチッ…………。
ヨーノモッマ ナルッセーミ タガス エ マタキーゾリッシー …………♪
改めて聴くと、私とはちょっと発音が違う。巻き舌の苦労がないなんて羨ましいと思いながら、曲を再生している間、マイクのスイッチを切って一息つく。
続いて二曲目の選曲に入る。定番といえば『聖なるオーロラ』。これは結界魔法。魔物から身を守る効果がある。
この二曲を交互に流すか、他の曲も見繕うか……迷っていると、放送室の扉が乱暴に開けられた。ロジェ様が、息を切らしてやって来たのだ。
「ヴィヴィ! こんな所で何をやっているんだ」
皆の注目を浴びながら、ツカツカと怒っているような靴音を立てて私に近づく。
あなたこそ、現場を放って何をやっているの? という言葉を飲み込んで平然と答える。
「何って、聖歌放送です」
「そもそも録音の聖歌に効果なんてない。ヴィヴィ、お願いだ、避難してくれ。ブノワと一緒に」
「お断りします」
ロジェ様の懇願をあっさりと突っぱねる。
「遊びじゃないんだ。こうしている間にも、トロールが近づいてる」
「わかっています。でも、今ここを離れたら、私は一生後悔します。それだけは嫌なんです。私もこの領の……ロジェ様の力になりたいんです。だって、次期ベルタン辺境伯の婚約者なんですから」
「ヴィヴィ…………」
「ロジェ様、今から避難するよりもここの方が安全ですから、いてもらってはいかがです? 領民たちも奥様の放送で安心するでしょう」
ボランさんが味方をしてくれて、ロジェ様の勢いがなくなった。
「お願いします、ロジェ様」
私が頭を下げるとロジェ様は、説得は無理と悟ったのか「わかった……」とがっくりと肩を落とした。
「くれぐれも無理はしないで。西の砦の城壁が破られたら、なりふり構わず逃げるんだ。わかったね?」
「わかりました。ロジェ様も気をつけて。ご武運を」
私は涙を堪えながらも、せめて明るく見送ろうと放送室の出口まで連れ立つ。扉を閉めてロジェ様と二人きりになった。
赤い瞳と目が合った瞬間、私の唇に柔らかいものが押し当てられていて、キスされたのだと気づいた時には、もう彼の腕の中にいた。
「こんなことになるなら、求婚すべきではなかったな」
柄にもなく弱気なことを言うので、私はロジェ様の背中に腕を回して力いっぱい抱きしめた。
「私はここへ来たこと、後悔していません。もし心残りがあるとするなら………ロジェ様に、私の歌声を聴かせてあげられなかったことくらいでしょうか。あっ! あと『シャイエ』のウェディングドレス!」
「シャイエ?」
「王都のデザイナーです。まだ有名ではないけど、品のあるシンプルなドレスが素敵なんです」
「そうか……生きて帰れたら、早速、注文しよう」
ロジェ様は腕を解いた。「じゃ、気をつけて」と二、三歩行きかけたところで、名残惜しそうに振り返る。
「ああ、そうだ。歌ならあのマイクで歌ってくれてもいいぞ。高性能だから、戦闘中でもしっかり聞こえる」
ロジェ様はニコニコと笑い、踵を返して歩いて行った。
こんな時に冗談を言うなんて。
私は、視界から消えるまで、もう会えないかもしれない彼の後ろ姿を目に焼きつけていた。




